第7話 夕暮れの出会い
転校してから、もう2週間が経つ。
最初の数日は、ちらちらと視線を感じたけれど、今では誰も気にしない。私も、教室の空気になじみつつある――ように思えた。
授業を受けて、ノートをとって。
休み時間は、本を読んだり、窓の外を眺めたり。静かな日々に、私は少しずつ、安心を覚えていた。
「椎名ちゃーん! おっはよー!」
教室に入った瞬間、いつものように声が飛んできた。
隣の席の、新井まどか。クラスの中心にいる子。
「……おはよう」
まどかのテンションに、思わず声のボリュームを落とす。
でも、彼女はそんなことは気にも留めず、いつもの笑顔でこちらを見ていた。
「最近さ、めっちゃ馴染んできたよね~」
「そうかな」
「そうだって! だってさ、最初は『……うん』みたいな返事しかしなかったのに、いまはちゃんと話してくれるし!」
私は少し考え込んだ。
正直、自分ではそこまで変わったつもりはない。
「……それ、今もそんなに変わってない気がするけど」
「それ言うとこがもうツッコミっぽい!」
笑いながら、まどかは肘を机に乗せてこちらを覗き込む。
その様子を見て、私はふと気づいた。
この子、最初は“ただ明るくてうるさい子”だと思ってた。声が大きくて、どこでも笑ってて、ぐいぐい来るタイプ。
正直、ちょっと苦手だなって、勝手に思っていた。
でも、こうして話してみると、少し違う。
たしかに距離は近いけど、ちゃんと「止まる」ところを知ってる。無理に踏み込んでくることもない。
目立とうとしてるわけでも、誰かを試してるわけでもない。私が返す言葉のテンポに合わせて、まどかも自然と間を置いてくれる。
「そういえばさ、椎名ちゃんって、部活入らないの?」
ふいに投げられた言葉に、ノートを取り出しかけていた手が止まった。
「……入らないつもり」
まどかは「そっか~」とだけ言って、あっさり話題を引っ込めた。
「なんで?」も「もったいない」もない。
「まどかは、部活は何かやってるの?」
「私はね、陸上部! 走るの好きなんだ~」
「へぇ、なんかイメージ通り」
まどかの走る姿を、なんとなく想像する。
一直線に駆け抜けるイメージ。たぶん、全力で、真っ直ぐに。
「椎名ちゃんも走るの速そう! 今度競争しようよ」
「タイミングがあれば、ね」
まどかは満足そうに笑って、机に頬をのせた。
「今日の数学、小テストあるよね?」
「うん、あると思う」
「うへぇ……帰りた~い」
まどかの盛大なため息が空気を揺らす。
私は静かにノートを開いた。
――たぶん、私が思ってたより、ずっと器用で、優しい子だ。
この距離感、ちょっとだけ、心地いい。――少しだけ、気が楽になる。
それが、なんだか不思議だった。
***
放課後。荷物をまとめていたとき、不意に名前を呼ばれた。
「篠宮さん、ちょっといい?」
廊下の向こうから、久米先生が手を振っている。
私は教室を出て、その声の方へ歩いた。
「はい」
「そろそろ、学校にも慣れてきたかな?」
「……まあ、はい」
「それなら、ちょっとだけ相談。……部活、入ってみる気はない?」
やっぱり、その話か。
「……うーん」
返事を濁すと、先生は少しだけ苦笑いして見せた。
「もちろん、無理にとは言わないよ。でも、どこかに所属してみるのも、悪くないと思うの」
「考えておきます」
もちろん、それは建前だ。
考えるふりだけして、やり過ごすための。
先生はそれ以上は何も言わず、静かに去っていった。
私は教室に戻り、荷物を机に置くと、そのまま椅子に深く腰を下ろした。
もう他の生徒はほとんど帰っていて、教室はがらんとしている。
何となくそのまま帰る気がしなかった。
窓の外では風が吹いて、木の葉が揺れている。
夕陽の光が傾いて、床に長い影を落とす。
しん……と静かだ。
まどかの声も、クラスのざわめきも、今はもう遠い。音が消えたあとのこの教室は、まるで別の場所みたいだった。
私は、頬杖をつきながら天井を見上げた。
(部活、か……)
さっきの久米先生の言葉が、頭の隅に残っていた。
例えば。私が走っているところを想像してみる。ずっと家で過ごしてきたから、最初はうまく走れないだろう。
でも、そのうち、うまく足が動かせるようになって、タイムを競ったりする。
そんな風景が浮かんでは消える。
(でも……)
誰かと関わるのは、まだちょっとだけ怖い。関わったぶんだけ、離れるときに感じる心の痛みが大きかったことを思い出す。
今のままでも、それなりにやっていける。
そう思っていたはずなのに、どうしてこんなに、胸の奥がざわついているんだろう。
外では、カラスが一羽、低く鳴いた。
カーテンの隙間から差し込む夕陽が、少しずつ色を変えていく。
空の青と、茜色の間にある、その曖昧な色。
“あいまい”って、きっと、今の私のことだ。
思い浮かんだその言葉に、私は小さく息をついた。
……そのとき、だった。
「ねぇ、君ってさ。どうして、部活に入らないの?」
声が――聞こえた。
机の向こう。さっきまで誰もいなかったその場所から。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
そこに、“誰か”が座っていた。