一話 日常の物語 陽
人里離れた鹿人の集落。ここに暮らすのは二百あまりの鹿人たち。その中に、栗色の髪と翡翠の瞳をもつ、ひときわ目立つ少女がいた。今年十六になる村長のひとり娘――カンナである。
カンナの朝は早くまだ日が昇る前の薄暗い時間から彼女は目覚める、カンナが戸を開けると冷たい空気が頬に当たり、草の匂いが肺に入る。彼女はまっすぐ家畜小屋へ向かうと朝はまだ早いというのに鶏が大きな音を立てる。流石にご近所迷惑なので一通り鶏達を静かにさせたた後穀を量り、水を汲み、藁を敷き直す。手を休まず動かしながら目一杯朝の匂いを嗅ぐ、濡れた藁の匂い、干し草と混ざるミントの香り。カンナはこの匂いがとても好きだった。
家畜の世話を一通り終えると、囲いの奥へ行く。そこにいるのが、彼女の愛鹿レレンだ。レレンはカンナが五歳の誕生日に父からもらった子鹿で、10年経った今では立派な騎鹿になっている。そして今日は角の生え変わりの日。レレンはむず痒そうに首を振り、角の付け根を柵に擦りつける。
「よしよし、落ち着いて、いつも通りすぐおわるから」
カンナは角の根元を布で包み、片手で固定し、短刀を抜く。呼吸をそろえ、角の根本の押しに合わせて刃を入れる。血はほとんど出ない。切り離した角は琥珀色の層を見せ、芯は乳白色で、朝露のように艶がある。彼女は薬草を塗り、布で巻いて手当てを終える。切った角は洗って乾かし台へ。
「これでよし、ありがとうレレン」
レレンは喉を鳴らす。カンナが額を寄せると、温い息が髪に触れる。その吐息がとても心地よい。
次に蹄を点検する。乾く季節は割れやすく、雨が続くと柔らかくなる。油を薄く延ばし、小石を針で取り、磨き布で砂を落とす。レレンは少し足を引くが、すぐに重みを預ける。
陽が上がり切る前、縁台を工房代わりにして座る。角の端材を手に取り、線を引き、刃をすべらせ、欠けを磨く。削りかすは細かな粉になって指につく。今日はレレンの額飾りと簪を一本。額飾りには波と風の筋を重ね、中央に小さな穴を開ける。刃は強すぎず弱すぎず、いつもの角度、息を止めず流す。
一通りの作業が終わると、彼女を呼ぶ声があった。
「――カンナ」
背中から名を呼ぶ声に振り向けば、白銀の髪に朝日が透け、琥珀の瞳がまっすぐこちらを見る。幼馴染のシズクだ。彼女は朝に弱く、起きるのは日が登ってからだいぶ後だが毎日この時間には起きてカンナの為に朝食を持ってきてくれる。
食欲をそそるいい香りに思わずお腹を鳴らしてしまう、シズクの持ってくる朝食はとても美味しい、毎日日の出前の早い時間に起きて家事を終わらせるのはこの一時の幸せを全力で噛み締めるためだ。
「いつも凄いね、こんな朝早くから。はい、今日の朝食」
「いつもありがとうね、シズク」
「カンナの為に作る朝食が私の楽しみだからね。さ、冷めないうちにどうぞ」
布包みを開くと、湯気が立つ。麦団子の汁、焼いた根菜、薄く切った燻肉、野苺の蜜で和えた柔らかい葉。暖かい朝食とは違い木の匙を渡すシズクの指はひんやりとしていて、触れたところから涼しさが移る。それでもそんなシズクの冷たいはずの指先が不思議と一番暖かく感じた。
「今日の野苺、すごく甘いね」
「ええ。昨日、森のはずれで野苺を摘んだの。あなた、最近疲れてそうだから、疲れた時には甘い物が一番効くのよ」
「そんなに疲れた顔してたかな」
「うん、でも少し良くなった」
シズクは頬を少し上げ、目は優しく笑みを作る。カンナは匙を咥えたまま口元を緩め、表情を柔らかくする。
食べ終えると、二人でレレンの元へ向かう、今日は約束の日初めてレレンの背にシズクを乗せて二人で走る日、鞍の帯を締め、鐙の長さを合わせる。革は乾き気味なので、オイルを薄く足して掌で温める。レレンは二人の声の調子で空気の色を読むように、落ち着いて足踏みをする。
