第6話 新井まどか
教室へ足を踏み入れると、一瞬、ざわっとした空気が流れた。
全員の視線がこちらに向いているのがわかる。
転校生が来れば、誰だって気にする。それはわかっていたけれど、こうして注目を浴びると、やはり落ち着かない。
久米先生が私を手で促す。
「じゃあ、みんなに自己紹介をお願いできる?」
黒板の前に立つ。
教室中からの視線が集まってくるのを感じながら、私は口を開いた。
「篠宮椎名です。東京から来ました。よろしくお願いします」
それだけ言って、軽く頭を下げる。
一瞬の静寂のあと、教室がざわめいた。
言葉までは聞き取れなかったけれど、
「東京だって」とか「静かそう」といった単語が、断片的に耳に届く。
久米先生が軽く手を叩いた。
「はいはい、質問はあとにしてね。篠宮さんの席は……」
教室の後ろを指さす。
「新井さんの隣、空いてるから、そこに座ってね」
「はい」
促されるままに歩き出す。
すれ違う生徒の視線をなんとなく感じながら、静かに椅子を引いた。
隣の席の子が、にこっと笑って、小さく手を振る。
「よろしくね! 篠宮さん!」
明るい声に、一瞬だけ目を瞬かせる。
(……新井さん、だっけ)
とりあえず、小さく頷いた。
「よろしく」
***
チャイムが鳴ると、教室の空気が緩んだ。
誰かが椅子を引く音、机を寄せる音、あちこちで始まる雑談の声。
どこでも同じ光景。
転校しても、休み時間の風景は変わらない。
私はノートを閉じて、小さく息をついた。
授業は特に問題なかった。
内容は前の学校と大差なく、わかりやすい。
(授業は、どこも同じなんだな……)
そう思っていると、どこからか視線を感じる。
肌の上をなぞるような、微かな感覚。
気のせいじゃない。
ちらちらと、何人かがこちらを見ている。
でも、目が合うとすぐにそらされる。
直接話しかけてくることはない。
もし私が逆の立場だったらそんな勇気はないと思う。
「篠宮さん、だよね?」
突然、近くで声がした。
顔を上げると、隣の席の女の子――新井さんが、私を見ていた。
「……うん」
間を置いて、頷く。
「私、新井まどか! よろしくね!」
軽い調子の自己紹介。
私は少し考えてから、「よろしく」と返す。
それだけで終わるかと思ったのに、まどかは続けた。
「転校とか、大変じゃない?」
「……別に」
「そっか、ならよかった」
まどかは、ちょっとだけ首をかしげて笑う。
「授業、大丈夫そう?」
なんてことのない質問。
“転校生だから”程度の、軽い興味。
「……まあ、大丈夫」
「ふーん。じゃあ、東京の学校とそんなに違わない?」
「そんなに」
「へぇー」
まどかは、相槌を打ちながら何か考えるような顔をして、また口を開いた。
「今、どの辺に住んでるの?」
少しだけ迷って、家の場所を答える。具体的な地名はまだ覚えられていないから、目印になる場所を言いながらだった。
「あー、わかる! あのスーパー、私もたまに行くよ。もしかしたら会うかもね」
さらっと、あたりまえみたいに言う。
私は返し方に迷っているうちに、まどかはまた笑っていた。
――こういうの、どう接すればいいんだろう。
遠慮がちでも、様子見でもない。
まどかは、ためらいなく距離を詰めてくる。
悪気があるわけじゃないのはわかる。むしろ、自然に話しかけているだけなんだろう。
でも――正直、ちょっと戸惑う。
こういうふうに真っ直ぐ来られると、
どう距離をとればいいのか、わからなくなる。
……でも、不思議と嫌じゃなかった。
ちょっとだけ気が楽になった気さえした。
新井まどか。
まだよく知らない人。
でも、強く印象に残る人だった。
***
帰り道は、夕暮れに包まれていた。
校門を出る頃には、空は淡いオレンジ色に染まっている。東京よりずっと高く感じる空の下、私はゆっくりと歩いた。
まだ完全に覚えていない道を、ひとつひとつ確かめるように進んでいく。
家に着くと、中は静かだった。
航さんは、おそらく自分の部屋にこもっているのだろう。静かに過ごせることは私にとってありがたいことだった。
自室に戻り、鞄を置く。
制服を脱いでハンガーにつるすと、部屋着に着替える。
「……意外と忙しいんだな、転校って」
ぽつりとつぶやいて、ベッドに腰を下ろした。
ふと、身体の芯に少しだけ疲れを感じる。
まどか――、久米先生、それからちらちらと視線を向けてきたクラスメイトたち。
1日だけで、思ったより多くの人と接した。
明日からは、きっともっと普通になる。
普通であってほしいと、心のどこかで願っている。
今はただ、一日目が終わったということに、ほっとしていた。
そのまま、ベッドの端に座り、静かに目を閉じる。
今日という日の重さが、ようやく手放せそうな気がした。