八話目。「情けない夢、そこで輝く君が、君が。」
「──リョウカ、次やけど……なんか疲れてない?」
「うん? いや、大丈夫っ」
いつも通りの、練習日。
クラブのチームメイトに肩を叩かれて、リョウカは間隔を空けて六台並べられたトランポリンの一つに飛び乗って、ふうっ、と息を吐く。
……疲れてる、のかな。
確かに、プレッシャーはある。こないだの西日本大会では優勝できなかったから。次の、関東で開催されるジュニアオリンピックカップでは、ちゃんと一位になりたい。 悔しさもバネに。そう思って、学校終わりに毎日のようにこうして飛び跳ねているわけだけれど。
「集中っ」
ポニーテールに結んだ後ろ髪をサッと流して跳躍を始める。練習は後半に進んでいて、踏み込んだ脚が少し重い。それ以前に最近は調子の悪い日が多い気がする。
それでも、今のままじゃ、私の上に立ったあの子を越えられないから。
もっと、あの子たちより、高く、美しく。
次のジュニアオリンピックカップで使う予定の十種目演技は、先月の西日本大会よりさらに攻めた構成だ。連続する十の技、それが全部二回宙になる。二回宙なんて、技の一つ一つの難易度が一回宙と比べて跳ね上がるし、消耗する体力は倍どころではなくなるのだ。パワー的にも、スタミナ的にもかなりハード、ギリギリだ。これまでの練習でも途中で墜落することが多くて、コーチの雷もその度に落ちてきて、何度めげそうになったか。
ヒュッ、と喉から甲高い吐息が鳴る。
着地、同時に急上昇。
およそ十回のジャンプで高さを稼ぎ、いよいよ十種目に差し掛かった。
重厚な音を響かせて、収縮したスプリングがリョウカをはるか上空へ投げ飛ばす。
その度に、リョウカは中学生離れした才能と、努力をもって技をこなす。
跳躍を挟むごとに、冷や汗の雫が弾け飛ぶ。
ほんの一瞬しかできない呼吸を強引に行って、酸欠で思考が霞む。
それでも十年以上の経験から得た感覚と、努力の末に得た、華奢だが強靭な肉体をフルに活用して、伸膝の前方二回宙一回半ひねり、膝を抱えての後方二回宙、タックのルディアウト、タックの後方二回宙一回ひねりまでを完遂する。
前半の難関のルディアウトからのハーフインアウトはクリアした。でも、ここからが勝負どころだ。
なにせ、酸欠と疲労で手足が震えている。
続く五本目は、パイクの前方二回宙半回転捻り。最初の四本に比べれば、まだ簡単な技。だが、先の四本で生じたほんのわずかなズレを、ここで修正できなければ、残りの技をまともにやり切ることは一気に困難になるだろう。
疲弊に喘ぐ全身を叱咤して、ハーフアウトを仕掛けた。
ジャンプの最高到達点、技の最中で体勢が逆さになった一瞬、地上から自分を見上げるチームメイトたちが視界に映り込む。
羨望と、期待の眼差し。普段はとっても厳しいコーチでさえも、今はみんなと同じ目をしていた。
……ああ、応えたいな。
そのときだった。
完璧に着地したはずのリョウカの右の足首の中で、何かがバチン、と弾け飛ぶような音がして、跳び上がった彼女の全身を、視界が真っ赤になるような痛みが貫いたのは。
「──がっ」
「マット入れてッ!」
姿勢が大きく崩れた。明らかな危険、コーチの指示が素早く飛んで、彼女の着地点にマットが投げ込まれる。
でも。
「無理だ──」
口の中で弱々しく言った。
だって、右足が痛くて、動かせない。左足だけで着地? マットまで四、五メートルはある。この高さで、この足で、無理に着地したらきっと、今以上の痛みに襲われる。じゃあどうすれば、どうすればいいの?
