猿猴川の河童
やっぱり河童は存在した!
僕はそう思わずにはいられなかった。
だって、今目の前に居るんだもの!
でも、変だな。毛が生えてるし、茶色いし、お皿もないみたいだ。
こいつ、本当に河童なのかなぁ?
河童は相変わらず驚いた顔で僕を見つめているし、僕も驚いたまま河童を見つめている。
学校からの帰り道、猿猴川の川辺を歩いていて、ふっと川を覗いてみたら顔を出していたこの河童。
目があってしまってから、ずっとこの状態が続いている。
見つめあってから、どれくらいの時間が過ぎただろう。そろそろ疲れてきた。
そんな時、突然ふっと風が吹いて、僕は思わず目を瞑ってしまった。
その途端、
ボチャン!
河童は川の中に逃げていってしまった。
僕は河童の居なくなった猿猴川を、ただじっと見つめていた。
本当にあれは河童だったのかなぁ?
家に帰った僕は河童のことをお爺ちゃんに話した。
お母さんは信じてくれなかったけれど、お爺ちゃんは僕にこんなことを教えてくれた。
「それはな、多分猿猴じゃろう」
「猿猴?」
と僕は聞き返した。
「そう、猿猴じゃ」
「河童とは違うの?」
「一緒よ。ただ、この辺りでは昔から河童のことを猿猴と呼んどる」
「へぇ」
僕は今まで知らなかった。
そういえば、橋の名前も猿猴橋だ。
「昔からこの辺りには沢山の猿猴話があってな、それで川の名前も橋の名前も猿猴と名付けられたんよ」
僕はそれからすぐにまた猿猴橋に行った。
まだあの猿猴がいるかもしれない。
僕は期待を胸に走った。
猿猴橋から体を乗り出して、川を覗き込む。
でも、猿猴の姿はどこにも見当らない。
どこか別の場所へ行ったのかなぁ?
そう思った僕は、場所を変えることにした。
駅の前の新しい橋まで行った僕は、またそこから体を乗り出す。
道行く人が僕の方に目を向けるけど、そんなことは気にしない。
もしかしたら、橋の下にでも隠れてしまったのだろうか?
それとも、もうお家に帰っちゃったのかなぁ?
そんなことを思っていると、友達の一樹くんが自転車に乗ってやってきた。
「なにやってんの?」
一樹くんに聞かれて、
「猿猴を探してんの」
と僕は答えた。
「猿猴ってなに?」
「河童のこと」
そう答えると、一樹くんは笑いだした。
「河童なんて居るわけないじゃん」
「でも、さっき見たもん」
「本当に?」
「本当に」
それから僕は一樹くんと一緒に猿猴を探すことにした。
川の方まで下りてみたけれど、やっぱりどこにも見当らない。
「本当に見たん?」
「うん」
そろそろ探すのにも飽きてきた僕たちは、猿猴を探すのを諦めて一樹くんの家で遊ぶことにした。
川に沿って歩いていると、面白いものが立っていた。
「これ見て」
僕は一樹くんを呼び止めて、その石の像を指差した。
それは河童の石像だった。
「やっぱり居るんだよ、猿猴!」
「そうかなぁ?」
一樹くんは首を傾げて呟いた。
その時、
ポチャン!
川の方から音がして、僕たちは慌てて川の方に目を向けた。
居た! 猿猴だ!
猿猴は水面をゆっくりと泳いでいた。
不思議なことに、猿猴の周りには波も立っていない。
「ほらほら、やっぱり居た!」
僕が言うと、一樹くんは無言で頷くだけだった。
それから猿猴はまた、
ポチャン!
と音をさせて、姿を消してしまった。
「ほう、また見たんか」
家に帰ってからお爺ちゃんに言うと、お爺ちゃんは嬉しそうにそう言った。
「お爺ちゃんも見たことあるの?」
「昔はな。でも、今は全く見かけんようになったなぁ」
「なんで?」
「う~ん。やっぱり人のせいじゃないかなぁ?」
「人の?」
「うん。人がどんどん川を汚すから、猿猴の数が減ったんかも知れん」
「そうなんだ」
「たぶん、じゃけどな」
お爺ちゃんはそう笑って答えた。
それから毎日僕は猿猴川を見ながら帰った。
でも、猿猴はなかなか出てこない。
家に帰ってからも何度か来てみたのだけれど、どんなに待っても猿猴は出てこなかった。
河童は胡瓜が好きだというから、家からこっそり持ってきた胡瓜を川に投げてみたけれど、やっぱり猿猴は出てこない。
「どこか別の場所にでも引っ越したんじゃろう」
お爺ちゃんはそう言ったけれど、僕は諦めずに川に通い続けた。
お母さんは危ないから川には近付いちゃ駄目だって言うけれど、それでも僕は毎日毎日猿猴に会いにいった。
それから一ヵ月くらいたったある日、僕はついに猿猴と会うことができた。
猿猴は僕の方に顔を向け、ただじっと見つめているだけだった。
僕も負けずに睨み返してやった。
猿猴は猿のような顔でくちばしがあり、お皿は茶色い毛におおわれていて見えないものの、姿形は河童そのものだった。
猿猴は大人には見えないらしく、大人たちは気にする様子もなく僕の後ろを通り過ぎていく。
猿猴は時々長い手で頭の天辺をさすり、パチパチと瞬きをした。
僕も猿猴の真似をして頭の天辺をさすり、瞬きをする。
猿猴はそんな僕を見て首を傾げ、こちらにお尻を向けてオナラをした。
物凄く臭い匂いが僕の方に漂ってくる。