「怖かったら行ってね、強く抱きしめるから」
「もう十分強く抱きしめてるじゃない、でもありがと」
シズクは深呼吸をし、レレンの首に手を置く。額を軽く触れ、毛並みに頬を一瞬だけ当てる。跨がり、手綱を握る。革の感触は固すぎず柔らかすぎず。カンナは後ろから、シズクを抱き留める。
…..少し密着しすぎかもしれない。
それでもレレンが一歩踏み出すとそんな感情はすぐに忘れ、草が擦れる音が鼓動の間に入る。二歩、三歩、レレンの歩みは駆けになり、風になる。
最初の駆けは短い。丘の肩でいったん脚を落とす。シズクの上体が少し遅れ、カンナは腕で支えを作る。
「鐙に乗りすぎないで。膝で挟むより、腿の外側で寄り添う。そう」
「…うん」
「手綱は引くより、前をゆるして」
「前を……ゆるす」
言葉に合わせて、レレンの首の動きがなめらかになり、耳が一度だけ震える。
広大な草原が目の前に広がる。遠くの山は薄い青で重なり、紺碧の川は太陽の光を反射し平らな光の帯のように見える。雲の影がゆっくり動き、草の穂先が銀色に光る。走ると体が軽くなる。風が頬の熱を奪い、髪の先を揺らす。
カンナは肩越しに言う。
「シズク、見て。雲の影が並んで走ってる」
「知ってはいたけど、こうして“並んで”見るのは初めて。とって綺麗」
「よかった、シズクに喜んでもらって」
「本当に、とっても素敵」
「ずっと前から、こうやってシズクと二人で草原を走るのが夢だったんんだよ」
二人は笑う。レレンの耳がかすかに動く。丘を越えるたび、村が遠くなり、空が近くなる。小さな谷には白い花が揺れ、小川が鈴のような音を立てる。
シズクの頬に赤みが差す。カンナは横目でそれを見て、胸が温かくなる。でもそれを言葉には出さない、この感情をいつまでも閉まっておきたかったから。
集落からさらに離れて走る、草の背丈は腰ほどになり、種の穂がレレンの胸元で弾ける。畑の手入れをする老人が手を額に当て、彼女たちにうなずく。鹿人の暮らしはとても静かで心地いい、鎌の金属音、縄の擦れる音、臼の響き。それらが風景の色を少しずつ濃くする。
「もう少し速く走ってみる?」
「うん、お願い」
「わかった」
蹄が土を強く蹴り、空気が裂ける。涙がにじむ速度。シズクは瞬きを増やして視界を保つ。カンナは肩の動きで緊張を読み、腰を前に押して重心を整える。
風は厚くなる。耳の近くで低い音。草の匂い、土の湿り気、陽の熱。地面からの熱と体の熱が重なるところで、レレンの脚がよく伸びる。
「……カンナ」
「なに?」
「このまま、二人だけで誰も知らないところまで行けたらいいのにね」
「うん、そうだね」
声は風に吸われるが、気持ちは残る。
長い駆けを終え、丘の影で止まる。レレンの肩は薄く汗を帯び、毛並みが光を細かく返す。カンナは軽く地面に降り、手綱を持ったままシズクを見上げる。
「どうだった?」
「とっても素敵ま時間だったわ」
「それはよかった」
シズクは前髪を耳にかける。耳の縁に光が透ける。カンナは頷く。
木の根本に腰を下ろして短い休憩をする。水袋を回し、レレンの頬を拭き、鐙を少し調整する。息が落ち着くと、周りの音が戻る。遠い水車、葉の裏の小鳥、虫の羽音、どれも昼の前触れだ。
「もう一度いこう。今度は私が前に乗るよ」
「わかった」
カンナは軽く飛び乗り、シズクは深呼吸をして、カンナの腰に手を回す、手綱の持ち方を指先だけ直す。
合図なしでレレンは動き出す、シズクは最初こそ驚いていたが、すぐに慣れて、カンナの背中に体を預ける、歩から小走り、小走りから駆けへ。さっきより早く軽い。
「今はレレンの調子がいいよ」
「そうなの?」
「うん、きっとシズクが一緒に乗ってるからかな」
