第23話 音を追って
旧校舎の裏口にたどり着いたとき、そこには南京錠がかかっていた。
でも、ひばり先輩が軽く手を添えると――
「ほら、開いた」
かちり、と小さな音がして、鍵が外れる。
「……細工してたの?」
私が尋ねると、ひばり先輩は「さあ?」と曖昧に笑った。
「最初からちゃんとかかってなかったみたいだね。ラッキー♪」
「……そんなことある?」
「あるんだよ〜、こういう場所ってさ」
どこか軽い調子で言うひばり先輩に、私は小さく息を吐いた。
(まあ……入れるならいいか)
ひばり先輩がドアを押し開けた瞬間、冷たい空気がふっと流れてきた。
中はしんと静まり返っていて、まるで時間が止まっているようだった。ほこりっぽいにおいと、湿った木の匂い。目の前に広がるのは、昼間とはまるで違う景色だった。
「うわぁ……やっぱり夜に来ると雰囲気あるねぇ」
コヤがぼそっと呟く。
「怖いの?」
私が何気なく聞くと、コヤはぴくっと肩をすくめた。
「べ、別に? ただ、その……こういうのは、雰囲気が大事っていうか?」
「……さっきからやたらとくっついてくるけど」
「気のせいだよ!」
笑いながらも、明らかに私の背後に隠れるような動きをしている。
「コヤ、ずっとここにいたんじゃなかったの?」
「昼間はね! でも夜は……怖いから、寝てた!」
「……」
「だから、夜の旧校舎なんてほぼ初めてなの!」
真剣な顔で言われると、なんだか本当っぽかった。
「それで案内人なの?」
「名乗ってたんじゃなくて、勝手に呼ばれてただけだから!」
ひばり先輩がくすっと笑って、鞄から紙を取り出す。
「はい、これ。旧校舎の見取り図」
私はそれを受け取って、懐中電灯の光にかざす。
「音楽室は……三階の奥、だね」
「ふむふむ、遠いねぇ」
コヤが地図を覗き込んで、少しげんなりした声を出す。
「まあ、行くしかないでしょ」
「そだね!」
ひばり先輩が頷く。
私たちはゆっくりと歩き始めた。
廊下の床は思った以上に軋んだ。
踏むたびに、ぎし、と乾いた音が響いて、ちょっとずつ緊張が増していく。壁には古びた掲示物が残っていて、色あせた紙が風にふわりと揺れた。
風の音が、どこかから聞こえる。窓は閉まっているはずなのに、隙間風があるのかもしれない。
(……ただの風、のはず)
それでも、耳に触れるその音が、誰かの囁き声のように思えて、足がすこし強ばる。
誰も何も言わずに、無言で進む。
階段が見えてきた。
「音楽室に行くなら、ここを上がれば――」
「……待って」
急に、コヤが小さく手を上げた。
「どうしたの?」
私が振り向くと、コヤは耳に手を当てて、じっと何かを聞いている。
「……ピアノの音、聞こえた」
「え?」
私とひばり先輩は顔を見合わせた。
(やっぱり……猫の耳って、聞こえる音の幅が違うのかな)
「今はもう消えた。でも、さっき確かに聞こえたよ」
静寂の中で、その言葉だけが妙にくっきりと響いた。
(まさか、もう弾いてる……?)
「わかんない。でも、近づいたら、もっとはっきり聞こえるかも」
階段の先を見る。
三階へ続く影が、薄暗い廊下に伸びていた。
私は喉を鳴らして、足に力を入れる。
「行ってみよっか」
ひばり先輩が微笑んだ。
私たちは、静かに階段を上る。
一段、また一段と足を踏み出すたび、空気が冷たく変わっていくのがわかる。
耳の奥に、かすかに残響のようなものがこだましている。
最初は何も聞こえなかったけれど、少しずつ――本当に少しずつ、音が響き始めた。
***
三階の廊下に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった気がした。
さっきまでの静けさとは、少し違う。耳の奥で、かすかに響く音――それが何なのかを意識したとたん、ぞわりと背筋が粟立つ。
ピアノの音だ。間違いない。
断続的に、ところどころで途切れながら、それでも消えずに廊下の奥から響いてくる。誰かが弾いているようで、でも旋律にはならない。リズムもなく、不安定で、まるで何かを探して迷っているみたいな音。
「……なに、これ」
コヤがかすれた声で呟いた。さっきまでのおどけた調子はどこにもない。金色の瞳が不安げに揺れて、私の袖をぎゅっと掴んでくる。
「椎名ちゃん……これ、本当に“鳴ってる”んだよね?」
私は返事ができなかった。唇がこわばって動かない。
手のひらがひどく冷たい。胸の奥がどくどくと音を立てて、体の中心に集まっていくみたい。
(……やばい)
怖い。けど、逃げたくない。
――そのとき。
「ねえ、手、つながない?」
ひばり先輩の声が、するりと私たちの間に落ちた。
ふざけているわけじゃなかった。先輩の顔は、やさしくて、でも真剣だった。
「こういうのって、繋いでた方がちょっとは怖くなくなると思うんだよね」
私は、迷ったあとでその手を取った。
あたたかい。
コヤもすぐに、私のもう片方の手を握ってくれた。指先が少し震えていたけど、それもぎゅっと包み込んで。
三人で、手をつなぐ。
それだけで――張り詰めていたものが、少しだけやわらいだ。
(……平気)
まだ怖い。でも、進める。
「……じゃあ、行こうか」
ひばり先輩の声に、私とコヤは小さく頷いた。
音はまだ鳴っている。ぎこちなく、不安定に。でも、確かにそこにあった。
私たちは、音に導かれるように廊下を進んだ。
そして――音楽室の前にたどり着く。
古びた黒い扉。塗装がはがれかけて、ところどころ木目がむき出しになっている。静かな廊下に、その存在だけが異様に浮かび上がって見えた。
私は息をひそめる。
鍵は、かかっていない。
「……開けるよ?」
ひばり先輩の声に、私は無言で頷く。
ギィ――
蝶番が軋んで、音を立てた。
その瞬間。
ピアノの音が――止まった。
「……え?」
思わず声が漏れる。
さっきまで確かに鳴っていたのに。扉を開けた途端、まるで最初から何もなかったように、音は消えた。
そこにあったのは――ただの音楽室。
誰もいない。
けれど。
教室の奥、月明かりにぼんやりと照らされたピアノだけが、静かにそこに佇んでいた。
「……」
私は、音に誘われるように近づいていった。
――そのときだった。
鍵盤の上に、何かが見えた。
(……紙?)
小さな、破れた紙の切れ端。誰かが置いたように、ぴたりと鍵盤の上に乗っている。
私は、ごくりと息をのむ。
「ひばり先輩、コヤ……」
呼びかけながら、私はそれを指差した。
「……ここに、何か――」
だけど。
「……何もないけど?」
ひばり先輩が首をかしげる。
「え……?」
「椎名ちゃん、どうしたの?」
コヤも、不思議そうに私を見ている。
(うそ……見えてないの?)
私には、はっきりと見える。けれど、ふたりには見えていない。
(私にしか、見えない?)
私は、おそるおそる手を伸ばした。
――そのとき。
「椎名ちゃん――!」
ひばり先輩の声が、鋭く響いた。
でも、その警告が届く前に。
私は、その紙に――触れてしまった。
――カタ。
私の指が、鍵盤の上に落ちた。
ぞわり、と背筋を何かが走る。
そして。
静寂の中に、音が落ちた。
たった一音のピアノの音が、深く、深く、私たちの耳に染み込んだ。