激痛と、酸欠と、パニックと、涙で滲んで明瞭さを失った視界が、空中で孤独となった彼女を追い詰める。
──どうしよう。どうしたら、どうすれば、ああ、ああ、あぁ……。
「──怖い……」
琥珀色の瞳からこぼれ飛んだ涙を宙に残して、何が何だか分からないまま、リョウカは敷かれたマットに背中から叩きつけられた。
「────ッ!?」
そのとき不可抗力で打ち付けた足首が、千切れたかと思うほどの激痛を発して思わず泣き叫ぶ。
痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。────怖い。
その後のことは、良くは覚えていない。ただ、ふと我に返ったときには自分は、右足首にギブスを巻いていて、両脇に松葉杖を挟んでいて、ジュニアオリンピックカップを棄権した。
クラブのみんなに心配されて。学校でも心配されて。気配りができる友達の親切が嬉しい反面悔しくて、親友のあかりにはそれを打ち明けて。
だいぶん激しく損傷していたらしい靭帯が元に戻るまで半年以上、翼を羽搏かせることができずに地面に張りついていた生活が続いた。
──早く治ってほしい。早く、跳びたい。
その間、ずっと胸の中の熱は治まらなくて。
そうして八か月が経ち、ようやくギブスが外れる。
跳ぶどころか走ることも歩くこともままならなかった生活が長くて、みすぼらしいほどに痩せた自分の脚に驚きはしたけど。
「リョウカ、もう脚はいけるんか」
「はいっ」
「ヨシ、よう戻ってくれた」
おかえり、と言ったコーチとハイタッチを交わして、リハビリを始めた。
地上でのトレーニングに、すっかりなまってしまった、特に下半身の柔軟。トランポリンに乗るまでに一週間もの時間をかけて、そして。
「──あれ……?」
ようやく乗った、ずっと待ち焦がれて、やっと乗れたはずなのに。
「なんで、跳べないの……?」
跳ぼうとして、両足に力を込めようとして、かくん、と腰が抜けた。
へたり込んだ自分、その膝が小鹿みたいに震えている。
どうして震えるの。どうして力が入らないの。……どうして、怖がってるの。
「うそ……」
気を取り直してもう一度たち立ち上がり、足を踏み込んでベッドを押し込んだ。今度は少し浮いたが、それだけだった。着地の瞬間膝の力が抜けて、またしても正座のような体勢になる。
どうして。リョウカは記憶を、感覚を頼りに何度も跳ぼうとして、その度に跳べなくて、ようやく気付いた。
記憶って、感覚って、なんのこと?
トランポリンを始めて、十年以上。毎日続けていた習慣が、八か月の間に全部抜け落ちて、今やもう、何も残っていない。
刹那、心が空っぽになったような、大穴が突然開いたような、それぐらいの衝撃が心を揺さぶった。かと思えば、その後すぐに、色々な感情がグルグルと混ざって、熱い何かになって胸元に雪崩れ込む。
「ああ……」
膝と同じぐらい、震えた声が、不意に零れる。声はどんどん言葉を失って、嗚咽に変わって。膝に、ぼたぼたと、大粒の涙が零れ落ちて。
「──うぅ……ああっ、ぁあああ……っ!」
これまで、色んな大会に出場して、全国あちこちの会場に行って、時には海さえ超えたのに。
そうして獲ってきた数々のメダルが、撮ってきた何百という記念写真が、その記憶が、注いだ情熱が、費やした時間が、背負ってきた期待が、それにこれまで応えてきたプライドが、トランポリンという日常で骨の髄まで染み込んでいた感覚が。
破裂したあらゆる感情が、絡んで、入り混じって、涙に溶け込んで頬を滑り落ち、自分の膝元で砕け散る。
──空中にはもう自分の居場所なんてない、自分の心に巣食ったあまりに大きな喪失感にそう言われた気がして。
