第一話 虎と小 四
「なんだこれは!」
恵元堂を表から見る南町同心佐々木の目には、異様な光景が広がっていた。
反物を繋ぎ合わせ、ぐるぐる巻きにされた建物など見たことがない。
しかも水を含ませているらしく、ひたひたと水滴を垂らしていた。
「あいつら店ん中で何やってんでしょうね」
と、先程、虎弥太にぶん投げられた野次馬の男が耳打ちをした。
佐々木は反物をくぐり、戸をこじ開け、中に入ってきた。
野次馬の男もそれに続くと、仁王立ちする虎弥太を周りを歩き、上から下まで舐めるように睨めつけ、
「佐々木様、こいつですよ、俺に暴力をふるったのは!」
だが、虎弥太に睨みをつけられると、男は佐々木の背後に隠れた。
佐々木は右手で十手を虎弥太の顔に突きつけ、
「お前があれを恵元堂にやらせたのか?」
と、左手の親指で入口に見える店の周りに巻かれた布を指した。
「インチキ霊媒師か何かか、お前は。
暴力までふるったそうだな?」
「そうです、いきなり俺をぶん殴ってきたんです」
佐々木の後ろに隠れ、野次馬の男は喚き散らしていると、奥から弥右衛門と番頭の喜八がやってきた。
着物なしの一人に選ばれた喜八は顔に不満を浮かべている。
しかし、そこは店を預かる番頭だ、事細かに事の顛末を佐々木に説明すると、分が悪くなった男はさらに叫んだ。
「う、嘘だ!
こいつらはグルになって佐々木様を騙そうとしているんです!」
その時である。
虎弥太の刀が小さく甲高い音を立てた。
(刀が鳴ってる?ちゃんと手入れはした。
こんな時に壊れてるわけはねえよな)
音を不思議に思い、ふと刀に手をやる虎弥太を見た佐々木は、
「貴様!抜くつもりか!血迷ったか!」
と、一喝するも、佐々木の目の前を何かが過ぎった。
エーテルだ。
虎弥太は械掛刀に手をかけ、
「これが最後の忠告だ!
とっととここから出ていけ!
お前らの命は俺の仕事の勘定には入ってねえんだ!
『おから』にされても知らねえぞ!」
と、怒鳴りつけた。
「は?『おから』?
貴様!何を言ってる!」
佐々木におからの意味は分からぬが、これを脅しと取り抜刀しようとしたが、目の前の空間が不意に歪み、それに気を取られた。
まるでそこだけ水槽越しに見ているようだと思ったその時、歪みは佐々木に襲いかかった。
いや、襲いかかったと言うよりは、佐々木の体を包み込んだと言った方が正確か。
佐々木の顔は土気色に変わり、まるで水に溺れたように苦しみ出す。
「チッ!!」
虎弥太は舌打ちし、柄頭の房紐を力強く引くと、一気に抜き放った。
柄の中の械掛が起動音を発した。
それに呼応するかのように、刀の輪郭がぼやけた。
刀身の外周を刃の帯が流れる水のように循環しているのだ。
これに一度斬られるのは、数十余の斬撃に匹敵した。
「言わんこっちゃねえ!このくそ馬鹿同心!」
虎弥太は大上段に振りかぶり、佐々木ごと斬ろうとしたが、エーテルは佐々木をぎこちなく笑わせると体から抜け出すと、今度は野次馬の男に憑依した。
佐々木は肌を乳白色に変え、水気のないおからのようになったかと思うと、重たい音と共に崩れ去ってしまった。
虎弥太の言う「おから」とはこの事である。
エーテルに憑依された者に待っているのはこの結末で、助かる道は、ない。
「言うこと聞かねえから……お前ら悪く思うなよ」
歯を食いしばり、喉の奥から絞るような声をかけると、袈裟斬りにし、男を溺れるような苦しみから解放した。
崩れ落ちる野次馬の体から、水色と赤色に点滅しながらエーテルが抜けでてきた。
眉間と鼻に怒り表す皺を浮かべ、械掛刀を水平に薙ぎ払うと、細切れになったエーテルは蒼い煙となり、消えた。
と、同時に男の身体もおからになり、音もなく崩れた。
振り向くことなく、虎弥太は弥右衛門と喜八に、
「あんたらは無事か?」
と、問いかけると2人とも頭を振り、言葉にならぬ返事をした。
刀を納め、振り返り、
「予定外の死体二人は後味悪いが、これで依頼は果た──」
天井を何かが飛ぶ気配がする
「して、ねえようだな」
まだエーテルがいるのだ。
怯える弥右衛門と喜八に、虎弥太は自分の着ていた深緑のフード付コートを被せてしゃがませ、再び械掛刀を抜き放ち正眼に構えた。
「その服には、塩とミョウバンをたっぷりと吸わせてある。
そこから出なけりゃ奴に憑かれずに済む……分かったな」
服の下から消え入りそうな返事がした。
「上か!」
天井に蒼い影がチラチラと走った。
