第一話 虎と小 弐
本所深川の手代、荘吉が店に帰ったあと、虎弥太もまた家路に着くため小屋を出た。
黒いざんばら頭、黒の「てぃーしゃつ」、流行りの「じーんず」と言った「今風」の出で立ちだ。
険しい顔つきだが、どこか幼さに近い柔らかさがあり、女にはモテなくもない顔である。
四国四藩に長崎の出島と同じ権限を与えられて以来、1番の変化は、虎弥太のような市井の衣服に現れていた。
急速な西洋化が進み、いわゆる「ちょんまげ」頭はほぼ絶滅し、着物姿は格式を重んじる層だけになるまで、そう時間はかからなかった。
今風の若い侍くずれが刀を肩に川べりを歩く姿は、まさに文化の過渡期の象徴かのようである。
さて。
この場所からほど近い浅草寺から北に向かったところに虎弥太の住む長屋、今流行りの言葉で言うところの「あぱーと」があった。
浅草寺に近づくにつれ、人通りが多くなっていく。
この辺りは蒸気化もかなり進んだ。
それに伴い、多くの人が住むようになり、そこかしこに送蒸線が引かれ、蒸継柱で結ばれている。
さながらあみだくじが空を埋めつくそうとするのに似ていた。
ふと、空を見上げた街の空は、空を狭く感じさせる。
やがて自分の住む「あぱーと」に着いた。
従来の長屋は平屋が並ぶ作りだが、アパートは横に三軒並んだ長屋を縦に積んだ形をしている。
だが「あぱーと」より誰が付けたか、縦長屋の呼び名の方が一般であった。
虎弥太はその屋上に住んでいる。
我々の世界でいえばペントハウスと言ったところであろうか。
だがその言葉はまだこの日ノ本にはない──。
縦長屋の入口で朝顔に水やりをしていた一人の中年女性が、虎弥太の姿を見つけると嬉しそうに声をかけた。
名をお香という。
「小さん、おかえり、生きて帰って来れたみたいだね」
「ただいまって、お香さん、そのおちびってのやめてくれねえか?
もう21だぞ?」
「虎の字で虎弥太で威張るより、元の小で小弥太の方が可愛げがあるよ」
「なんで虎の方は声を低くしてキリッとした半笑いなんだ?
馬鹿にしてんの丸出しじゃねえか!」
「あんた背が小さかったもんねえ、ちびちゃんなんて呼ばれてさ。
それを嫌がって虎にする、今日から虎で『こやた』だ!なんてねえ。」
「ガキの頃の話はもういいだろ……それに今はもう五尺七寸(約175cm)だ」
子供の頃を知られてる大人は、腹を立てられないギリギリのところに踏み込んでくるからかなわない。
虎弥太は会話を打ち切るよう、
「で、どこだい、蒸気溜りが出来たとこは」
「こっち!昨日私が見つけたんだ、大工の貞次さんのとこ!」
と自慢げに縦長屋近くの民家の裏へと虎弥太を導いた。
先程川っぺりの小屋で荘吉に言った野暮用とはこの事のようだ。
導かれた先には、無許可で引き込まれた送蒸線が垂れ下がっていた。
金が無いゆえに蒸気を止められた庶民がよくやる手だ。
「またか、貞次のやつ、蒸気止められるのこれでもう何度目だ」
そこには確かに蒸気溜りが出来ていた。
蒸気溜りとは、蒸気が溜まって粘り気のある透き通った青い雲のようなものだ。
空気より重いので、地面に近いところで浮かんでいる。
「だいぶ粘ってきてるな、お香さん、これはやばかったな。
もうちょいで生まれるとこだ」
と、指を指す先に蒸気溜りの中にある蠢く影があった。
それを見て、後退るお香を尻目に、虎弥太は腰から刀を抜き、柄頭にある房紐を引いた。
これは械掛刀に内蔵された超小型の械掛を起動させる、いわば発電機などのスターターロープにあたる。
すぐに刀から械掛の起動音──蜂の羽音に似た音──が鳴り始めた。
鋼糸と革紐で繋がれた刃が、刀身の溝をなぞるように走りだす。
我々の世界で言うところのチェーンソーのようだが、大きく異なるのは、鋸歯でなく、刃全体が循環することだ。
刃が最高速になり、虎弥太は静かに蒸気溜りを数回薙ぎ払うと、たちどころにエーテルは掻き消えてしまった。
それを確認し、ポケットから金をいくらかお香に押し付けるように渡し、
「これを貞次に止まった分の支払いさせて、二度とやるなって念を押しといて」
と言うと、サッと引き込みの送蒸線を断ち切り、手馴れたようにくるくると纏めて捨てた。
エーテルの生まれかけに怯えたお香は、言葉もなく頭を振り、了解の弁とした。
「あと、夜の飯、俺の握り飯分も炊いてくれねえか?