「なんでそうなるのよ」
「知らないの?飼い子は飼い主に似るんだよ」
「余計わからないわよ」
カンナは前を見たまま口角だけで笑う。レレンがもっと速くなり、さら風と同化する。やっぱり今日のレレンはすごく調子がいい、シズクが一緒に乗ってるからだ――カンナはそう思う。
だって飼い子と飼い主いは心を通わせる物、私がこんなにも嬉しいんだもん、レレンが嬉しくないはずがないよね、そう思いながらレレンの首筋を優しく撫でる。
すでに時間は正午に近いが、太陽はまだ柔らかい。湖からの風が暑さを和らげる。湖面の一部が光って揺れ、目に入るたびに瞬きする。丘を駆け降りると体がふっと軽くなり、笑いが腹に浮かぶ。風にほぐされ、頬の内側にだけ残る。
村の姿は丘の向こうに隠れるがもう全く見えない、ここはもう私とシズクの二人だけの世界、いつかこうやってシズクを攫ってしまおうか――カンナはそんな邪な考えを振り払う。
駆けは風になる。風はしばらく二人の間にいて、また草原へ戻る。
草原は、見晴らし台のようにどこまでも続いていた。山襞は遠く薄い青で折り重なり、湖は平らな光として横たわる。雲は広く、影はゆっくり移動し、影の端だけが草の穂先を銀に染める。走れば、体が少し軽くなる。風が頬の熱を奪い、耳を通り抜け、髪の先で遊ぶ。
翡翠の瞳に流れ込んでくる景色はカンナがずっとシズクに見せたかった物。
丘の肩でまた速度をを落とし、呼吸を整える。水袋をひと口ずつ回す。口を付ける前に、シズクは必ず水袋の口を布で拭う。そういうしっかりしたところがシズクらしい。
「指、少し赤いよ、手綱を強く握りすぎかも、痛くない?」
「緊張してるから。けど、痛くはないわ」
カンナは懐から小さな膏薬を出し、シズクの指の付け根に薄く塗る。香りは松と草の混ざった素朴な匂い。塗られるあいだ、シズクは視線を逸らし、耳まで赤くなる。
「ありがとう」
「うん、これで大丈夫そうだね」
日差しは真上に近づく。二人は丘の陰に入って、レレンを立木につなぐ。つなぐ前に、口に草を入れてやり、汗のにじんだ肩を布で拭く。鞍の下の布を少しだけずらし、熱の籠もりを逃がす。蹄のあいだの砂を摘まみ出す。こういう細かい手入れを欠かさないのが、カンナの癖だった。
野の布を広げ、籠の中身を並べる。朝の残りに加えて、干し果、固いパン、香草を挟んだ薄焼き、塩少なめの干し肉。水ではなく、薄い花茶も持ってきていた。
「いただきます」
「いただきます」
草の匂いに混じって、薄焼きの香草の香りが立つ。噛むたびに、香りが強くなる。干し果は酸味が強く、干し肉は噛み切るのに少し力がいる。食べ物の音が静かに続き、風がそれを運ぶ。口数は少ないが、沈黙は重くない。
しばらくして、カンナが切り出した。
「ねえ、シズク……私たち、あと数年したら、男の人と結婚して、子どもを産まなきゃいけないんだよね」
パンをちぎる手が、少し止まる。シズクは視線を落とし、すぐに上げた。
「そうだね、特にカンナは村の娘だし私のこの村唯一の商家の娘、なおさらだと思う」
「シズクは、嫌?」
「“嫌”って言っても、変わらないよ。けど……私は、あなたがちゃんと幸せでいてくれるならそれでいい」
「私?」
「そう、カンナ」
カンナは指でパンの欠片を丸め、黙って頷く。少し間を置いて、シズクが逆に聞く。
「カンナわさ、誰か気になる人はいないの?」
「うーん……トミくんやウルシくんは、かっこいいと思う。仕事も真面目だし。でも――」
「でも?」
「やっぱりなんか違うかな、トミくん達と話ていても結局シズクはレレンのこと考えちゃう」
シズクは小さく笑う。笑うといっても、口元の形が少し動くだけだ。けれど、カンナにはそれで十分わかる。
「それ、トミくん達悪くないじゃない」
