第50話 見つけた真実
部室を出た私たちは、細い小道を歩きはじめた。
夜の校舎裏はひっそりと静かで、満月の光だけが道をやわらかく照らしていた。
誰もいない、静かな学校。
それなのに、不思議と怖くなかった。
コヤと私は並んで歩き、その少し前を、ひばり先輩がゆったりとした歩幅で進んでいく。
制服のスカートが月明かりを受けて、静かに揺れていた。
「……なんか、夢の中みたいだね」
コヤがぽつりと呟く。
私も、そっと頷いた。
風も止んで、夜の空気が肌をやさしくなでていく。少しだけ冷たくて、でも嫌じゃなかった。
「前はすごく怖かったのに……今日は、なんだか、大丈夫な気がする」
コヤの声には、どこかあたたかさがにじんでいた。
――前。
たしかに、あのときも三人で旧校舎を訪れた。
でも、そのときとは違う。
一緒に過ごす時間が重なって、ちゃんと“この三人”になった気がする。
「こわいけど、その先にあるものを……知りたいって、思う」
自分で口にしてみて、私は少しだけ驚いた。
でも、胸の奥には確かにその想いがある。
この夜を越えた先に、なにかを見つけられる気がしていた。
ひばり先輩が、歩みを緩めてこちらを振り返る。
月明かりに照らされたその横顔は、やっぱりどこか静かで、でもやさしくて。
私たちをちゃんと見つめている、その目が、少しだけ切なさを宿しているようにも思えた。
「大丈夫。ちゃんと、三人で行こう」
そのひとことが、胸の奥にふっと灯りをともす。
冷えた夜道に、三人の足音が静かに重なっていく。
目的地は、もうすぐそこ。
でも今はまだ、この“途中”が、ただただ大切に思えた。
***
旧校舎の正面に立ったとき、私は一度だけ小さく息を吐いた。
月明かりが屋根の輪郭を淡く照らし、校舎は静かにそこに在るだけなのに――やっぱり、どこか不気味だった。
ぎぃ、と音を立てて扉を押すと、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
ひばり先輩が先に一歩踏み込む。そのあとを、私とコヤが続く。
すぐに、コヤが私の腕にぴたりと絡んだ。
くっつくように歩きながら、声をひそめる。
「やっぱり、ここ……ちょっとこわい」
私は手にした懐中電灯のスイッチを入れる。
細い光が、静まり返った廊下の奥をじわりと照らした。
軋む床、長くのびる影、使われなくなった掲示板の破れかけた紙。
まるで時間だけが、ここで止まっているみたいだった。
「三階の……一番奥だよ」
ひばり先輩の声が、ぽつりと背中越しに届いた。
廊下を進むたび、木の床がきしむ音が足元に広がる。
そのたびにコヤが少しだけ身体を寄せてきて、私はそっとバランスを取り直した。
――前。
あのときも三人で旧校舎に来たけれど、今とは違っていた。
あれから何度も話をして、笑って、ふざけて、少しずつ“私たち”になれた気がする。
――こわいけど、その先にあるものを……知りたいって、思う。
さっき自分の口から出たその言葉に、私は少し驚いた。
でも、それはほんとうの気持ちだった。
階段をひとつ、またひとつと登っていく。
段を踏むたびに、靴の音が木の板を響かせる。
静けさが、かえって心の音を大きくする。
三階にたどり着いたとき、空気がまたひとつ、違う色を帯びたように感じた。
古びた窓から差し込む月光が、白く濃い。
廊下の先。
扉は――確かに、そこにあった。
ひばり先輩を、静かに振り返る。
その表情は、落ち着いていて、でもどこか少し、切なさを宿しているようにも見えた。
そして、私たちはその扉の前に立つ。
懐中電灯の光が、淡く扉の縁を浮かび上がらせている。
「ここ、だよ」
ひばり先輩が歩み寄り、静かに言った。
その扉は、ふだん鍵がかかっていて、誰も入れないはずの教室。
けれど今、確かにそこに立っている私たちの前には、少しだけ開いたすき間が見えた。
