第57話 ここにいる理由
航さんは、テーブルに置かれたノートを指先でなぞっていた。
なぞるというより、“そこにいる誰か”に、触れようとしているように見えた。
そして、ぽつりと、声が落ちる。
「……それでも、俺は忘れなかった」
その言葉は、ごく静かで、ごくまっすぐだった。
「夢じゃないって、何度も自分に言い聞かせてた。あいつのことは、俺の中にちゃんといた。だから、誰かに“そんな子いなかった”って言われるたびに……逆に、俺のほうがおかしいのかもって思ったりもした」
言いながら、航さんは小さく息を吐いた。
「……でも、どうしても忘れられなかった。忘れちゃいけない気がした。あいつがここにいたこと、ちゃんと覚えてるやつが、ひとりでもいなきゃダメな気がして」
そして、その視線が、ふと窓の外に向けられる。
暮れかけの空が、静かにゆれていた。
「……だから、ここで暮らすことにしたんだ」
その言葉に、私はほんの少しだけ目を見開いた。
航さんは、視線をテーブルに落としたまま、静かに続ける。
「卒業のとき、他の選択肢も一応は頭に浮かんだんだ。どこか遠くへ行って、まったく新しい環境でやり直すとか……でも、どうしても、ここを離れる気にはなれなかった」
「大学も地元にして、就職もなるべく家でできる仕事を選んだ。……たぶん、その時点で気づいてたんだと思う。俺はまだ、ここに“ひばり”を待っていたいんだって」
ぽつりと漏れたその言葉に、私は自然と息を呑んだ。
「だから……椎名がこのノートを見せたとき、正直びっくりした」
航さんは、そう言って小さく息を吐いた。
「俺だけじゃなかったって。ひばりのこと、ちゃんとわかってる、他にもいたって。……それだけで、すごく救われた」
少し間を置いて、ぽつりと言葉が落ちた。
「俺は……もうずっと、誰にも話せないと思ってたから」
照れくさそうな笑みを浮かべながらも、航さんはそっとノートに触れた。
その仕草が、まるで――そこにいる誰かを、そっと撫でるように見えて。
私は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
「ありがとう。……本当に」
ありがとう。
その一言が、こんなにも静かで、こんなにも重たいなんて――知らなかった。
ノートの向こうに、“ひばり先輩”がいる気がした。
誰にも見えなくても、誰にも名前を呼ばれなくても、それでもずっと、ここにいた人。
ひとりきりで思い続けた時間の長さが、今、少しだけ報われたような気がして――胸が、苦しくなる。
(……ほんとに、ずっと、探してたんだ)
名前も記録も消えてしまったのに、それでも“忘れなかった”人がいた。
あの人を“残そう”と、たったひとりでこの町にとどまってくれていた人が。
(……それは、私も同じだ)
私の中にも、ひばり先輩がいる。
名前を呼んでくれた声、夕暮れの窓辺で笑った横顔、七不思議を語るときの目の色。
それら全部が、今も、ちゃんと残ってる。
記録には残らなくても。
誰も思い出さなくても。
それでも、私は――忘れたくない。
「……私も、ひばり先輩に、ちゃんと伝えたいんです」
言葉にしてみると、想像していたよりもずっと震えていて、
それでもちゃんと、胸の奥から出てきたものだった。
「名前が記録に残ってなくても、“ここにいた”ってことを。誰かが、ちゃんと覚えていたってことを……それを、ちゃんと伝えてあげたいです」
航さんは、少し目を細めて、小さく、そしてあたたかく笑った。
「……そうだな。誰かが忘れなかった限り、きっと、その先に届くものがある」
航さんはそう言って、そっとノートの表紙を撫でるように触れた。
その指先には、まだ見えない未来を手繰り寄せようとするような、祈るような優しさがあった。
「……ノートを見つけて、ここまで調べてくれた椎名の言葉なら……きっと、まだ彼女に届く」
言葉のひとつひとつが、まるで渡された灯火のように、胸の奥にぽっと灯る。
私は、小さくうなずいた。
その重みを、ちゃんと受け止めるように。
「……私、伝えます。ひばり先輩がここにいたってこと。ちゃんと、忘れてないってこと」
航さんは目を細めて、小さく笑った。
その笑みには、懐かしさと安堵と、そして少しの期待が混じっていた。
「……あいつ、どこかで待ってる気がするよ。椎名の声を」
その言葉を聞いたとき、胸の奥がふっとあたたかくなる。
私はそっと、ノートの表紙に触れた。
航さんと目が合う。どちらからともなく、ふっと小さくうなずいた。
ことばの代わりに、静かな約束が交わされる。
秋の夜の風が、ふと窓の隙間をすり抜ける。
カーテンが揺れ、灯りの影がやさしく揺らめいた。
そこにいた、という痕跡をたどって――今度は、ちゃんと“届ける”ために。