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七話目。「こんなに笑ったのなんて、久しぶりだ。」





「──ンで、どうやってん」


 トランポリン部の説明会、の後。

 ギャラリーで一緒だった上田は先に帰った後で、体育館を出た向かいの壁に一人、もたれていたシュウは、公音にそう尋ねてみた。


「オレ、トランポリン部行こうと思う」

「……そォか」


 答えた彼の顔は、体育館に行く前と随分違って、少しだけ清々しかった。目元は前髪で見えにくいが、結ばれた口に、ネガティブな力はこもっていない。

 良かった、背中の押し加減は悪くなかったらしい。


「おし、帰ろーぜ」

「うん」


 そう言って昇降口へ向かう二人、彼らが通り過ぎた窓からは、五月雨雲の隙を貫いた茜色が差し込んでいる。

 いつもの擦り切れた革靴を履いて、外へ。

 真上の景色が無機質な白い天井から、紫がかった雲の白に変わり、西から差すオレンジが髪をじりじり暖める。

 校舎からすぐのバスロータリーではそれぞれの停留所へ向かう次のバスを待つ生徒たちの列がちらほら、それを横目に、二人はあの、不便極まりない山を降る一本道を歩いた。

 しばらくは、会話がなかった。それは時々起こることだ。曲がりくねったこの山道は、特に急がずに降りると十分はかかる。その間会話を途切れさせないのは、シュウはともかくとして、人の目を窺いがちな公音には少し難しいことだった。