それが悔しくて、悲しくて、リョウカは子供のように声を上げて泣きじゃくる。
戻れるはずだって、前みたいに、楽しく、人生を費やせるぐらいの情熱を、存分に吐き出させてくれると、思っていたのに。もう、それはできないと言い切るように動かない自分の身体が憎くて、許せない。
トランポリンの、網目状のベッドを掴んで、蹲る。
私は、私は、どうしたらいいの。
──そのとき、ガシャン、とスプリングが強く弾ける破裂音が一帯に響いた。
「──え……」
涙でぐしゃぐしゃの顔を上げる。彼女のへたり込んだ向かい側、もう一台のトランポリンの上で、不格好なジャンプを繰り返す、この場ではあまりに場違いな制服姿がそこにいた。
彼のことは知っている。リョウカより後にトランポリンを始めたのに、ジャンプの高さがほとんど自分と変わらなくて、遠目で見る度に、とんでもない子だな、となんとなく思っていた。
『──ああ、公音なー……アイツ辞めよってん』
彼のチームメイトが、西日本で会ったときそう言っていた。その、少年。
一年半、そんなワードがどこからともなく湧いて出てきた。ああ、そっか。彼は一年半も競技から離れていたんだっけ。
「なんで」
涙声が、こぼれる。
少年は力強くベッドを踏み込んで、姿勢を乱して足も少々ばたつかせて、しかし、遥か高くまで跳び上がる。その表情が、とても悔しそうで、なのに、それが少し楽しそうにも見えて。
一年半も跳ばなかった君が、あんなに跳んでいるのに。半年ちょっと跳べなかっただけの私は。
──ガシャン。
スプリングが吠えて、鋭く天空を貫く少年が、体育館のギャラリーの高さに迫る。
……どうして、君は怖くないの。君はそんなに高く、跳べるの。
泣いているはずなのに、何故かはっきりと明瞭な視界の真ん中で、ふと、彼と目が合った。
体育館の照明に照らされて、クルミと同じ色をしている瞳。長い前髪が捲れた一瞬だけ見える、炎のような闘志の輝き。
それが、とっても眩しくて。
「羨ましいよ……っ」
私は、君が。成瀬くんが。
呟いただけの自分の声が、妙に大きく聞こえて、胸中にしこりができた。
あれ、でも成瀬くんは、うちのクラブの子じゃなくて、でもここはクラブじゃなくて体育館で、あれ、あれ、あれ……あれ────?
「──ん、ぅ……?」
ぱち、と目が開いて、リョウカは目の前の景色が急に暗闇に変わったことに、数秒遅れて気付いた。
毎日見慣れた天井、今は消してある丸い蛍光灯がうっすら見えて、自分が寝ていたことを思い出す。
「ゆ、め……?」
跳べなくなってから、時々見せられるようになった夢だ。
目の周りがくすぐったくて、指で触れると濡れている。
そっか、私、夢の中で泣いてたんだ。
ひく、としゃくり上げた。
ふかふかのベッドの上で、被ったタオルケットごと膝を手繰り寄せて、抱え込む。
──私には、できなかった。
──でも君は、そうじゃない。
──跳んでよ、跳べなくなった私の分まで。
今日、あの少年──公音に言ったこと、思ったことがぐるぐると巡る。
あんなことを言って、思って、彼を一方的に空に引き連れておいて、自分は同じ場所に立てないなんて。
「情けない……」
誰にも聞こえない小声でそう言って、膝を抱えたパジャマの袖に顔を押し付けて、じわじわとこみ上げてきた熱い雫の予感を、押し潰す。でも、押さえつけるほど、体育館で跳んでみせた公音の面影が眩しくて、胸が痛くて、嗚咽が堪えられなくなる。
……跳びたいな。跳びたかったな。
そんな諦観が自分の中に芽生えていることが悔しくて。
リョウカはそれからしばらくの間、パジャマの袖がびしょ濡れになるまで、その姿勢から動けなかった。
午前三時のことだった。




