第3話 知らない町
ロータリーの片隅で、私はベンチの影に立っていた。
風は乾いていて、光はやわらかくて、町全体がゆっくりと呼吸しているようだった。
キャリーケースの取っ手を握り直す。
到着時間は伝わっていて、その時間に迎えが来ると言われていた。でも、いまのところそれらしい車は見当たらない。
(……まだかな)
小さくため息をついたときだった。
1台の車が、ロータリーの端にゆっくりと滑り込んできた。
黒っぽい軽自動車。
運転席のドアが開いて、男の人が降りてきた。
シャツの袖は無造作にまくりあげられ、ジーンズはくたびれている。髪には寝癖が残っていて、無精髭もうっすら。
(……あの人、かも)
でも確信はなかった。
声をかける前に、男の人の方が先に言った。
「椎名か?」
声は低く、短く、問いかけというより確認に近い。
私は小さく頷いた。
「はい」
「そうか。あっててよかった」
男の人は私をじっと見つめるでもなく、視線をさっと下ろした。
「俺は航。君の母さんの弟だ」
ようやく出てきた自己紹介も、あまり感情の起伏がなかった。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
距離を取られている、というより、余計なことを言わない人なんだろうと感じた。
私は小さく「よろしくお願いします」と言った。航さんはそれに小さくうなずいて答えた。
視線を動かし、私のキャリーケースにちらっと目をやる。
「それだけか?」と短く聞いた。
「うん」
「持とうか」
私はその提案に首を振る。
「軽いので、大丈夫です」
「そうか。車、こっちだ」
それだけ言って、航さんはくるりと踵を返した。言葉も態度もそっけない。
だけど、私はなぜかその背中を見て、少しだけ安心した。
無理に気を遣われないことが、今の私にはちょうどよかった。
航さんは無言のまま運転席に乗り込んだ。
私も、助手席のドアを開けて乗り込む。
ドアを閉めると、かすかにコーヒーの香りがした。知らない人の車の匂いだった。
(……思い出すな、これ)
初めて友達の車に乗った時の、あの落ち着かない感じ。
でも今は、それよりも“新しい場所に向かってる”という不思議な感覚のほうが強かった。
私は黙ってシートベルトを締めた。
何も言わなくても、航さんはとくに気にしていないようだった。
***
町の景色が、ゆっくりと流れていく。
低い建物が少しずつまばらになり、代わりに住宅や畑がぽつぽつと見えてくる。その風景の変化を眺めながら、私はずっと黙っていた。
車内には静かな空気が流れていた。でも、居心地が悪いわけではない。むしろ、このくらいの距離感がちょうどよかった。
しばらくして、前を向いたまま、航さんがぽつりと口を開いた。
「姉さん……ああ見えて、けっこう悩んでた」
思いがけない言葉に、私はそっと目を伏せる。
「最初は、もう決めたみたいな話し方だった。仕事の話も、こっちの話も、ぜんぶ割り切った感じでな」
語り口はぶっきらぼうなまま。でも言葉の端に、少しだけためらいが混ざっていた。
「けど、何度か電話が来た。夜中に急に“本当にこれでいいのか”って。……どう思う?って聞かれて、俺から“月に何回か様子見に行こうか”って言ったら、“それは違う気がする”って」
窓の外を見ている私に、直接視線を向けることはなかった。けれど、その言葉の奥にある感情が、静かに胸に染みてくる。
「……姉さん、ほんとに仕事好きでさ。ずっと止まらずにやってきた。止まったら倒れそうな感じで」
少し笑ったような声だった。でも、どこか寂しさもにじんでいた。
「それでも、今回は迷ってた。1人でも行くて決めるのに時間かかってた。……でも最後には、ちゃんと決めてた。“それでも行く”って。おまえのこと、信じてるからって言ってた」
私は何も言わなかった。ただ、窓の外を見つめたまま、手をそっと握りしめる。その言葉が、どこかにしまっていたあたたかいものを、そっと浮かび上がらせた気がした。
道の端に風で揺れる草、電線に止まる鳥の影。どれも、特別なものじゃないのに――少しだけ優しく見えた。
***
車は町を外れて、もう少しだけ開けた道に出た。
「この先は住宅街、っていうか、家がぽつぽつある。わりと昔からいる人ばかりだな」
「へえ……」
「スーパーはこの先の交差点の角。小さいけど品揃えは悪くない。夕方は混む」
「うん」
「弁当屋がその隣、ドラッグストアは少し先。コンビニは反対方向に一軒。遅い時間にあいてるところはここだな」
「一通りあるんだね」
「あるけど、冬とかは油断すると何も買えない。雪がひどいとトラックが来ないからな」
「……気をつける」
ぽつりぽつりと交わされる会話が、思いのほか心地よかった。
少し間があってから、航さんがふと思い出したように言う。
「あと、イノシシが出る」
「……えっ」
最初は冗談かと思った。
でも、そう言う横顔は笑っていなかった。
「夜中に畑荒らしに来る。でかいやつ」
私は映画に出てくるような巨大なイノシシを想像して、思わず吹き出しそうになって、あわてて口元を押さえる。
「それ、どうしたらいいの?」
「ゆっくりと逃げろ。絶対に近づくな」
「わかった……」
笑いを堪えながら返すと、航さんはちらりとこちらを見て、ふっと鼻を鳴らすように笑った。
「まあ、最近はあまり出てないけどな。何年かは庭に足跡があった」
「庭に……?」
「ああ。さすがにあれは焦る」
想像すると怖い。
でも、なんだか急に町に色が付いたように思えて、私はまた小さく笑った。
航さんはそれ以上何も言わなかったけれど、その横顔は少しだけ穏やかに見えた。
***
そして、道の先に、一軒の家が見えてきた。
まわりに他の建物はなくて、木々と空に囲まれるように立っている。
夕方の光の中、ゆっくりと近づいてくるその姿を見つめながら、私は思った。
(ここが、今日からの“私の家”)
母が私を思って選び、航さんが受け入れてくれた、その場所。
何が始まるのかは、まだわからない。
でも、ここで過ごしていくんだと――そう思えた。