第35話 止まった時計
コヤの声が途切れて、部室の中はまた、しんと静まりかえった。
外からは鳥の声も人の声も届かず、ただ古い柱の軋む音だけが、ときおりかすかに響いていた。
窓の外では雲がゆっくりと形を変え、光が壁の色を少しずつ染めていく。
さっきまでなんでもなかった時間に、ふと、わずかな影が差し込んだような気がした。
――なにかが、動き出す前の、音のない予感。
「ねえ」
その静けさの中で、ひばり先輩がぽつりと口を開いた。
声は穏やかで、でもどこか、さっきまでとは少し違う色をしていた。
「止まった時計の話、みたいだね。その夢」
ひばり先輩はすっと立ち上がると、部室の隅へ歩いていった。古びた本棚の前で、しばらく背表紙を眺める。
そして、1冊のファイルを引き抜く――表紙には、手書きで「七不思議・調査記録」とあった。
ページをぱらぱらとめくりながら、ひばり先輩はつぶやいた。
「これ、昔の先輩がまとめてたやつ。……あった」
ひばり先輩がひとつの項目で指を止めると、そのままソファに腰を下ろした。
すぐ横でコヤがむくりと起き上がり、身を乗り出すようにしてファイルをのぞき込む。
私も椅子から立ち上がって、ふたりの隣に歩み寄った。
「旧校舎のどこかにある、止まったままの時計。
教室の壁に掛けられてる、ごく普通のやつなんだけど……ときどき、誰もいないのに針が動くことがあるんだって」
「勝手に?」
「うん。ほんとに、何の前触れもなく。しかも、その瞬間にね――何かが“見える”って」
「見えるって、どういう……?」
私は尋ねながら、頭の奥がふわりとざわめいた。さっきのコヤの夢と、どこか似ている気がした。
同じってわけじゃない。でも、どこか、遠くで似た響きがする気がした。
「昔の生徒の姿だったり、声だったり……その教室に残っていた時間の記憶。誰かがそこにいた“そのとき”が、ふっと再現されることがあるらしい」
「それって……幽霊とは、ちがうの?」
私は思わず、そんな言葉をこぼしていた。目の前に“いる”のではなく、ただ“そこにあった”という記憶。
人の姿をして現れるなら――やっぱり、それって幽霊と同じじゃないのかな、と思った。
「幽霊、かぁ」
ひばり先輩はノートを指先で軽くなぞると、少しだけ考えるような間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「たぶん、こっちから何かをすることはできないんじゃないかな。向こうから何かしてくることも、きっとない。ただ、その時間がそこにあるだけ。……風景の一部みたいに」
“そこにあるだけ”。
その言葉が、妙に印象に残った。
存在しているのに、触れられない。聞こえてくるのに、話しかけられない。
けれど、たしかに“残っている”。
「……記録映像、みたいな?」
私は、ぽつりとつぶやいた。
画面の向こうに見えているのに、こちらからは手が届かない――そんな感覚。
「うん。でも映像よりももっと、“空気がそこにある”感じ。匂いや音、温度まで、そのときのままで戻ってくるみたいな……」
ひばり先輩はそう言って、ノートのページの端をそっとなでた。
「……教室の思い出、みたいな」
私はつぶやくように言った。
幽霊よりも、もっと静かで、もっと寂しい。
いなくなった誰かの、“思い出”みたいで。
「それだったら、ちょっと素敵かも」
ひばり先輩が、ふわっと笑った。
「どこかで“見せたい”って気持ちがあるような気がするけどね。覚えててほしいとか、忘れたままでいてほしくないとか……そういう感じ」
話を聞いていたコヤが、のんびりと手を上げる。
「あたしの夢、やっぱりそれ関係あるのかな〜。旧校舎とか、時計とか、似てる気はしたし」
「調べてみたら、わかるかもね」
ひばり先輩がふわりと笑った。声の調子は軽やかでも、その奥には、どこか“信じている”ものがあるようだった。
「……場所は?」
「はっきりしてない。旧校舎の“どこかの教室”ってだけ。だから、ひとつずつ見ていくしかないかも」
「それって、全部でいくつあるんだっけ?」
「教室ってことだから、十何部屋くらい。ざっくりでいいなら、今日いくつか見てみようよ。まだ明るいし」
私はうなずいた。なぜかわからないけれど、さっきから胸の奥がそわそわしていた。
それは不安とも期待とも言えない、名前のない感覚だった。
ひばり先輩はノートを閉じて、そっとひざに置いた。
「……止まった時計って……なんだか、置き去りにされたみたいでさみしいね」
小さな声で、私はつぶやいた。動かなくなってしまって、そこに置き去りにされている。
誰からも気に留められないというのは、なんだかかわいそうな気がした。
「止まっててもね、そこにあること自体が、意味を持つときもあるよ」
ひばり先輩がやさしい声で言った。
「もしかしたら、そこで何かを待っているのかもしれない」
その言葉が、ゆっくりと空気にしみ込んでいく。
私は、もう一度、うなずいた。