僕が鼻を摘んで臭さに耐えていると、猿猴は再びこちらに顔を向け、面白そうに笑っていた。
それから毎日、猿猴は僕の前に姿を現すようになった。
僕は猿猴の真似をして、猿猴は僕の真似をした。
僕が胡瓜を持って行って川に投げると、猿猴はそれを受け取っておいしそうにバリバリ食べた。
でも不思議なことに、一樹くんを連れていくと猿猴は出てこない。僕ひとりの時にだけ、猿猴は姿を現すのだ。
お母さんは、
「あんまり猿猴に近付くと、川に引きずり込まれるよ」
なんて言って心配するけれど、僕は猿猴はそんなことしないと思う。
どうしてかって聞かれても、答えることはできないけれど。
お爺ちゃんは、
「あれが最後の猿猴かもなぁ」
と言いながら、僕に胡瓜を買ってくれた。
もちろん、猿猴にあげるためだ。
お爺ちゃんも猿猴に会いたがっていたけれど、お爺ちゃんにはやっぱり猿猴が見えないみたい。
ただ猿猴が食べる胡瓜だけは見えるみたいで、空中に消えていく胡瓜を面白そうに眺めていた。
ある日の朝のこと、学校へ行こうと玄関のドアを開けると、玄関先に魚が二匹置いてあった。
僕は猿猴がくれたものだって解ったけれど、お母さんは気味悪がってその魚を捨ててしまった。
「もう絶対に川にいっちゃ駄目」
お母さんは僕を叱った。
次の日の朝も、また次の日の朝も、玄関の前に魚が置かれていた。
ついに僕は猿猴にお別れを言わなければならなくなった。
だって、お母さんが可哀相なんだもの。
猿猴橋から川を覗くと、いつものように猿猴が居た。
僕を待っていたかのように、早く遊ぼうよというように、手を振っている。
でも、僕は言わなくちゃいけない。
「もう、君とは遊べないんだ」
僕が言うと、猿猴は丸い目をぱちくりさせて、首を傾げた。
「お母さんがね、君のこと気持ち悪いって。もう遊んじゃ駄目だって言うんだ。だから、もう僕、ここに来れない。ごめんね」
猿猴は僕が言っていることが解ったのか、こくりと頷くと、
ボチャン!
川の中に消えてしまった。
それからどんなに川を覗いても、猿猴は出てこなかった。
すごい風と、すごい雨だった。
台風が来たから、その日はすぐに学校が終わったのだ。
学校から帰る途中、僕は猿猴が心配になって久しぶりに猿猴橋に向かった。
強い風が僕を転けさせようとする。
強い雨が僕の足を掴もうとする。
それでも僕は足を踏張って猿猴川に行った。
やっぱり猿猴の姿は見当らなかった。
無事でいてくれたら良いのだけれど。
そう思いながら、僕は橋から身を乗り出して川の様子をうかがう。
一瞬の出来事だった。
僕の背中を風が押して、僕はそのまま橋から川へと落ちてしまった。
僕はびっくりして何もできなかった。
気付いたときにはすでに川の中。
風と雨が僕を水の奥へ奥へと引っ張る。
なんとか川辺に向かおうとしたのだけれど、僕にはそれだけの力がなかった。
僕の口の中に、どんどん川の水が入ってくる。
息ができない!
苦しい!
冷たい!
誰か!
僕は夢中になって藻掻いた。
だけど、どうにもならない。
橋の上の方では、落ちた僕に気付いた大人たちが、
「大丈夫か!」
と叫んでいる。
僕は必死になって泳ごうとした。
必死になって川から出ようとした。
そんな時だった。
川の中から誰かが現われて、僕の体を抱いて、川辺の石段の方まで運んでくれたのだ。
僕はそれが誰だったのか解らなかった。
川から助けあげられて一番最初に見たのは、見知らぬおじさんの顔だった。
その周りにも数人の大人が居た。
「おい、大丈夫か?」
「救急車だ、救急車を呼んでくれ!」
「息、してるよな?」
そんな声ばかりが聞こえてきて、僕はそのまま眠ってしまった。
目が覚めると、僕は病院のベッドに寝かされていた。
すぐ横ではお母さんが涙を流している。
「良かった! 本当に良かった!」
お母さんはお父さんに支えられながら、そう苦しそうに言っていた。
「大丈夫か?」
お爺ちゃんが僕の顔を覗き込んで、僕は「うん」と頷いた。
お爺ちゃんが言うには、お母さんは僕の目が覚める前まで、河童が引きずり込んだんだと叫んでいたらしい。
僕はお母さんに、なんて言ったら良いのか解らなかった。
ただ、
「ごめんなさい」
としか言えなかった。
「誰が僕を助けてくれたの?」
僕がお爺ちゃんに聞くと、お爺ちゃんは不思議な話をしてくれた。
あの風と雨の中、僕自身が川辺の石段の方へ流れてきたというのだ。
でも、僕は誰かに抱かれて石段まで運ばれた記憶がある。
それをお爺ちゃんに言うと、お爺ちゃんは、
「それじゃぁ、もしかしたら猿猴が助けてくれたんかもしれんな」
そう笑顔で言ってくれた。
しばらくして、僕はもう一度猿猴橋に行ってみた。
やっぱり猿猴は出てきてくれなかった。
お礼を言いたかったのに。
僕は持ってきた胡瓜を一本、川に向かって投げ飛ばした。
投げた胡瓜は川に、
チャポン
と音を立てて落ち、そのまま浮かんでこなかった。
今でも猿猴はここに居る。
僕はそう思った。
おしまい。