 いつもならシュウが率先してあれやこれやと話しかけてくるのだが、今日の彼女はそうはしてこなかった。

 色々、自分に言いたいことはあるんだろう。

 公音は前を歩く、背の高い後ろ姿にそう思った。

 幼馴染だから、という一言で片づけていいのかは分からないけど、シュウはとにかく自分のことを気に掛けていた。

 家が近所だからと、行きも帰りも隣にいて、学校の昼休み中に、一人でご飯を食べているとどうしてか首を突っ込んでくる。

 ……そこまで僕に気遣うことはないだろうに、と思う一方で、やっぱりありがたくてそれに甘えてしまう。甘えてばかりで幼稚だってことは、自分でも分かっているのだけれど。


「──シュウ、」


 結局公音が彼女を呼んだのは、山道の半ばに来たときだった。


「ん」


 公音より五メートルほど先にいたシュウが振り返った。夕陽に反射して赤にも見える彼女の金髪がパラパラと揺れた。


「その、ありがとう」

「……おう」


 少し、気恥ずかしくてカタコトになってしまった。

 シュウは一瞬、驚いたような顔をして、すぐに少年じみた笑顔を返してきた。

 ビュウ、とそよ風が吹く。

 道の両側の竹藪がざわついて、横から漏れる太陽がチカチカと点滅して、少し網膜が痛くなった。公音は目を逸らして続けた。


「シュウの後押しがなかったら、オレ、入部を決めれなかった」

「ホンマにそれな、あんなに未練たらたらなくせして決めんのがおせェんだよ。腰が重たい通り越して釘でも打たれてンのかって思うわ」

「……それはごめん」

「ま、これでオメーも青春……アオハルコースの入り口やな」

「なんだよそれ、入学説明会では普通科コースと特進コースしか聞いてないよ」


 シュウの隣に追いついて、苦笑まじりにツッコんだ。 アオハルて。いつもノリが男子過ぎて分かりにくいだけで、意外とシュウもそういうの好きなのか。

 ちなみに公音やシュウをはじめとする一年弐組は普通科コースで、隣の壱組は特進コースだ。


「青春に憧れがないって言ったら嘘になるけどさ」


 ボソッとした公音の呟きだが、言葉の端に、微かだが、赤めいた感情が見え隠れしている。

 シュウは鋭いことにそんな、公音の胸中の揺らぎを捉えて、にんまりと口角を押し上げた。せっかくだから揶揄ってみるか、と。


「おうおう、謳歌しろや。出来立ての部活で男女がマンツーマンでスポーツなんざ、青春ラブコメ待ったなしやろ」

「なんだそれ」

「ええなあ、あんな可愛いフカちゃんと二人きりとか、男の夢のそのまた夢やん」

「な──っ」


 ちょうど、リョウカの、あの嬉しそうな顔を思い出していたタイミングだったのがいけなかった。

 あのときは気が張り詰めていて、とても意識する余裕なんてなかったけれど。

 まつげが長くて、丸い目に収まる琥珀色の瞳がきれいで、顔立ちも、絵に描けるぐらい整っていて、それに、自分の手に重ねられた彼女の白い手が、暖かくて────。

 違うよ、オレはそんなんじゃ、第一そんな資格だって。


 目を丸くした。表情の変化はそれだけだったが、ぶわっ、と音がしそうな勢いで両耳に感情が雪崩れ込む。


「そんなんちゃうわ、アホ」

「だッははッ!」


 動揺が丸見えな返しだった。シュウが豪快に笑いながら背中をバシンバシンと引っ叩いてきて、してやられた気分になる。


「なんやなんや、正直になれや少年よ。美人な同級生との甘酸っぱい放課後が約束されとんのや、喜ばしいことやろ」

「ていうか、フカさんのこと知ってるんだ」

「おう、ちょっと話したぐれェやけどな。で、話逸らそうとすな」

「違うよ、本当に、そんな感じじゃないんだ」

「んじゃあ何やっちゅーねん」

「その……あの人は、オレが目標にしてた選手なんだ。全国上位は当たり前ってぐらい強い人だよ」

「ほーん、あの子が……それでそれで?」

「そんな人が、俺を覚えてて、跳ぼうって言ってくれたんだ。……ちょっと、嬉しい、かな」


 ……思ったよりめちゃくちゃアオハルしとるやんけ。


「恋の始まり……」

「ちゃうって。そんな憧れの選手に期待されたんだ。……応えたいよ、オレは」


 べちっ、と両頬を抑えてにやけ顔を作った彼女にそう言って、公音は自分の掌を見下ろした。

 リョウカと変わらない大きさの手。あの頃は滑り止めの炭酸マグネシウムの粉で真っ白で、肌が荒れがちだった。今は、その痕も残っていないけど。

 掌から目を移し、ちらと隣のシュウを見上げた。


「シュウには分からないかもしれないけど、」

「……言うてみ」


 シュウがこちらに流し目を送ってきた。


「オレさ、悔しかったんだ。今日、オレまともに跳べなかった」


 重たく感じたトランポリンのベッドの感触を思い出して、ため息をつく。前は、もっと軽かったはずなのに。

 踏み込んだ分だけ高く、高く上がれたはずなのに。

 結んだ口の中で、歯を食いしばった。


「────」


 ──跳べてンじゃねェか。

 そう、あのときシュウは思ったのだが。どうやら、経験者にしか分からない領域の話のようだった。

 

「フカさんも、高かったって、励ましてくれた。でも、オレ……やっぱり弱くなってて」


 元から強くもなんともなかったけど、それ以上の実力不足を自覚して。

 ──今度こそ、全国で、跳んでみせます。


「──全国で活躍するって、勢いで言っちゃったけど……正直、不安」


 あの人の厚意に、期待に、応えたい。その気持ちに嘘はないと言い切れる。だけど、期待されて、期待して、何も応えられなかった過去が無数に積み重なったのが、今の公音だった。


 ──僕に何ができる?