「うん、私の問題」
「……それでも、結局は誰か一人を選ばないといけない日が来る」
「うん。わかってる」
シズクは、ちぎったパンをカンナの掌にそっと置く。指先がいつもより長く触れ、すぐ離れる。
「あなたが幸せでいてくれるなら、誰でも――なんて、本当は言いたくない」
「え?」
「……なんでもない」
風が少し強くなる。野の布の端がめくれ、カンナが押さえる。白い花の群れが、風の筋に合わせて同じ方向になびく。鳥が二羽、低く飛び、レレンの耳がそちらを向く。
「ねえ、シズク。もし、女同士じゃなかったら、私たち、もっと――」
「もっと?」
「もっと、簡単に『一緒にいよう』って言えたかなって」
シズクは笑わない。けれど、口元がわずかに弧を描く。その形は、カンナしか知らない。
その言葉に対する回答を私は持っていなかた
(私は、どうしたいんだろう
でもどうせならーーーと)
カンナは肩を竦め、花茶をひと口飲む。少し渋い。喉を通ったあと、体の芯が落ち着く。
食べ終えると、二人は片づけを分担する。カンナは器を拭き、シズクは布を畳む。残ったパンの欠片を小さな袋にまとめ、蟻が寄らないように高い枝に一時的に掛ける。レレンは草を噛みながら、たまに鼻を鳴らす。
午後は、シズクの一人乗りの練習を手伝う。カンナは並走しながら、必要なときだけ声を掛ける。
「右の踵、ほんの少し後ろ。はい、それで真っすぐ」
「……うん」
「手は引くより、前をゆるして。首の動きに合わせて」
「わかった。背中、丸くしない」
最初の二、三歩はぎこちない。鐙に体重が偏り、手綱の引きが強すぎる。だが、合図の意味が伝わってくると、動きは落ち着く。円を描き、八の字を描き、坂道を上がって、下りで歩度を落とす練習。
「今のは少し速いかも、肩が浮いてる」
「……深呼吸」
「そう、息を吐くほうから」
次に、緊急停止の合図を繰り返す。手綱だけではなく、声と体の重心で止める。レレンは素直に反応し、三歩で止まる。止まったら、すぐ褒める。それを忘れない。
「よくできた。レレン、いい子」
シズクの声は小さいが、褒めるときだけは少し高くなる。レレンの耳が、その高さを好む。
休憩の合間に、カンナは草を一本抜いて、簡単な輪結びのお守りを作る。結び目は二つ。ひとつは「二人の誓い」の印、もうひとつは「決して離れない」の印。手綱の金具に結び付ける。
「これ、すぐほどけるのに、ほどけない、そういう結び方なんだよ」
「不思議ね」
「シズクの指だと、もっと綺麗に結べそう」
「じゃあ、帰ったら結んんでもらおうかな」
「うん、任せて」
練習は続く。斜面での停止、横移動、狭い場所の通過。小さな倒木を跨ぐ練習では、レレンが一度つまずく。シズクの上体が前に倒れそうになるが、踏み止まる。
「大丈夫?」
「大丈夫。驚いただけ」
「今の、悪くなかったよ、倒れそうなときほど、目線を先に」
「うん、先を見る」
ひと区切りついたところで、二人は遠回りの道を選ぶ。草が短く、足場が固い。羊飼いの少年が遠くで手を振り、カンナも大きく振り返す。年配の女性が、籠を肩に掛けて小道を渡り、二人に干し果を二つ渡す。
「練習かい」
「はい、シズクが初めて一人で」
「そうかい、いい背筋だ。腰を落としすぎないのがいい」
褒められて、シズクは小さく会釈する。女性はゆっくり歩き去る。その背はまっすぐで、足取りが確かだ。
少し先に、小さな祠がある。通り道なので、手綱を短くして近づき、二人で軽く頭を下げる。祠の屋根は苔で柔らかく、鈴はひとつ。風が鈴を揺らし、短い音が落ちる。音はすぐ消えるが、消えた後に静けさがよく残る。
太陽は少し傾き始める。影が長くなり、風が冷たさを含む。練習の最後に、カンナは横から並びかけ、声を短く切る。
