第11話 誘い
私は、そこに立ち尽くしていた
……なに、今の。
胸の奥に、言葉にできない違和感が沈んでいる。けれど、それを直視するのが、なんとなく怖かった。
「私には関係ない」
小さく呟く。
そう思えば、いつも通りの一日になるはずだった。
でも、足が動かなかった。
視線は、閉ざされた旧校舎の扉に貼りついたまま。あの小さな背中の残像が、目の奥から離れない。
扉が開いて、誰かが振り向いた。
そして、音もなく閉まった。
ただの見間違いってことにすれば簡単だった。
でも――どうしても、それができなかった。
そのとき。
「なーに見てんの?」
耳元で、唐突に声がした。
「――っ!」
驚いて振り返ると、すぐそばにひばり先輩が立っていた。
***
「わ、めっちゃびっくりしてるじゃん」
ひばり先輩は、いたずらが成功した子みたいに笑っていた。
「なんで……」
「なんでいるのかって? それはね~」
くるりとその場で一回転して、ひばり先輩は軽やかに言う。
「椎名ちゃんがじーっと旧校舎見てたから、気になっちゃって」
……ずっと見られてたのか。
なんだか少し落ち着かない。
でも、ひばり先輩の無邪気な声は、不思議と警戒心を誘わなかった。
「で? 何か見えた?」
私は黙って旧校舎を見つめたまま、自然に言葉をこぼしていた。
「……さっき、あそこに誰か入っていった」
「ふぅん」
ひばり先輩は軽く相槌を打って、扉の方をちらりと見る。
「それで?」
「……それで、って」
「椎名ちゃんは、どうするの?」
「どうもしない」
口ではそう言いながら、私はまだ扉から目を離せなかった。
「そっか」
ひばり先輩は少しだけ首をかしげて、微笑む。
「でも、気になってるよね?」
「……気にしてない」
言ったあと、自分の声だけが、ぽつんと浮いていた気がした。心とずれた言葉だけが。
「今、その子はどこにいるんだろうね」
ひばり先輩のその言葉が、ずれた心の隙間にすっと入り込む。
私は唇をぎゅっと引き結ぶ。気づけば、指先がほんの少しだけ震えていた。
それを見ていたひばり先輩が、小さく笑った。
「一緒に確認しに行こうよ」
「……そういうの、別に興味ないから」
ひばり先輩は少しだけ目を見開いて、それからすぐに笑った。
「そっか。うん、無理にとは言わないよ」
私は、先輩の顔を見なかった。
ただ、旧校舎をぼんやりと見つめる。
これ以上、変な方向に転がるのは嫌だった。
ようやく手に入れた“ふつうの毎日”を、まだ壊したくなかった。たとえ、それが、続く保証なんてどこにもないものだったとしても――
***
「今回だけ。女の子を連れ戻すだけ、だから」
小さな女の子が、旧校舎の中へと消えていった。
それを止める。ただ、それだけ。
私は自分にそう言い聞かせて、ひばり先輩と歩き出した。
「……そっか」
ひばり先輩は、少しだけ口元をゆるめた。
夕陽が長く伸びて、ふたりの影を地面に揺らしていた。
「旧校舎ってさ、昔は普通に使ってたんだよ」
他愛もない話をするような調子で、ひばり先輩が続ける。
「でも、増築ばっかしてたせいで、中はちょっと迷路みたいになってる。教室も階段も、規則性がなくてばらばらで」
「それで、使われなくなったの?」
「まあ、それもあるけど。耐震もヤバいし、設備も古いしね」
ひばり先輩はちらりと私を振り返って、少し声のトーンを変えた。
「でも、そういう理由だけだったら、こんなに噂にはならないんだよね」
「……噂?」
「うん、この学校の七不思議。旧校舎は、その舞台なんだって」
***
気がつけば、もう旧校舎の前まで来ていた。
私は立ち止まり、目の前の建物を見上げる。
思った以上に、空気が重い。
遠くから見たときよりも、ずっと圧がある。
夕暮れの光が斜めに差し込み、古びた壁に影が長く伸びている。
誰もいないはずなのに、妙に静かで――その静けさが、やけに耳に残った。
風が吹いた。
校舎の隙間をすり抜けていくような音がした。
「椎名ちゃん?」
「……なに」
「止まってるけど、入らないの?」
「……別に」
そう言いながら、私は一歩も動けなかった。
目の前にある扉が、さっきの出来事と重なって見える。あの女の子が、音もなく消えていった扉――それだけで、背中に冷たいものが這う。
すると、ひばり先輩が、私の手をそっと握った。
「大丈夫。一緒だから」
顔を上げると、まっすぐな笑顔があった。
どこか軽くて、何を考えているのかよくわからない。だけど、それがほんの少しだけ、肩の力を抜かせた。
「ほら、行こ?」
その言葉に背中を押されて、私は足を踏み出した。
ぎぃ――
古びた扉が、軋む音を立てて開く。
中から、ひんやりとした空気が流れ出した。
埃と湿気、それに混じる、どこか錆びたようなにおい――知らない場所に足を踏み入れるときの、あのざらついた感覚。
それは、日常の終わりと、
なにかの始まりを告げる気配だった。