「オメェさァ」


 シュウがため息をついた。彼女だってアスリートだ。公音が言っていることも、言いたいことも、理解できる。

 一度崩れた自信を取り戻すのは、口でそう言うよりもはるかに難しい。

 挫折から立ち直って、その後で大阪でも全国でも世界でも、まともに活躍できる選手なんて、どのスポーツでもほんの一握りでしかない、というのは当たり前だ。

 でも、そのほんの一握りが自分ではないではないと、なんで思い込むんだ。

 今は自分でないにしても、その一握りになるためにするべきことは、いたってシンプルだろう。

 そんな気分で公音を呼んだのだが、その彼の目はこちらを向いていなかった。

 が、彼は俯いてもいない。

 なんだ、と吊り上げようとした目尻を下げた。


「シュウ、」


 逆に彼女を呼んだ公音は、正面──のたくった下り道を睨んでいる。

 その瞳に滲んでいるのは、火種のような焦燥。

 眉間にしわを刻んで、ウズウズしているような表情だ。


「──ちょっと、走ってもいい?」


 果たして、疑問符の付いたその言葉は問いかけではなかった。


「おう──」


 シュウが答えようとしたそのとき、公音がアスファルトを蹴っ飛ばし、呆ける彼女を追い抜かす。


「おい」


 彼女は彼が通った風にあおられて舞うショートボブの金髪を手で押さえつけ、 呆れた声を上げたが、公音には聞こえていないようだった。

 ただ、彼の小さな背中は突き動かされるように、衝動のままに、遠ざかるばかりで。


「……しょうがねェな」


 苦笑して、追いかける。長い脚で道路を踏み込み、短いスカートが多少乱れるのも構わずに。

 ドタバタと、斜面のきつい山道に、革靴の激しい足音が響き渡る。

 脅かされた猪かだ駝鳥の如く、校舎から校門までの一本道を全速力で駆け降りながら、公音はどうして自分がこんな真似をしているのか分からない。

 振動と温い風に暴れる長い前髪の毛先が、見開いた眼球に何度も触れる。

 激しく揺れては肩に掛けたバンドがずり落ちそうな制カバンを腕で押さえつける。

 走るフォームなんてぐちゃぐちゃで、呼吸が乱れて疲労感が心臓を焼いている。

 はあっ、と疾走の最中に大きく息を吐く。


 一体どこまで走れば、いつまで走れば、ゴールにたどり着くのだろう。ゴールなんて、そんなもの設定していないせいで、止めどきも見つからない。

 ただ、スッキリしたい。

 出所も行き場もない焦燥と、無力感。自分を引き留めようとする後悔と、漠然とした不安感。

 火照る身体、荒れ狂う呼吸、疲労で重たい脚。湧き出る汗、前髪が当たって滲んだ涙も。


 ──うるさい。僕は、応えたいだけなんだ。今は、今だけは。

 

 前から後ろ、アスファルトをガードレールとともに挟んで壁となっている竹林の緑色が、視界に現れては流れ去る。 

 顎を伝って滑り落ちた汗か涙の雫の中で、五月雨雲の空が揺らぐ。

 無数の鎖か腕のように、自分の心にまとわり付こうとするものを振り払うように、置き去りにするように、ひたすら公音は走り続けた。

 走って、駆けて。そうして、何分経っただろうか。


「はあッ、はあッ、はあッ──」


 校門はとっくに過ぎて、とっ散らかった住宅街を越えて、河川敷を横断する朱い橋をほとんど渡り切り、ようやく足を止めた公音は、ほとんど倒れ込むようにして橋の策にしがみつき、乱れた呼吸に全身を揺らしていた。

 そのすぐ背後で、そんな彼を追って山を駆け降りたシュウがたどり着き、同じように柵に手をついた。

 下り坂とはいえ、およそ五百五十メートルを、ペースなんて考えせずに全力疾走したのだ。耳鳴りはひどいし、酸欠で思考が回らないほどに頭が痛い。


「──く、公音オメェ、走り方ッ、ぐれェさァ、もっと考えろよなッ!」

「ごめん、なんかッ、そういう気分だったんだよッ……ああクソ、肺呼吸が下手になってる……!」

「おォ、ウチかてエラ呼吸やわ今ァッ!」

「一旦休憩してッ、あとで何か飲も」

「おうよ……」


 情けない声での提案にそう答えたシュウが、柵から手を放してへたり込み、「うえ……」と、えずき出してギョッとする。さすがに吐かなかった。公音は胸をなでおろす。 と、そのシュウが、第二ボタンまで開けたワイシャツの襟元を掴んでバタバタと仰ぎ出して、慌ててそっぽを向いた。

 ……仮にも男の前でそれやるなバカ。何ならまずボタン閉めろ。

 心の声がやや乱暴な言葉遣いなのは、疲れたからだ。


「おい、公音」

「……なに」


 袖で汗を拭いながら河川敷を見下ろす公音に、シュウが話しかける。


「てか、なんで急に走り出してん、ビックリするやろ」


 公音は汗で湿った後ろ髪を撫でつけるついでに後頭部を掻いた。


「……分かんない、なんか、走りたくなったというか……走らなくちゃって思った」

「ホンマ意味不明過ぎるって……アホすぎるわ」

「うん、ホントに……オレはバカだ」

「くっ……はははっ」


 理由もなく走って、無駄に疲れ切って、そのくせ自分の隣で橋の柵にもたれかかって黄昏る相棒の姿があまりに滑稽で、ツボに入ったシュウが笑い出した。


「な、なんで笑っ……ふふっ」


 ゲラゲラと笑い転げるシュウの姿に耐えきれず、公音もころころ笑い出した。それが皮切りになって、二人は周りに人が居ないのをいいことに、ひたすら己を、互いを笑い合う。

 笑って、むせて、酸欠がなかなか治らなくて。


「──はぁ」


 ようやくいろいろ治まった二人が呼吸一つを吐き出して、立ち上がる。


「あー、なんか、スッキリした」

「そォか」


 こんなに馬鹿笑いしたのなんて、いつぶりだろう? 中学校、いや、小学校以来かもしれない。あの頃も、隣にはシュウがいて、学校帰りに駄弁っていた記憶がある。

 居てくれたおかげだ、なんて照れくさいことは言えないが。


「ありがとう、シュウ」

「なんやねん急に」

「いや、なんか、久しぶりにこんなスッキリ笑えて……」

「そォ、かよ」

「ジュース奢るからさ」

「おう」


 斜め前から照り付ける夕日は、いつの間に住宅街に埋もれかかっていた。

 背後の地面に長い影を落としながら、二人は歩き出す。


 ……ちゃんと、体力を取り戻さないと。明後日のために。

 胸に残っているほのかな温もり。リョウカが灯してくれた些細な輝きを、こぼさないように、失くさないように。

 歩きながら、公音はそっと自分の胸元に、手を当てた。


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