第5話 転校生
目覚ましの音が止まり、静けさが戻ってくる。
新しい部屋で迎える、最初の朝だった。
昨夜はなかなか眠れないかもしれないと思っていたけれど、気づけば朝になっていた。
眠りは浅かった気もするけれど、ちゃんと目は覚めている。
――案外、平気なんだな。
しばらく天井を見つめたあと、ゆっくりと体を起こす。
肩から掛け布団がするりと落ちた。
秋が始まったばかりのはずなのに、このあたりの朝はもう冷たい。薄手のパジャマの上から、空気の冷たさが肌を刺す。
身震いをひとつ。それから、真新しい制服に目をやる。
昨夜ハンガーに掛けておいたそれは、ほとんどしわもなく、きちんと整っていた。
まだ眠気の残る頭で、それを少しのあいだ眺める。そして、小さく息を吐き、パジャマのボタンを外す。
鏡に映る自分の姿が目に入る。
白い肌、細い肩、まだ幼さの残る輪郭。
(……変わってない)
昔からずっとそうだった。
目立たない、華奢な体つき。
遊ぶ友達も多くなかったし、外に出るより家の中で過ごすことの方が多かった。
その積み重ねが、いまの私をつくっている。
制服のシャツに腕を通し、スカートの裾を整える。一枚、布を重ねるだけで、身体の輪郭はおぼろげになる。
髪を軽くとかし、靴下を履く。
きちんとした身なりが、“普通”に見せてくれる気がした。
廊下に出ると、家の中は静まり返っていた。
昨日聞いたように、航さんはまだ寝ているらしい。
キッチンへ向かい、パンを一枚だけトースターに入れる。やがて、小さな音とともに焼き上がる。
皿に取り、ひと口かじる。
サクッとした食感と、わずかに焦げた香り。
トーストはどこで食べても変わらない。
いつもと変わらない味――でも、もう「いつも」じゃない。
牛乳を一口飲みながら、窓の外をぼんやりと見やった。
(……どうせ、どこに行っても同じ)
先生がいて、生徒がいて、授業があって。
新しい場所、新しい学校。それでも私は変わらない。
余計なことをせず、波風を立てず、静かに。
それだけで、きっといい。
食器を洗い、静かな水音に耳を澄ます。
その音すら、どこか遠くに感じた。
玄関まで歩いて、鞄の中を確認する。
昨日のうちに揃えた学校の資料と筆記用具。
ざっと目を通して、鞄の口を閉じた。
靴を履いて、ドアノブに手をかける。
ひとつ、深く息を吸う。
「……いってきます」
自分に言い聞かせるように、小さくそうつぶやいた。
***
家のドアを閉めた瞬間、空気の温度が変わる。
ひんやりとした朝の冷気が、頬を撫でていった。夏の名残はすでに薄く、秋の気配がゆっくりと町を包んでいる。
歩き出すと、どこからか金木犀の香りが流れてきた。懐かしいような、でも名前をつけにくい匂い。秋の始まりを告げる、静かな合図だった。
霧ヶ原の朝は、驚くほど静かだ。
遠くで鳥が鳴いている。犬の吠える声が、一度だけ聞こえて、それきり止んだ。
(……昨日までとは全然違う)
東京の朝は、いつだって音に満ちていた。通勤通学の人波、話し声、車のエンジン。
どこへ行っても、誰かが急いでいて、何かが動いていた。
ここには、それがない。
人も音も少ない。
その分だけ、空気が広く感じられる。
(でも……結局、変わるのは風景だけ)
場所が変わったところで、私は私。
誰かと関わらなければ、何も変わらない。
***
坂道の先に、学校の校門が見えてきた。
白い門柱に挟まれた校舎は、想像していたよりも整っていた。周りの建物が小さいからか、その背後に広がる空が、やけに大きく見えた。
登校する生徒たちの姿が、ちらほらと視界に入る。友達と笑いながら歩く子、スマホを見つめたままの子、自転車を止めている子。
(……都会と、そんなに変わらないんだな)
そう思いながら、坂を登っていると、ふと目の端が、校舎の裏手にある別の建物をとらえた。
くすんだ木造の建物。
窓ガラスは曇り、外壁の塗装はところどころ剝がれている。
まるで時間だけが取り残されたような、その姿。
(……なんだろ、あれ)
立ち止まるほどではなかったけれど、ほんの数秒だけ、目が離せなかった。
周囲の生徒たちはまるで気にしていない。けれど、あの建物だけが、妙に空気を違えていた。
少し、冷たくて。
少し、重くて。
けれど、確かに“そこにある”。
(……まあ、いいか)
そう思って視線を外すと、私は何事もなかったように校門をくぐった。
***
職員室の扉をノックすると、中から「どうぞ」という声が返ってきた。静かに引き戸を開ける。
「失礼します」
中は静かだった。
教師たちはそれぞれの机に向かい、書類をめくる音やペンの走る音だけが、小さく響いている。
手前の席にいた女性教師が立ち上がり、こちらへ歩いてきた。
「篠宮椎名さんね。担任の久米です」
落ち着いた声だった。肩までの髪をまとめ、眼鏡をかけている。きちんとした人、先生という言葉が似合う人だ、と思った。
「……よろしくお願いします」
久米先生は軽く頷き、机の上の書類を手に取った。
「これが転入関係の書類ね。それと、生徒手帳も」
手渡された紙の束と手帳を受け取る。
書類をちらりと見ると、入学案内や校則などが並んでいた。
どこにでもあるような内容ばかりだ。
「椎名さんは、2年A組」
さらっとした口調だった。
(……今日から、ここで過ごすんだ)
手帳を開くと、名前と写真が印刷されていた。
無表情。
見慣れているはずなのに、どこか他人の顔のようにも見えた。
そっと表紙を閉じる。
久米先生はそれを見て、ただ一度うなずいた。
「じゃあ、教室に行きましょうか」
「はい」
立ち上がった先生のあとに続き、廊下へ出る。
廊下に出ると、窓の向こうにグラウンドが見えた。始業が近いからか、走っている子もいた。
久米先生は前を歩きながら、ふと振り返る。
「緊張してる?」
「……少しは」
「そっか。でも落ち着いて見えるね」
それだけの短いやりとりだったけれど、不思議と気が楽になった気がした。
久米先生は、それ以上何も言わずに歩き出す。
教室の前で立ち止まった先生が、ドアに手をかける。
「先に入るね。少し待ってて」
「はい」
静かにドアが開かれると、中から小さなざわめきが漏れてくる。
「みんな、おはよう。今日は新しいクラスメイトが来ています」
(……やっぱり、こういうのはあるんだ)
当然のことだとわかっていても、待たされるこの時間は落ち着かない。
私はドアの前に立ったまま、小さく息を吐いた。
その一瞬だけ、自分の鼓動の音が、少しだけ大きく聞こえた気がした。