第8話 不知火ひばり
一瞬、息が詰まる。
たしかに、さっきまでそこには誰もいなかった。教室には私ひとり。静かで、窓ごしに風の音だけが聞こえていた。
なのに――いつの間にか、ひとりの少女が、目の前の机に腰掛けている。
ウェーブのかかった灰色の髪。少し崩したセーラー服。タレ目がちの瞳が、じっとこちらを見ている。
「……誰?」
私が問いかけると、その子はふっと笑った。
「誰だと思う?」
軽い口調。
まるで最初からここにいたような顔で、机に座ったまま私を見下ろしている。
「知らない」
私が言うと、彼女は肩をすくめた。
「まぁ、君が私のことを知らないのは当然だよね」
「……?」
「でも、私は知ってるよ。篠宮椎名ちゃん」
一方的に私の名前を呼ぶ。
私は眉をひそめる。
「どうして?」
「こんな田舎に転校生って、やっぱり目立つじゃん? みんな噂してるんだよ」
「……そう」
それなら、まあ納得はできる。
最初のうちはたしかに視線を感じたし、「東京から来た子」っていうだけで珍しがられるのは、ある意味当然だ。
でも――
改めて彼女を見る。
ウェーブのかかった長い髪。ゆるく着崩したセーラー服。足を軽く組んで、上履きのかかとで机の縁をトントンと叩いている。
どこか柔らかい空気をまといながら、でも、掴みどころがない。
知らない子のはずなのに、妙に目を引く。
「だからって、わざわざ話しかける?」
「んー……まあ、それだけじゃないからね」
彼女はイタズラっぽく笑った。
「じゃあ、いったい何の用?」
わざとそっけなく言うと、彼女は手を叩いた。
「椎名ちゃんって、部活入ってないでしょ?」
「それで?」
「だから、誘いに来たの」
その顔に、ふわりとした微笑みが浮かぶ。
「オカルト研究会って知ってる?」
「……オカルト?」
「そう。怪異とか怪談とか、そういうのを調べたりする部活。私、その部長なの」
「……入らないけど」
思わず、ため息混じりに返す。
「即答!? まだ何も言ってないのに!」
「どうせ勧誘か何かでしょ。考えるまでもないから」
「まぁまぁ、そんなこと言わずにさ」
彼女は小さく首をかしげて、じっとこちらを見る。
「なんかね……」
「……?」
「椎名ちゃん、なんとなくオカルト向きな気がするんだよね」
「……は?」
その言葉に、私は思わず顔をこわばらせた。
「なんとなく、普通の人と違うように見えたんだ、椎名ちゃん」
――その一言が、喉の奥にひっかかった。
普通の人と、違う。
私はこっちで誰にも昔のことは言っていない。
“見える”なんて、人に知られないほうがいいからだ。
それなのに――、この人は何……?
背中に、じわりと冷たいものが這う。
視線を逸らせば、余計に見透かされそうで――私はじっと、彼女を見返した。
「どういうこと?」
「さあ? 私にもよくわかんない」
彼女はそう言って、軽く足を組み直す。
ただの勘? ほんとうに?
私は無意識に、喉を鳴らした。
「それで? もういいでしょ」
立ち上がろうとすると、彼女は「あっ」と手を叩いた。
「自己紹介、まだだったね」
胸元に手を当てて、少し芝居がかった声で言う。
「不知火ひばり。あなたの、ひとつ先輩」
「……先輩?」
「うん、一応ね」
「一応?」
「一応は、一応よ」
何を言っているのか、いまいちよくわからない。
私はため息をついた。
「で、もういい?」
「うーん、ダメ!」
ひばり先輩はにっこりと笑うと、私の手首をすっと掴んだ。
「ちょっと、ついてきて!」
「――えっ?」
「大丈夫大丈夫、怖くないから!」
私は抵抗する間もなく引っ張られていた。
「ねぇ、どこに行くの!?」
「決まってるでしょ」
ひばり先輩は振り返りもせずに言った。
「旧部室棟だよ」
ひばり先輩は軽やかに私を引っ張っていく。
私は振りほどくタイミングを失って、ただその背中を見つめていた。
強引なはずなのに、なぜか力は感じなかった。
風に押されるみたいに、ただ、流れに乗っていた。
すべての始まりが、そこにあったとも知らずに。