今夜もう一件エーテル退治の仕事があるんだ。
その時に腹ごしらえしたい。
具は「ぜんな」の山椒煮がいいな、お香さんの山椒煮は格別だからな」
と、お香に金を渡した。
ぜんな──千葉の方で取れる小型のハマグリのことだ。
五月から八月が旬で、身は小さいながらも、ぷりぷりした食感がたまらない。
「それはいいけど、こんなにはいらないよ」
手元には一朱銀が八枚握らされていた。
屋台の蕎麦が二百杯は食べられる。
「服の洗濯もして貰ったりしてるからな、その分の手間賃も考えたら少ねぇよ。
今手持ちがそれしかないが、気にしないで貰っといてくれ。
それと、たまには服でも買えよ、最近は「すかーと」って西洋腰巻きが流行ってるみてえだぜ?」
「あんなの若い娘が着るもんだよ。
でもせっかくだから、このお金でまた美味しい鰻でも食べに行こうかねえ。
白焼きと肝吸いも頼んだりして」
虎弥太はその言葉に笑いながら、
「好きにしなよ、そいつはもうお香さんのもんだ」
と言い残し、縦長屋の階段を部屋のある屋上へと上っていった。
「出来たらあんたの部屋のドアに吊っとくよー!」
と、お香の声が背中を追いかけたが、振り返りもせず、片手を挙げ、それを返事の代わりとした。
縦長屋の屋上にある虎弥太の部屋は、元は部屋と呼ぶべきものではなかった。
物置だったものを、他所から流れ来たばかりで、金がないので仕方なく住んで以来だ。
増改築を自分で重ね、今では屋上の半分の広さを陣取っている。
見た目は隅田川で待ち合わせに使った小屋より少しマシな程度だ。
虎弥太は、屋上につき、階段に疲れた足を労わるように叩くと、周りに見える町を見渡した。
ここ数年で送蒸線、蒸継柱の数は増し、町の色は黒くくすんで見えるが、蒸気灯のせいで星空のようにもみえる。
あちこちに蒸気が漏れ、立ち昇っているが、あれは貞吉のように金を払えず、蒸気を止められた者たちが、不法に蒸気を家に引き込んでいる証だ。
この屋上からの清濁併せ呑む街の風景は、人が確かに生きてる証に思え、好きという言葉では足りない感情が込上げた。
しばしの間、街を見たあと、虎弥太は部屋へと入った。
部屋の中は殺風景で、窓が四方にあるのと、大きめのタンスが一竿、作業台代わりにもするちゃぶ台、敷きっぱなしで薄汚れた布団一組。
これだけである。
鋼蜂をやり始めてから金の周りは良い。
だが流行りの蒸気ものが家にあるのは好まない故に、ものが少ない。
あると便利なので冷蔵庫は欲しいが、稼いだ金はもっぱら械掛刀の改良に使っている。
(死んじまったら金を持ってても仕方ない。
なら刀に金をかけて死なないようにするべきだ。
エーテルが湧く限り、金はいつでも稼げる)
これが心情にある。
計画性がないといえばないが……。
「やるか」
大きめの独り言をいい、部屋の械掛「せんぷうき」を回すと、ちゃぶ台に卓上蒸気灯、いわゆる「てーぶるらいと」を置き、刀の整備を始めた。
柄の横の蓋をはずすと、中から黒ずんだ青く小さな水晶のようなものが出てきた。
これは石炭にあたるもので、日ノ本の蒸気をゆっくりと冷ましてと結晶化させたものだ。
その色から蒼晶炭と呼ばれ、送蒸線より常に蒸気を得られない械掛は、これを石炭のように使う。
青い水晶のような見た目で、強く硬いが、振動を加えたり薄く削ると、気化するように蒸気に戻り械掛を動かせ、使い続けると小さくなり、やがて黒ずみ、蒸気を出せなくなる。
械掛刀用に細長い八角錐に削られた蒼晶炭は、その形状から「つらら」、と鋼蜂たちから呼ばれる。
械掛刀は他の械掛より蒼晶炭の消費が激しく、械掛が止まる前に交換するのも鋼蜂として重要な技だ。
虎弥太はタンスから蒼晶炭の塊りを取りだし、小刀で予備のつららを作るため、削り始めた。
乾いた音がし、ちゃぶ台の上には青い鰹節のような削りカスが生まれては、音もなく煙のように消えていった。
時間をかけて丹念に大きさを整え、6本のつららを作ると、一本一本、柄横の挿入口への通りを確かめた。
それが終わると今度は、械掛刀をちゃぶ台に載せ、刃を外し、手入れを始めた。
残った刀身には、峰にあたる部分まで細い溝が走っている。
この溝は械掛で刃を回すためのものだ。
刃は鋼糸と革紐のベルトで一繋ぎにされていて、刀の外周をこの溝に沿って、チェーンソーのように循環し、威力を増すという訳だ。
最高速で流れる刃は、一度の攻撃を数十撃したに等しい斬撃に変える。
械掛刀と普通の刀の違いはここにある。
だが、それが弱点でもあった。
刃が激しく消耗するので、戦いの最中、交換に迫られるのだ。
鋼蜂たちはこの為の替刃を数本持ち歩いている。
替刃は、循環式鎖刃が正式名だが、虎弥太は見た目から「しらたき」と呼んでいる。
刀身に掛ける前は、刃が連なった鎖にも見えるからだ。
しらたき呼びは虎弥太だけで、他の鋼蜂は替刃と呼んでいる──。
虎弥太は、分割された刃一つ一つを指でなぞり、欠けや歪みがないかを点検し、納得の小さなため息をつき、刀に戻し、つららを鞘に備え付けた。
最後にタンスから小柄型の炸薬を取り出し、刀に取り付け、道具をかたし、扇風機を全開で夜に備えて眠りについた。
部屋に夏の夕日が籠り、紅く照らされる頃、虎弥太は目を覚ました。
寝汗を拭き、服を着替える。
寝る前に削ったつららを確認し、ベルトに循環式鎖刃の予備を数本つけ、最後に刀を差した。
それからどこを見るでもなく部屋を見渡す。
虎弥太の仕事前の儀式みたいなものだ。
(今度こそ、今度こそ冷蔵庫を買おう)
と、何度も繰り返している心の決め事をして、ドアを開け、表に出た。
ドアを閉めると、小さく音がした。
「どあのぶ」を見ると、袋が下げられていて、中を見ると握り飯を包んだ竹皮とお茶を入れた水筒が入っている。
昼間お香に頼んでおいたものだ。
虎弥太はにんまりとして、袋を肩から下げ、夕暮れの街を恵元堂へと向かった