表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
篠宮椎名の七不思議研究ノート  作者: 如月
序章 転校
3/66

第3話 知らない町

 ロータリーの片隅で、私はベンチの影に立っていた。

 風は乾いていて、光はやわらかくて、町全体がゆっくりと呼吸しているようだった。


 キャリーケースの取っ手を握り直す。


 到着時間は伝わっていて、その時間に迎えが来ると言われていた。でも、いまのところそれらしい車は見当たらない。


(……まだかな)


 小さくため息をついたときだった。

 1台の車が、ロータリーの端にゆっくりと滑り込んできた。


 黒っぽい軽自動車。

 運転席のドアが開いて、男の人が降りてきた。


 シャツの袖は無造作にまくりあげられ、ジーンズはくたびれている。髪には寝癖が残っていて、無精髭もうっすら。


(……あの人、かも)


 でも確信はなかった。

 声をかける前に、男の人の方が先に言った。


「椎名か?」


 声は低く、短く、問いかけというより確認に近い。

 私は小さく頷いた。


「はい」


「そうか。あっててよかった」


 男の人は私をじっと見つめるでもなく、視線をさっと下ろした。


「俺は航。君の母さんの弟だ」


 ようやく出てきた自己紹介も、あまり感情の起伏がなかった。

 でも、不思議と嫌な感じはしなかった。

 距離を取られている、というより、余計なことを言わない人なんだろうと感じた。


 私は小さく「よろしくお願いします」と言った。航さんはそれに小さくうなずいて答えた。

 視線を動かし、私のキャリーケースにちらっと目をやる。


「それだけか?」と短く聞いた。


「うん」


「持とうか」


 私はその提案に首を振る。


「軽いので、大丈夫です」


「そうか。車、こっちだ」


 それだけ言って、航さんはくるりと踵を返した。言葉も態度もそっけない。

 だけど、私はなぜかその背中を見て、少しだけ安心した。


 無理に気を遣われないことが、今の私にはちょうどよかった。


 航さんは無言のまま運転席に乗り込んだ。

 私も、助手席のドアを開けて乗り込む。


 ドアを閉めると、かすかにコーヒーの香りがした。知らない人の車の匂いだった。


(……思い出すな、これ)


 初めて友達の車に乗った時の、あの落ち着かない感じ。

 でも今は、それよりも“新しい場所に向かってる”という不思議な感覚のほうが強かった。


 私は黙ってシートベルトを締めた。

 何も言わなくても、航さんはとくに気にしていないようだった。


 ***


 町の景色が、ゆっくりと流れていく。


 低い建物が少しずつまばらになり、代わりに住宅や畑がぽつぽつと見えてくる。その風景の変化を眺めながら、私はずっと黙っていた。


 車内には静かな空気が流れていた。でも、居心地が悪いわけではない。むしろ、このくらいの距離感がちょうどよかった。


 しばらくして、前を向いたまま、航さんがぽつりと口を開いた。


「姉さん……ああ見えて、けっこう悩んでた」


 思いがけない言葉に、私はそっと目を伏せる。


「最初は、もう決めたみたいな話し方だった。仕事の話も、こっちの話も、ぜんぶ割り切った感じでな」


 語り口はぶっきらぼうなまま。でも言葉の端に、少しだけためらいが混ざっていた。


「けど、何度か電話が来た。夜中に急に“本当にこれでいいのか”って。……どう思う?って聞かれて、俺から“月に何回か様子見に行こうか”って言ったら、“それは違う気がする”って」


 窓の外を見ている私に、直接視線を向けることはなかった。けれど、その言葉の奥にある感情が、静かに胸に染みてくる。


「……姉さん、ほんとに仕事好きでさ。ずっと止まらずにやってきた。止まったら倒れそうな感じで」


 少し笑ったような声だった。でも、どこか寂しさもにじんでいた。


「それでも、今回は迷ってた。1人でも行くて決めるのに時間かかってた。……でも最後には、ちゃんと決めてた。“それでも行く”って。おまえのこと、信じてるからって言ってた」


 私は何も言わなかった。ただ、窓の外を見つめたまま、手をそっと握りしめる。その言葉が、どこかにしまっていたあたたかいものを、そっと浮かび上がらせた気がした。


 道の端に風で揺れる草、電線に止まる鳥の影。どれも、特別なものじゃないのに――少しだけ優しく見えた。


 ***


 車は町を外れて、もう少しだけ開けた道に出た。


「この先は住宅街、っていうか、家がぽつぽつある。わりと昔からいる人ばかりだな」


「へえ……」


「スーパーはこの先の交差点の角。小さいけど品揃えは悪くない。夕方は混む」


「うん」


「弁当屋がその隣、ドラッグストアは少し先。コンビニは反対方向に一軒。遅い時間にあいてるところはここだな」


「一通りあるんだね」


「あるけど、冬とかは油断すると何も買えない。雪がひどいとトラックが来ないからな」


「……気をつける」


 ぽつりぽつりと交わされる会話が、思いのほか心地よかった。


 少し間があってから、航さんがふと思い出したように言う。


「あと、イノシシが出る」


「……えっ」


 最初は冗談かと思った。

 でも、そう言う横顔は笑っていなかった。


「夜中に畑荒らしに来る。でかいやつ」


 私は映画に出てくるような巨大なイノシシを想像して、思わず吹き出しそうになって、あわてて口元を押さえる。


「それ、どうしたらいいの?」


「ゆっくりと逃げろ。絶対に近づくな」


「わかった……」


 笑いを堪えながら返すと、航さんはちらりとこちらを見て、ふっと鼻を鳴らすように笑った。


「まあ、最近はあまり出てないけどな。何年かは庭に足跡があった」


「庭に……?」


「ああ。さすがにあれは焦る」


 想像すると怖い。

 でも、なんだか急に町に色が付いたように思えて、私はまた小さく笑った。


 航さんはそれ以上何も言わなかったけれど、その横顔は少しだけ穏やかに見えた。


 ***


 そして、道の先に、一軒の家が見えてきた。


 まわりに他の建物はなくて、木々と空に囲まれるように立っている。

 夕方の光の中、ゆっくりと近づいてくるその姿を見つめながら、私は思った。


(ここが、今日からの“私の家”)


 母が私を思って選び、航さんが受け入れてくれた、その場所。

 何が始まるのかは、まだわからない。

 でも、ここで過ごしていくんだと――そう思えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