私は息を呑む。コヤがぎゅっと私の腕にしがみつく。
ひばり先輩は、なにも言わず、そっと手を伸ばす。
――扉が、ゆっくりと、開いていく。
***
懐中電灯の光が、ゆっくりと教室の中をなぞっていく。
机。椅子。黒板。
どれも見慣れたもののはずなのに、ここに置かれているそれらは、時間から切り離されたものみたいに見えた。
私たちはその空間に足を踏み入れる。私は無意識に息をひそめていた。
……ここに、何かがある。
そんな予感が、胸の奥で静かにざわめいていた。
私はゆっくりと教室を見回して――そして、気づいた。
隅の方、窓際の机の上に、ぽつんと置かれたひとつのノート。
まるで誰かがそこに「忘れていった」わけではなく、むしろ「置いていった」ような気配をまとっている。
私はふらふらとその机に近づき、そっと手を伸ばした。
表紙は少し黄ばんでいて、角がわずかに折れていた。昔ながらの方眼ノート。その真ん中に、鉛筆で書かれた文字が見えた。
――七不思議研究ノート。
胸の奥が、きゅっとなる。
指先にひんやりとした感触が伝わるのを感じながら、私はそっとノートを開いた。
「なにそれ……」
小さく息を呑んだようなコヤの声が、後ろから届いた。
私は答えず、ただページをめくる。
紙の上には、少し丸みのある文字が並んでいた。まだ幼さの残る、少女の筆跡。
最初のページには、大きくこう書かれていた。
《第一の不思議――旧校舎の案内人》
私はその文字を目で追いながら、コヤの気配を背後に感じた。肩越しにのぞき込む彼女の体温が、ほんのりと伝わってくる。
ページをめくるたびに、鉛筆の筆跡が続いていく。
音楽室のピアノ、雨の日の湖、止まった時計、満月の夜に開く扉――
どれも、私たちが実際にたどってきた場所だった。
やがてノートは六つ目の見出しへとたどり着く。
《第六の不思議――消えた女生徒》
読みながら、私は唾を飲み込んだ。
《去年の夏、○組に所属していた女生徒が突然学校に来なくなった。家庭の事情や転校ではないという噂が広まり、数日後には「旧校舎で姿を見た」という証言も出てきた》
《……彼女が辿った場所にはいくつかの共通点がある。どれも“七不思議”に関連していた。》
《次は、旧校舎の三階を調べてみる。そこに、六つ目の不思議が隠れているかもしれない。……でも、ひとりで行くのは怖い。でも、行かなくちゃ――》
その先のページは、何も書かれていなかった。
ぽっかりと、何かが途切れている。
「……途中で、終わってる」
私は、ぽつりとそう呟いた。
コヤが、黙ったままそばに寄ってくる。小さな肩が、私の腕にそっとふれた。
「これ、前に調べてた人の記録……かな」
その言葉は、誰かに問いかけるようなものではなく、自分の中で確かめるような声だった。
「……ほんとにいたんだね。私たちと同じように、七不思議を追ってた人が」
コヤの声が、やけにまっすぐに胸に響いた。
でもその人は――私は再び最後のページに目を落とす。
《でも、行かなくちゃ――》
どこかに行ってしまった。このノートを残して。
私は、そっとノートを閉じかけた。けれど、そのとき。
手のひらの裏側に、かすかな違和感が走った。
(……まだ、なにか、ある)
私はノートをひっくり返して、裏表紙を懐中電灯の光にさらした。
そこに、うすく――けれどたしかに――名前が書かれていた。
鉛筆でなぞったような、筆圧の弱い、丁寧な文字。
《不知火ひばり》
「……これ、ひばり先輩の名前」
私は思わず振り返った。
ひばり先輩は、私の持つノートを見つめたまま動かなかった。
目を大きく見開き、唇がわずかに震えている。
その表情は、今までに見たことのないものだった。
私がもう一度名前を呼ぼうとしたとき、ひばり先輩の肩が、かすかに揺れた。
驚き――あるいは、もっと深い、何か。
沈黙が、教室の中に降りてきた。