「じゃあ、最後。丘の肩まで、駆け上がって、そこで歩に落とす。」
「うん」
シズクは手綱の持ち方を整え、腰をわずかに前へ。拍車は使わない。レレンの耳がわずかに前へ向き、地面を強く蹴る。草の海が、脚の下で後ろへ流れる。呼吸は乱れない。丘の肩に近づいたところで、シズクの指先が軽く動き、重心が戻る。歩に落ちる。無理がない。止まってから、首を撫でる。
「できた」
「できたね」
二人は顔を見合わせて、同時に笑う。笑いは短いが、よく通る。
帰り道は、行きよりも慎重に。レレンの歩幅は自然に穏やかになり、蹄の音が一定になる。湖の気配は、風の温度でわかる。村の屋根が赤い光を帯び、欄干の影が長く伸びる。
途中、畦で遊んでいた子どもたちが「カンナだ」と声を上げ、駆け寄る。ひとりがレレンの首を撫で、もうひとりがシズクに質問をする。
「いいなー、僕も早く乗りたい」
「ハルくんはまだ小さいからだめだよ」
「じゃあ後どれくらい大きくなったらいい?」
「うーん、じゃあ後5年経ったらお姉さんが乗せてあげよう」
「ほんと!約束だよ」
子どもたちはすぐに別の遊びに戻る。短い会話は、それで終わる。
村の境に近づくと、道は固い土から踏み石に変わる。石の継ぎ目に小さな草が生え、陽を受けて明るい。どこかで臼の音がして、どこかで鍋の蓋が鳴る。夕餉の支度が始まっている。煙は薄く、高く。
レレンの背で、シズクがふいに口を開く。
「あ〜あ、カンナが男の子に生まれてきてくれればよかったのに」
カンナは前を向いたまま、わざとらしく肩をすくめる。
「大丈夫だよ、私は結婚しても、シズクとずっと一緒にいるよ」
「本当に?」
「本当」
「どうやって?」
「やり方は、これから考える。考え続ける」
夕日の色が、二人の影を一つに重ね、レレンが鼻をひとつ鳴らす。
村の家々からは、煮炊きの匂い。味噌の香り、焼いた魚の匂い、炊いた穀の蒸気。井戸のほうから笑い声。干し網の間を、風が抜ける音。鳥が二度鳴き、鈴が一度鳴る。
カンナは鞍から軽く降り、手綱を引いて門をくぐる。シズクも遅れて降りる。二人とも、足元を確かめるように一歩一歩踏む。今日は長く走った。足は少し重いが、痛くはない。
「レレン、ありがとう」
首を撫で、汗を拭き、丁寧に水をやる。蹄に砂が挟まっていないか最後に確かめ、鞍を外して布を掛ける。レレンは大きくあくびをして、目を細める。
「明日は簪の仕上げをするつもりなんだ、額飾りも」
「うん……あ、あの鈴も?」
「うん、小さいやつ。走ると小さく鳴る」
「楽しみだね」
門の外は、もう赤が薄れて橙になっている。屋根の上を鳥が横切り、光のような速さで消える。空の高いところには、まだ昼の青が残っているが、すぐに灰に変わるだろう。
「じゃあ、今日はここで、夜ご飯の支度、手伝おうか?」
「カンナの分は、もう仕込みのすませてあるし後は調理して持っていくだけだから大丈夫だよ」
「さすがシズクだね」
「じゃあいつもの場所で待ってるね」
「うん、じゃあ、あとで向かうね」
二人は目を合わせて頷く。家までの短い距離を並んで歩く。レレンの歩みはゆっくりで、足音が石を数える。
角を曲がると、カンナの家の前に灯が入る。母の影が障子に映り、台所の音が規則正しく聞こえる。隣の家の犬が一度だけ吠え、すぐ黙る。
「また明日も、一緒に乗ってもいい?」
「もちろんだよ」
「明日は、湖の縁まで行ってみたいな」
「風が強くなければいこっか」
計画を交わし、シズクは一歩だけ近づいて、カンナの手をそっと握る、まるでその短い別れを惜しむように。
「それじゃあ、また後で」
「うん、また後で」
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