間違いなくエーテルがいる。
虎弥太は脇差の房紐を引き、械掛を起動させると、天井目掛けて投げつけた。
だがすんでのところで脇差から逃れたエーテルは、虎弥太目掛けて急降下を仕掛けた。
が、素早下から襲いかかるエーテルを斬りあげた。
手応えはあったが、
「浅いか!」
刀はエーテルの裾を斬り裂く程度でしかなかったが、その衝撃で地面にもんどりを打ち、地面に転がる。
追い討ちとばかりに刀を突き刺すも、エーテルは死体になった二人を蹴散らすように切っ先から逃げた。
その際に、辛うじて形の残る佐々木の頭が飛ばされて、コートの中で怯える喜八に当たった。
何かが当ったと感じた喜八は、恐る恐るコートと地面の間の隙間を指で広げ、外を覗き見る。
崩れかかった佐々木の頭から、腐食した目玉が転がり落ちるのが見えた。
それを見た喜八は錯乱し、コートを跳ね除け、店の外へ走り出した。
そこへエーテルが狙いを定め、襲いかかった。
「馬鹿野郎!じっとしてろ!」
虎弥太が素早い動きで間に割って入り喜八の尻を蹴飛ばすと、そのままの勢いでエーテルを斬りつけようとした。
だが、紙一重で急停止し、声とも音ともつかぬものを発すると、店の奥へと逃げ出した。
喜八はというと、虎弥太の蹴りで店の戸の外へ吹き飛ばされ、張られた反物に頭をぶつけ、バネで弾かれたように倒れ、地面に強かに後頭部を打ち、気を失っていた。
虎弥太は頭を抱えうずくまる弥右衛門にコートをかけ直し、
「いいか、指一本出すなよ!」
と、言い残すと、敵を追って駆け出した。
逃げたエーテルは人の気配が集まる、店の奥の座敷に目をつけ、入口の襖を弾き飛ばして、中に飛び込んだ。
切られた腹いせに人間を殺してやろうと思ったか。
だが、部屋の中にいた店の者は、虎弥太の言いつけ通り白い着物を頭から被っている。
エーテルは白いものが見えない
虎弥太が言っていたのは、このことであった。
気配は感じれど姿が見えないことにイラついたのか、手当たり次第に人の気配に憑依を仕掛けた。
だが、たっぷりと着物に吸わせた塩水──つまり塩が阻害して、憑依出来ず、何度も弾き飛ばされ、風に舞う木の葉のようになっていた。
「てんめえ!こんなとこにいやがったか!」
ようやく虎弥太が追いつくと、間髪入れず、背後から弥右衛門の声がした。
「恵元堂!お前何やってんだ!」
「あの死体の中に一人で待つは怖くて……」
「だからって喜八うっちゃらかしてきたのか!」
「いえ一応は伝法寺様の服をかけて……いやはやしかしこれは」
部屋の中で鞠のように跳ね回るエーテルを見て、
「塩を含ませた服を被るとは、このような意味だったとは……」
と、恐怖を忘れ、しきりに感心した様子だ。
だが、弥右衛門の声に反応したエーテルがこちらに向かってきた。
虎弥太が刀で薙ぎ払うと、ひらりと交わし、何やら気付いたように
静止した後、部屋から飛び出しさらに奥へと飛び去った。
「あっちには何がある?」
「調理場にございます、餡練機やかまど、『こんろ』も」
「ミョウバン水吸わせた反物はかけてあるな?」
「わたくしめがやりましたので大丈夫かと」
それを聞くと、部屋の隅で固まってる女子数人に、
「そこの隅っこ、そんだけ集まりゃ主人入れても隠れられる!
一緒に入れて、着いてこさせるな!」
と、弥右衛門を突き飛ばし、調理場へ向かった。
調理場に追いついた虎弥太が見たものは、赤く変色した先程のエーテルの姿だった。
無機物に憑依する時に体温を上げるので、赤くなるのだ。
だが、そこら中に白い反物は、ミョウバン水を吸わせてい、エーテルは実体を得るべき憑依ができず、苛立ち赤くなったようにも見える。
「へ、イラついてんのかおめえ」
改めて正眼に構える虎弥太を見るなり、襲いかかってきた。
「せいやっ!」
と、素早く刀を振り下ろされ、体の四分の一程を斬り裂くと、エーテルは調理場の床に翻筋斗を打ち、調理場の勝手口まで下がり距離をとった。
斬り落とされた一部は、やはり蒼い煙となり音もなく消え失せた。
虎弥太は手首で刀をクルクル回し、ぱっと飛び上がり、上段から振り下ろした。
だが、寸前でエーテルに太刀筋を避けられ、勝手口を切り裂き、巻いていた反物の封印までも斬ってしまった。
「やべっ!」
追撃を加えようとしたが、エーテルは素早く表に出てしまった。
「弘法も 筆を誤り 半紙破る、じゃねえよ!」
と、意味のわからぬ川柳もどきの自責を吐くと、外へと追いかけた。