第4話 静かな部屋
車はゆっくりと減速し、小さな二階建ての家の前で止まった。
外壁は白く、派手さはないけれど、どこか落ち着いた雰囲気がある。
玄関の横にはポストと表札。「萩山」と書かれていた。
(……母さんの旧姓、だっけ)
一度だけ来たことのある家。でも、その表札にも、このたたずまいにも、見覚えはなかった。
「着いたぞ」
航さんがそう言って車を降りる。
私も荷物を持ってあとに続くと、夕方のひんやりした空気が肌を撫でた。
まわりは静かだった。民家はぽつぽつあるけれど、人の気配は薄い。
航さんは無造作に鍵を取り出し、玄関のドアを開ける。
「入っていいぞ」
促されて玄関に入ると、ひんやりとした空気と暗がりが出迎えた。
「靴は、適当に出したままでいい」
言われるままに靴を脱いで揃える。
「とりあえず、ざっと家の説明しとく」
電気をつけて、航さんはゆっくりと廊下を歩き出す。
「1階はリビングとダイニング、それから風呂と洗面所。トイレはこの扉」
指さされた先には、ドアがいくつか並んでいた。
廊下を進み、あるドアの前で立ち止まる。
「ここ、俺の仕事部屋」
扉を軽く叩く。
「俺がいるときも、いないときも、勝手に入るな」
「……はい」
「用があるなら、ノックしてくれ。居たら返事する」
それだけ言って、また歩き出し、今度は階段の前で立ち止まる。
「2階は寝室。俺の部屋は奥。椎名の部屋は手前」
「わかりました」
「先に届いてた段ボールは運んである。今持ってる荷物置いたら、飯にするか」
「あ……」
予想していなかった言葉に、一瞬返事に詰まる。
でも、昼に食べたのはもうだいぶ前だ。
「食べないなら別にいいけど」
「……食べます」
「じゃあ適当に座っとけ。なんか作る」
そう言うと、航さんはリビングのドアを開けて、キッチンへ向かった。
私は真ん中のソファに座って、ぼんやりと部屋を見まわす。広くはないけれど、整っていて、どこか生活の気配がある。
(……手伝った方がよかったかな)
でも、声をかけるタイミングを逃してしまった。
キッチンからは、水の音と、火をつける音。
しばらくして、味噌汁の香りと魚の焼ける匂いが漂ってきた。
(思ったより、ちゃんとしてる……)
そんなことを考えながら、私は静かにそのまま待った。
やがて、航さんが料理を運んでくる。
「できた。口に合うかは知らんけどな」
テーブルには、焼き魚、味噌汁、青菜のおひたし。
シンプルだけど、整った食事だった。
「……料理、するんですね」
「そりゃするだろ。一人暮らし長いし。外食ばっかも面倒でな」
私は「いただきます」と小さく呟き、お椀を手に取る。味噌汁はちょっと濃いけれど、悪くない味だった。
***
しばらくして、ふと口を開いた。
「航さんの仕事って……」
「ライター。記事とか、取材とか」
「ライター、って、どんな記事を書くんですか」
「最近は人物のインタビューが多いな。リモートで取材して、原稿書いて送るだけだ。わりと自由にやってる」
「へえ……」
会話は長く続かないけれど、それでいい気がした。
「だから、家にいることが多いんですね」
母に聞いていたことを思い出す。
「だいたいな。外での取材がない日は、ずっとこんな感じ」
「朝は早いんですか?」
「いや、全然。大体昼まで寝てる。夜に書くことが多いからな。
そんな感じだから、朝飯は好きにやってくれ」
「わかりました」
生活リズムは、私とはまるで違っていた。
でも、だからこそ気を張らなくてよさそうで――少しだけ、気持ちが楽になった。
食事は、静かに終わった。
「洗い物、やります」
そう言うと、航さんは少しだけ驚いたように目を丸くして、
「なら頼む。助かる」
***
洗い物を終えて、ふと時計に目をやる。
夜の八時を少し過ぎたところだった。
「風呂、先に入っていいぞ」
航さんのその一言に、小さく「はい」とだけ答える。
2階の部屋に戻って、荷物をひとつ開ける。
中からパジャマと下着、それからトラベルセットを取り出して、そっと抱える。
脱衣所の電気をつけると、白い床に蛍光灯の光が跳ねる。洗面台の上にはシンプルな石けんと、洗顔料のチューブがあった。
私はトラベル用のシャンプーとリンス、ボディソープを取り出す。なんとなく、男性用のものは香りが合わない気がして、何日分か持つように持参していた。
着ていた服を脱いで洗濯カゴのそばに置く。
その上に、パジャマと下着を重ねた。
浴室に入ると、ほんのりと温かい蒸気の気配が広がっていた。掃除は丁寧にされていたけれど、どこか生活のにおいがした。
私はシャワーをひねり、足元からゆっくりと体を濡らしていく。頭にお湯をかけると、長い髪が重たく肩に張りついた。
鎖骨を越えて胸元まで届く黒髪。細かい水滴が髪をつたって、毛先からぽたぽたと落ちていく。
シャンプーを手に取り、泡を立てながら、髪を丁寧に洗う。次にリンスをつけて、時間を置く間、私はぼんやりと鏡の方に目を向けた。
曇った鏡に、ぼんやりと自分の姿が映っている。
(……母さん、“きれいな髪ね”って言ってたな)
小学生の頃。
ふとした夕方にぽつりと漏らしたひとこと。
それがなぜだか、ずっと心に残っていた。
褒められたかったわけじゃない。
でも、そのときの母の声は、なぜかやさしくて、あたたかくて。
ちゃんと見ていてくれてるんだ、って――ほんの少しだけ、そう思えた。
だから私は、それから髪を長く整えていた。
短く切ろうと思ったこともあるけれど、なんとなく、いつもやめてしまった。
リンスを流し終えると、手ぐしで髪を梳いて、タオルでやさしく包む。
乾かす前にはきちんと髪を梳かして、トリートメントをつける。
それを「ちゃんとやってる」なんて、誰にも言ったことはないけど。
この髪だけは――できるだけ、きれいにしておきたかった。
母に言われた、たった一度のことを、私はずっと覚えていたから。
タオルの感触越しに、まだ熱の残る髪を確かめて、私は湯船に身を沈めた。
静かなお湯の音。
あたたかさが、少しずつ身体に広がっていく。
深く息をつく。
今日のことを少し思い出しながら、私は目を閉じた。
***
湯船から上がり、髪をやさしくタオルで包む。
浴室のドアを開けると、ひやりとした空気が頬をなでた。
脱衣所の電気を消し、廊下に出る。
手探りでスイッチを探し、灯りをつけると、ぼんやりとした明かりが廊下を照らした。
(……航さんは、仕事部屋かな)
航さんの部屋の前は静かだったけれど、
ドアの隙間からはかすかに光が漏れている。
話しかけるほどのこともなく、そのまま私は自分の部屋へと歩いた。
窓のカーテンを閉め、ベッドの端に腰を下ろす。
(……ほんとに、引っ越してきたんだ)
そんな当たり前のことを、もう何度目か分からないくらい思い出していた。それだけ、この場所がまだ“自分の場所”になっていないのだとも思う。
荷ほどきもまだだ。
ベッドの脇に置いたスーツケースに目をやる。
開ける気にはなれなかったけれど、そっと手を添えてみる。
その冷たい感触に、ようやく少しだけ実感が湧いた。
(……ここで、暮らすんだ)
そんな思いが胸の奥に、静かに沈んでいった。