第32話 願い
「……湖っていうより、池っぽいね」
「そうだねぇ。でも池より湖って言ったほうが、それっぽくない?」
「……まあ、確かに」
湖――と呼ぶには、少し無理がある。
石の縁にはうっすら苔がついていて、地面にはまだ湿り気が残っていた。
前に雨が降ったのは、たしか2日前。でも、水が張るほどではなかったらしい。
私は足元のぬかるみかけた土を見て、ぼそっと言う。
「けっこう降らないと、たまらないんだね」
「うん。あと、降ってるときに来ないと流れちゃうかもね」
ひばり先輩がしゃがみ込み、手をついて湖の底をのぞき込む。
その浅い窪みには、濡れた落ち葉がいくつか貼りついていて、乾きかけた泥と一緒にへばりついていた。
「水があるとき、ちゃんと見てみたいなぁ」
ひばり先輩はそう言って、小さく笑った。
しばらく静かになって、風の音だけが草を揺らしていた。
遠くで鳥の鳴き声が一度だけ響いて、すぐにまた静けさが戻る。
ふと、背中のあたりがざわりとした。
誰かに見られているような、そんな感覚。
(……え?)
反射的に振り返る。
そこに、白い猫がいた。
石の影に身を潜めるようにして、金色の瞳だけがこちらをじっと見ている。
どこか不機嫌そうな、それでいて寂しげにも見える表情。
「……コヤ?」
その名前を呼ぶと、ひばり先輩も顔を上げる。
「やっと来たね、コヤ」
猫の姿がふわりと揺らぎ、白い毛並みが風にほどけるように変化していく。
気づけば、和装姿の少女がそこに立っていた。
「ねえねえ、なんであたし抜きで楽しそうにしてんの?」
「別に、楽しそうにしてたわけじゃ……」
「え〜、じゃあなにしてたの?」
「池を見てたんだよ」
ひばり先輩が指さす先に、コヤが視線を落とす。
「……ああ、これ。雨の日に満ちるやつ?」
「そう。それ」
「ふ〜ん……」
コヤは池に歩み寄ると縁に腰を下ろし、かかとでコツコツと叩いた。
「これさ、本当に願い叶うの?」
「噂だからねぇ。確証はないけど」
「てか、水張る条件けっこう厳しくない? 雨が強くて、しかも来れる日って」
「たしかに。タイミング悪いと逃すかも」
「……まあ、叶うかどうかより、投げるほうが目的って感じか」
コヤがそう呟いて、足元の草をくしゃっと踏みつけた。
「うちはもう願い決めてるもんね〜!」
にやっと笑って、胸を張る。
「前に言ってたやつ?」
ひばり先輩がくすっと笑うと、コヤは指を折りながら言い出した。
「お菓子食べ放題、1日中寝てても怒られない生活、あとね、毎朝パンケーキ出てくるやつ!」
「えーと……つまり、ぐうたら生活満喫プラン?」
「増えてるし……」
私とひばり先輩は、顔を見合わせてから、そろって無言でコヤを見た。
「ぐうたらって言うな〜! 夢でしょ夢っ!」
「うんうん、コヤちゃんらしくていいと思うよ」
ひばり先輩が笑うと、コヤは満足げに頷いた。
「願いごとは自由だからね! 椎名ちゃんもちゃんと考えといて!」
そう言って、今度はひばり先輩が私の方を向く。
「水が張ったら、三人で一緒に投げようね?」
「……まあ、考えるよ」
私は肩をすくめる。
ふたりが笑った。
「ふふ、楽しみ〜!」
ひばり先輩がやさしく笑って、コヤがぱっと顔を輝かせる。
「じゃあさ、そろそろ帰ろう! あたし、お腹すいた〜!」
立ち上がったコヤが両手をぶんぶん振りながら叫ぶ。
「部室にお菓子食べに行こ!」
「……結局それ?」
「おやつは命だよ! それに、椎名もお腹すいたら、願いも出てこないでしょ!」
コヤはうれしそうに先に走り出す。
ひばり先輩がゆるりとそのあとを追う。
私は、もう一度だけ湖を振り返った。
水のない、乾いた湖。
でも、雨が降れば、この場所もきっと変わる。
(……ほんとに、願いって叶うのかな)
そんなことをぼんやり思いながら、私もその背中を追った。
***
机にひとりで向かうと、部屋の音がすべて消えたように感じる。
窓の外から聞こえる風の音さえ、どこか遠くで鳴っているようだった。
引き出しから、一枚の紙を取り出す。
白くて、何の印もない紙。
でも、それを目の前に置いた瞬間、胸の奥に重みのようなものが生まれた。
あの部室で、みんなで話していた“願い”のこと。
まどかの、「みんなと仲良くしたい」という言葉。
ひばり先輩の、何気ない日常を嬉しそうに語る声。
そういえば、私も笑ってた。
いつの間にか、“ここにいる”ことが当たり前になっていた。
手元の紙に視線を落とす。
何かを願うって、なんだか少し照れくさい。
それに、願ったからって、叶うとも限らない。
でも、それでも。
“こうだったらいいのに”って、そう思う瞬間が確かにあって。
その気持ちは、たぶん、ちゃんと“願い”って呼んでいいんだと思う。
私はペンを手に取る。
少しだけ迷って、それから、そっと紙に触れた。
ペン先が走る音が、部屋に静かに響いた。
ほんの数秒。でも、その間の私は、たぶんこれまでのいつよりも正直だった。
書き終えた紙を、手のひらでそっと包む。
それは、誰に見せるものでもない。
でも、不思議と安心した。
言葉にしたことで、少しだけ自分の気持ちがはっきりした気がした。
私はそれをそっと、つるしてある制服のポケットにしまった。
窓の外では、風がやさしく揺れていた。
今日の空気は冷たくなくて、少しだけ、やわらかかった。




