第2話 余計なもの
駅舎を出ると、風が頬をかすめた。
空気は乾いていて、ほんのり冷たい。
秋の昼の光は弱く、アスファルトの上に静かな影を落としている。
駅前は静かだった。人の姿はほとんどなく、迎えの車もまだ来ていない。
私はキャリーケースの取っ手を握ったまま、ベンチのそばに立ち尽くす。通りすぎる人も、こっちを見る人もいなかった。
(……静かな町)
音も少ないし、人の気配すらぼんやりしていた。静かで、誰かに踏み込まれるような感覚もない。
そういう場所の方が、私はずっと落ち着く。
……でも、なんでだろう。
いつから、こんなふうに感じるようになったんだっけ。
***
はじめて“余計なもの”を見たのは、たしか幼稚園のときだった。
小さな公園。
ブランコがぎい、と風に揺れていた午後。
私は友達と鬼ごっこをしていて、ちょっとだけ鬼から逃れて木陰に隠れていた。
そのときだった。
フェンスの向こう、駐車場のすみで、誰かがこっちを見ていた。
見知らぬ男の子だった。
晴れた日なのに、髪が濡れていて、服もどこか古びていたけれど、私は何の疑問も持たずに声をかけた。
「あなたも、一緒に遊ぼうよ」
男の子はびくりと目を見開いたあと、すぐに走っていった。
私は驚いて追いかけようとした。
でも、友達に手をつかまれて止められた。
「ねえ、椎名ちゃん……誰と話してたの?」
その声には、ほんの少しの不安と戸惑いが混ざっていた。
「……さっきの、あそこにいた子」
私が指さした先には、もう誰もいなかった。
でも、確かにいたのだ。
私の目には、ちゃんと映っていた。
その日を境に、「少しずつ」変わっていった。
誰かと話していると、ふと相手の目が泳ぐ。笑い合っていたはずなのに、急にぎこちなくなる。
何かがおかしい。
でも、それが何なのかは、まだはっきりとはわからなかった。
やがて教室の隅で、私の名前がささやかれるようになる。
「あの子、変なものが見えるんだって」
声は聞こえたけれど、何も聞こえなかったふりをした。でも、それから、似たような言葉を何度も耳にした。
小さな笑い声とともに誰かが言う。
「勝手にぶつぶつ言ってたらしいよ」
廊下ですれ違った子が、友達同士でこそこそ話す。
「昨日も、誰もいないとこ見てたって」
(――ああ、そういうことか)
なんとなく、腑に落ちた気がした。
それから私は“余計なもの”を無視するようにした。何があっても視線をそらし、聞こえなかったふりをする。
そうしていれば、きっと普通になれると思っていた。
だけど、遊びに誘われることは少なくなっていく。会話の輪に入ることもなくなっていった。休み時間に話しかけても、返ってくるのはどこかよそよそしい声。
それでも、気にしなかった。
もともと1人でいるのが好きだった。
みんな忙しくなっただけだ。
そう思い込む。
気にしなければ、それは存在しないのと同じだから。それも“余計なもの”なのだと、思うことにした。不安も寂しさも、感じないようにすれば、傷つかなくてすむと思った。
そうして、私の周りには何もなくなった。
小学校も高学年に上がる頃には、私はすっかり“静かな子”として扱われていた。無口で、落ち着いていて、ちょっとミステリアス。
でも、はっきり嫌われているわけでもない。
“関わりにくいけど、害のない子”。
そんなポジションに、自然と落ち着いていった。
私は、自分からも人に近づかないようにした。
「話しかけられないなら、それでいい」
そう言い聞かせて、心のどこかをそっと閉じた。
そんな日常は、静かだった。
朝起きて、いつもの服に袖を通して、学校へ行く。授業を受けて、給食を食べて、帰ってきて、部屋にこもる。
誰にも気づかれずに過ごせることが、最初は安心だった。でも、いつの間にか、それが“なにも起きない日々”になっていた。
人との関わりは薄く、けれど心は静かに痛みを残していった。
それでも、何かを変えようとは思わなかった。
「変わりたい」とか、「わかってほしい」とか。
そういう感情さえ、もう疲れてしまっていた。
***
だから、母に「海外勤務」の話をされたとき。
私は、なぜだか少しだけ、ほっとしてしまった。
「ここを出ていける」という理由じゃなかった。
「別の場所なら、もっと普通に過ごせる」って、そう思ったのだ。
私は、どこに行っても変わらない。
だったら、違う景色のなかで、静かにすごしていけばいい。
人と関わらない。誰にも気づかれずに過ごす。
余計なものは、見ない。感じない。話さない。
新しい場所でそうしていれば、私は“普通”のままでいられる。
そう信じて、私は霧ヶ原にやってきた。
キャリーケースを引きながら、私は駅の出口を見上げる。
やわらかい陽射し。
白い雲と青い空。
少し乾いた風。
どこまでも静かな町だった。
でも私は、その静けさの中で――、
ほんの少しだけ、胸の奥がざわついていることに気づいていた。