第39話 2‐4
旧校舎の前に立つと、風のにおいが変わった気がした。
日が傾きかけた空から、少し冷たい風が吹いてくる。
木造の建物が、ひっそりと夕陽を浴びているのが見えた。
私の隣で、コヤがのんびりと背伸びをする。
「今日こそ、なにか起きる気がする〜。お菓子も持ってきたし、準備ばっちり!」
「調査じゃなくて遠足のノリだよね」
ひばり先輩が、あきれたように笑う。
私は、二人の会話を聞きながら、扉に手をかけた。
手のひらに伝わる、鉄のひんやりとした感触。
軋む音とともに、古びた扉がゆっくりと開く。
中の空気は、前に入った時と同じだった。乾いた木の匂い、遠い記憶のような静けさ。
だけど――ほんの少しだけ、何かがちがっている気がしたのは、やっぱり前に”彼女”を見てしまったからだろうか。
「今日はどうする? 分担でいい?」
ひばり先輩が後ろを振り返る。
「うん、それでいいと思う!」
コヤが元気に答えた。
「それじゃ、また20分後に」
ひばり先輩が手帳をちらりと見て、微笑んだ。
「あたしは2階の奥から見ていくね〜。あっち、まだちゃんと見てないし!」
コヤが階段を指さして、ぴょんっと跳ねるように登っていった。
「私は……」
言いかけて、言葉を飲み込む。……言わなくてもいい。自然なふりで、ただうなずいた。
「じゃ、私は1階の南側から見るね」
ひばり先輩がさらっと言って、扉の奥へと歩き出す。
3人が、それぞれ別の方向へと自然に散っていく。
その背中を見送りながら、私は静かに階段をのぼった。
足元の木が、ぎしり、と軋む。
ひとつ、またひとつと音が重なるたびに、胸の奥にある期待と不安が、少しずつ輪郭を帯びてくる。
向かう先は、もう決めていた。
――2-4教室。昨日、“あの子”が立っていた、あの場所。
口に出す必要なんて、なかった。
私は廊下の先へと、そっと足を踏み出した。
***
階段をのぼりきると、少しだけ冷たい風が廊下を抜けていった。
窓の隙間から入ってくる風が、髪をふわりと揺らす。
前に来たときと同じ廊下なのに、空気の重さがちがうような気がした。
でもそれは、きっと自分の気持ちのせいだとわかっていた。
古い教室の扉が並ぶ廊下を、私はゆっくりと歩いていく。
それぞれの教室には、木製のプレートが掲げられていて、かすれた白い文字が浮かんでいる。
――2-1、2-2、2-3……
そして、その先に。
2-4
止まったように足が止まった。
でも、胸の奥は、なぜかゆっくりと脈打っている。
私は、小さく息を整えて、そっと扉に手をかけた。
引き戸を横に滑らせると、控えめな音を立てて開いた。
扉の奥には、がらんとした教室が静かに広がっている。
差し込む夕陽が、埃をふわりと照らしていた。
壁際――その高い位置に、ぽつんと時計が掛かっているのが見えた。
(……あれ、かもしれない)
私は息を飲んだ。
くすんだ木の枠。うっすらと亀裂の入ったガラス。
そして、その中で静止した針は――十二時三十分を指している。
迷いなく、私はゆっくりと時計に近づいた。
けれど、時計は手の届かない高さに掛かっていた。
ふと教室を見回すと、隅に一脚だけ椅子が置かれているのが見えた。
全体が木でできた、古くて脚が少しぐらついている学校の椅子。
(……使えるかな)
私は慎重にそれを引き寄せ、そっと立ち上がった。
木が軋む音が足元から伝わってくる。
だけど、バランスを取りながら足をかければ、なんとか届きそうだった。
両手で時計の縁をそっと包みこむ。
思っていたよりも重たくて、枠の感触はひんやりとしていた。
けれど、どこか懐かしいような手ざわりもあった。
そのときだった。
「うわっ、椎名ちゃん!? なにしてんの!?」
「きゃっ……!」
声に驚いて体が跳ねる。
バランスを崩し、椅子がぐらりと揺れた。
私は反射的に足を動かしたけれど、もう支えはどこにもなかった。
(――あっ、落ちる)
そう思った瞬間、ふわり、と。
でも――落ちなかった。
背中に感じるぬくもりは、ふんわりと甘い。
陽の光に干されたタオルみたいな、あたたかくてやさしい匂い。
その奥に、綿あめみたいな、お菓子のような甘さがほんのり混ざっている。
それがコヤのにおいだと気づいた瞬間、胸の奥がふわりとくすぐったくなった。
「……間に合って、よかった」
耳元で、やわらかく響く声。くすぐったいくらい近い。
首を少しだけ動かして振り返ると、すぐそこにコヤの顔があった。
金色の瞳がまっすぐこちらを見ていて、その中に、私の呆けた顔が映っているのがわかった。
「ごめんね、驚かせちゃった。でも、椅子の上に立つなんて、危ないよ」
その声も、息づかいも、体にふれてくる距離だった。
息が止まりそうになるくらい近くて、どこに目を向ければいいのかわからなかった。
抱きとめられていること自体が、夢の中の出来事みたいに思えた。
自分の心臓の音が、コヤにぜんぶ伝わってしまっていそうで。
恥ずかしくて、私は視線を落とした。
「……ありがとう」
ようやく絞り出した声は、自分でもびっくりするくらい小さくて頼りなかった。
すぐそばで、くすっと息をこぼす気配。
その笑い声が、安心するほどやさしかった。
そっと足が床につく。
腕の力が抜けていって、抱きとめられていたぬくもりが少しずつ離れていく。
でも、背中にふれていた温度だけは、まだしばらく、消えそうになかった。