第36話 窓辺の少女
旧校舎に入るのは、これで三度目だった。
私と、ひばり先輩と、コヤ。三人で並んで、古びた廊下をゆっくりと進んでいく。
きしむ床板と、乾いた木の匂い。
すうっと冷たい空気が、頬にやさしく触れていく。
初めてこの扉を開けたときのことを、自然と思い出していた。
あのときは、ひばり先輩とふたりだった。
“旧校舎の案内人”――コヤを探しに来た、あの日のこと。
でも今は、3人でここにいる。
肩を並べて歩くその距離が、なんだか少しだけ、あたたかく感じられた。
「じゃ、とりあえず手前から順に見ていこっか」
ひばり先輩の声に、私たちはうなずく。
1つめの教室の扉を開けて中を覗く。
次の教室も、その次も――けれど、どこも似たような空気と、似たような静けさだけがあった。
時計は外されていたり、止まっている時計が残されている部屋もあったけれど、しばらく待ってみても何も起きなかった。
「……思ったより、部屋数あるね」
廊下を半分ほど進んだところで、ひばり先輩がふっとため息をついた。
「ほんとだよ〜。全部見るの、けっこうきびしいかも」
コヤが、のんびりと背伸びしながら言った。
けど、口調とはうらはらに、その目はどこか楽しげだった。
「分担しよっか」
ひばり先輩が静かに提案する。
「いいと思う」
私はうなずいた。七不思議の時計のある場所はわからない。だったら、確かめていくしかない。
「20分後くらいに、入り口の扉の前集合で。いい?」
「らじゃ〜!」
コヤが元気に返事する。
「うん、了解」
自然に、それぞれの方向へと歩き出す。
ひばり先輩は反対側の階段をのぼっていく。
コヤは廊下の奥へと、ぱたぱたと音を立てて消えていく。
私は、残った側の教室の前に立ち止まった。
さっきまで3人でいたはずなのに、足音がひとつになっただけで、
空気がしん、と変わっていく。
私は、そっと扉に手をかけた。
(……失礼します)
思わず、そんな言葉がこぼれていた。誰にともなく――けれど、確かに何かがそこにいるような気配がした。
自然と、そう呟いていた。
誰にともなく――けれど、何かがそこにいるような気配がした。
教室の中は、がらんとしていた。
斜めから射し込む夕陽が、埃の浮かぶ空気を金色に染めている。
私は静かに壁を見上げた。
(……時計は、ない)
その代わりに、壁の一角に古びた掲示物が残っていた。
手書きの文字で書かれた生活目標、合唱練習の案内、清掃当番表。
日付が記されている。かすれたインクで、「2004年10月」と読めた。
そこにあったのは、誰かの“当たり前の時間”だった。
机も椅子も残っていない教室に、その時間の残り香だけが漂っていた。
ただそれだけのことなのに、胸の奥がわずかにざわついた。
(ここじゃない。でも、確かに“残ってる”)
私は教室をあとにし、廊下を進む。
次へ。さらにその次へ。
何も起きていないはずなのに、
どこかで、時計の針が音を立てているような気がしていた。
カチ、カチ、カチ……
実際にはどこにも針はなかったのに、その音だけが耳に残り続けた。
しばらくしてスマホを見ると、もう約束の時間がたとうとしていた。
私が入り口に帰るとほどなくして、ひばり先輩とコヤも姿を見せた。
「そっちはどうだった?」
ひばり先輩が声をかける。
「いくつか見たけど時計なし、異常なし、ほこりは多め!」
コヤが指をひらひらさせながら、楽しげに言う。
「私のほうも、収穫なし。ま、こんなもんかな」
2人がそれぞれ言う。
「私も……掲示物が残ってただけ。時計はなかった」
「じゃあ、今日はここまでにしとこっか。焦らずやろう」
ひばり先輩がポケットから手帳を取り出し、数行だけ静かに書き留める。
旧校舎の扉を開けると、外の空気は冷たく、でもどこか柔らかかった。
夕焼けが、夜の青と静かに溶け合い始めていた。空は高く、雲はまるで音を立てずにかたちを変えていた。
「明日はラムネも持ってこ~っと! 脳にいいっていうし!」
「お菓子食べたいだけでしょ、それ」
ひばり先輩が、半ば呆れたように返す。
ふたりの声が、帰り道にぽつぽつと浮かぶ。
私もその後ろを歩きながら、なんとなく、ふと――立ち止まった。
背後から、ひやりとした風が吹いた気がして、振り返る。
旧校舎の二階。夕闇に沈みかけた窓のひとつに、“誰か”が立っていた。
逆光で顔は見えなかった。でも、制服の輪郭と、肩までの髪が、淡い光の中に確かに浮かんでいた。
じっと、こちらではなく――外を見ている。
動かずに、まるで、そこに“在る”だけのように。
心臓が、きゅっと小さく縮まった。
でも、次の瞬間には、その姿はもうなかった。
それでも――見間違いだとは思わなかった。
あれは、たしかに“見えた”。
(きっと、あの教室だ)
私は心の中で、静かに決める。
何も言わず、ひとつ息を吸って、前を向いた。
そして、そのまま歩き出した。




