第1話 篠宮椎名
閉じたまぶたの向こうから強い光を感じて、私は目を開いた。
いつの間にか寝てしまっていたらしい。
電車の乗客はまばらで、皆どこかぼんやりと自分の時間に沈んでいるようだった。
私は窓際の席に座ったまま、指を組み、スカートの上で軽く揺らす。それは癖のようなものだった。緊張すると、いつもこうする。
膝に落ちた朝の光は、薄くて頼りない。
心を温めるには少し足りなくて、でも、冷たすぎることもなかった。
(……遠いところに来ちゃったな)
心の中に言葉が浮かんだ瞬間、胸の奥に何かがふわりと沈むような感じがした。
東京を離れて、もう2時間以上。
乗り継ぎを繰り返し、気づけば景色はすっかり違っていた。
喧騒も、雑音も、駅のアナウンスも消えて、ただ、風と木々の音だけが車窓の外に広がっている。
静かだった。
でも、それが少しだけ、心地よかった。
***
篠宮椎名。14歳。
今日、私は生まれ育った東京を離れ、新しい場所へ行く。誰も私を知らない町。
誰も、昔の私を見ていない場所。
(……きっと、うまくやれる)
そう思っていた。いや――思おうとしていた。
窓の外に目をやると、遠くの稜線がにじんでいた。霧のせいか、それとも光のせいか。どこか夢の中の景色みたいだった。
私はそっと目を閉じた。
***
――3週間ほど前の夜。夕飯の最中だった。
「私、海外勤務になりそうなの」
母の声が、頭の奥でふわりと響いた。
それは突然だったけど、意外と驚きはなかった。むしろ私は、その言葉をどこかで待っていたような気さえした。
私が作った、ハンバーグとスープに、母は箸を動かしながら、何気なくその話を口にした。
「……急だね」
「うん、まあ……うちの会社、いつも突然だから」
母は少し笑った。でも、その笑顔はどこか引きつって見えた。ほんのすこし、後ろめたさが混ざっていた気がする。
「行き先は?」
「ロンドン。来月の初めには行かなきゃいけなくて……。半年か、1年くらい」
私は、箸をを止めたまま、少しだけ考えた。
「……じゃあ、私は?」
「それなんだけど」
母は、カップに手を添えながら言った。
「叔父さんのところにお願いしようと思ってる。航、私の弟。小さい頃にあったことがあると思うけど」
私はすぐには何も言わなかった。ただ、小さく息を吸って、言葉を探す。
「……別に、ここで1人でもやっていけるよ」
そう口にすると、母は少しだけ驚いたような顔をしたように見えた。
「料理もできるし、洗濯もひと通り覚えたし、忘れ物もしない。……それに、もともとそんなに一緒にいたわけじゃないし」
母の箸が止まった。
「……そうだね。仕事ばっかりで、ごめんね」
ぽつりと落ちたその声は、私が想像していたよりも、ずっと寂しそうだった。
「ほんとはもっと、ちゃんとあなたのそばにいたかったよ。でも……」
言い訳がましくならないように、気をつけてるのがわかった。そこにちゃんと“気持ち”があるのが、私にも伝わった。
「でもね」
母は、カップを両手で包みながら、静かに言った。
「それでも、あなたを1人にはしたくないの」
今度は私が少し驚いた顔をしてしまう。
私はもう大丈夫なのに。
ひとりでいることにも、慣れてるのに。
そんな気持ちが、一瞬だけ胸に浮かんだ。
でも次の言葉で、すっとその棘がほどけていった。
「これはね、私のわがままなの。あなたを、航のところに預けるのは。……勝手に、ひとりにさせたくないって思ってるだけ」
母は笑った。ほんの少し、涙がにじんだ目で。
「椎名は強い子だって、わかってる。ひとりで頑張れる子だって、ちゃんと知ってる。でも、それでも……あなたに“誰かがいてくれる”ことを感じてほしいの」
私は、なにも言えなかった。
口を開いたら、何かがこぼれそうな気がして、ただ黙っていた。
夕飯のあとのキッチンで、洗い物をしている母の背中を見ながら、私は思った。
(私はやっぱり、守られてるんだな)
一緒にいる時間は少なかった。でも、それでも母は、ずっと私を見ていてくれた。そして今も、ちゃんと“そばに誰かがいてほしい”って思ってくれている。
たぶんそれだけで、私は十分だった。
***
列車が駅に近づく。
アナウンスが流れ、私は静かに立ち上がった。
キャリーケースの取っ手を握りしめて、ゆっくりと歩き出す。
窓の外には、小さな駅のホームが見えた。
鈍く光るコンクリート、鉄柵、古びた看板。人影はほとんどない。
電車を降りた瞬間、ひんやりとした風が頬を撫でた。秋の匂いが、すっと鼻をかすめる。
(ここが、霧ヶ原)
静かな山あいの町。
人が少なくて、音も少なくて、何もない場所。
だけど私は、それを望んでここに来た。
誰にも気づかれず、誰にも期待されず、
波風を立てずに、目立たずに――普通のふりをして、生きていく。
私はここで、もう一度やり直す。
静かに。淡々と。
まるで最初から、そうだったかのように。