六話目。「独りよがりを拗らせた僕。そんな僕に差し伸べられた手が、暖かくて。」
「──その、大丈夫だった?」
「えっ」
ギャラリーから目を戻した公音に、リョウカが尋ねた。
「踵、あの時ケガしてたでしょ」
「……っ」
覚えている。あの時の、燃え尽きた灰のような脱力感と一緒に、あの痛みも。
あの後病院に連れていかれて、左の踵の骨がズレていると診断された。
きっと後遺症がなかったのか、心配してくれているのだろう。あんな無茶な跳び方をしたから。
「大丈夫ですよ。もう痛くはないんで」
「そう、それなら良かったっ」
痛くは、ない。
公音は、大きく深呼吸して、まだ残っていた疲労感をリセットした。とはいえ、その疲労感も少しの、一時的なものだ。今は速く、激しくなっている鼓動も、少し待てば元に戻っているだろう。
「私も、ちょこっと跳ぼっかな」
リョウカが軽い調子でそう言った。
「久しぶりに誰かが跳んでるの見たからさ、なんかすっごい跳びたくなっちゃった」
触発されたのかな、なんて、彼女は肩まわりをほぐす。
「……俺、マット持ちます」
「え、ホントに? でも、跳ぶったって私もちょっとした遊び技なんだけど……」
「やり方は覚えてます」
「頼もしいねえ、じゃあ、お願い」
公音は台の縁に敷いたままの投げ入れマットを掴み、彼女がトランポリンに上がるのを待った。リョウカはトランポリンに片脚までを掛けて、ふと、こちらへ振り向いた。
「ちゃんと、高かったよ」
「──えっ」
一瞬、フリーズしたが、すぐにどういう意味なのかは分かった。そのままだ。
公音が何かを答えようとしたときには、彼女はすでに台の上にいて、軽く跳び始めていた。
……どうして、そこまで僕に来て欲しいんだ。
もしもに備えて、今は彼女を見ていなくてはいけない。でも、今すぐ目を逸らしたい気分だった。
リョウカは数回だけ高さを上げて、身体を九十度倒して背中で着地する。キャット、という技だ。
そのキャットを数回繰り返し、今度はそこから前へ一回転してキャットで着地するポーパス、二回転して着地するダブルポーパスにつなげる。
「──ぃしょっ」
膝を抱えてのそれと伸膝でのそれを何度か繰り返して、小さく気合を入れて、跳び上がりで一回転捻りを入れてポーパス。フルインポーパス、という技。
「すごいな……」
彼女のやっている技は、どれも遊び技、つまりウォーミングアップだ。それでも、その技一つ一つにブレがなく、洗練されている。素人や、実質的に素人と変わらないだろう自分では実現できない安定性だ。
公音は思わず感嘆をこぼしていた。
……憧れた、あのときのままだ。
「──よしっ、こんなもんかな」
「えっ」
不意にリョウカが着地して、トランポリンを降りた。
「マット、ありがとね」
「え、もう降りるんですか」
「うん、久しぶりに跳んだばっかなのにずっと持ってもらうのも申し訳ないし」
「オレは気にしなくていいですよ、それぐらいしかできることもないですから」
食い気味過ぎたか、と、公音はつい言ってしまってから後悔する。
ただ、トップ選手の技をもっと見たい、という、どこから湧いたかも分からない願望を見透かされないかが少し心配だった。
しかし、彼女はどこか寂しそうに笑った。
「──私も、今はそれぐらいしかできないしさ」
「……そう、ですか」
変な言葉だ。頷きつつも、公音はリョウカの表情に引っ掛かりを覚えた。
その表情と、自分にトランポリン部に来て欲しい、と言っているように思える先の言葉と。
……つながってたり、するのか。
ふー、と隣で背伸びする彼女を横目で見ながら思った。
「あ、そうだ!」
突然隣で大きな声を出したリョウカに、肩がびくついた。
「ごめん、全然名乗ってなかったねっ」
「あ……」
そういえば、お互い何度も大会で見たことがあったせいで、二人して自己紹介をしていなかった。
とはいえ、公音はリョウカの名前はよく知っている。
「すみません、オレ、成瀬公音っていいます」
なんとなく、気恥ずかしくて彼女の方を向けなかった。
「うん、ありがと! じゃあ、私の番だね」
「……大丈夫ですよ。名前は知ってます」
リョウカが返そうとしたが、公音はそう言って切り上げようとした。
まだ、自惚れたくない。また、自惚れたくない。
自分勝手な理由なのは分かっているけれど、自分は誰かに、名乗ってもらえるような人間じゃないから。
「違うよ」
「──っ」
お守りの鈴が少し鳴るような、角のない声で言われて、公音は顔を上げた。
「私が、名乗りたいんだよ」
とても優しい人なんだ。話し始めてまだ数十分ぐらいだけど、それが分かる。
どっちが失礼になるんだろう。気を遣わせるのと、それとも、無理にでも気を遣わせないのと。
「すみません……」
「大丈夫やよ、あと、敬語も」
「えっ」
じろり、とつぶらな瞳に睨まれた気がして、肩をすくめた。
敬語は、良く知らない相手と話すときに出る癖だ。あの日から、直そうと思っても直らない。
「同い年やん」
「……そうでは、あるんです……ある、けど」
とりあえず、言い直してみると、うん、と彼女は満足そうに頷いた。
「私、鱶丸リョウカ。「リョウカ」か、「フカ」って呼んでくれると嬉しい」
「……」
二択ですか。「鱶丸さん」じゃダメなんですか。
「だって、「鱶丸」呼びだったらゲームのモンスターと被っちゃうし」
……ダメですか。
「じゃあ、フカさん、で」
自分が弱腰すぎるだけなのか、それとも彼女が少々ナチュラルに強引なところがあるのか、どっちなのかと公音はため息交じりに言いながら思った。
きっと、前者だ。
「じゃあ、」
リョウカが右手を差し出した。
「よろしくね」
握手。それは分かっている、が、公音はそれにすぐ反応することができなかった。
握手、してもいいのだろうか。自分は、この人と同じ土俵には立てていないのに。
一瞬、躊躇った。
内心で、実は嫌がられてたら。それに、誰かの肌に触れるなんて経験もまともになかったし。そもそも握手って、どうやるんだっけ……。
「よ、よろしく……」
……分かっていることだけど、僕はとんでもなくバカだ。なに握手一つに自己嫌悪に陥っているんだ。
数秒遅れて公音も右手を差し出して、自分とほとんど大きさの変わらない彼女の手を軽く握った。
「ん」
リョウカは満足げに頷いた。自分との握手が不快ではなかったらしい、と公音は胸をなでおろす。
「ところでさ、」
一度、瞬いて首を傾げる。
「君のことはなんて呼べばいいかな?」
「えっと……」
何と呼んでもらうのが良いのか、公音は記憶を遡って、シュウや、他のクラスメイトに何と呼ばれていたかを思い返す。大してバリエーションがなかった。
「……好きに呼んでくれたらいいで──いい、よ。「成瀬」とでも」
「じゃあ、成瀬くん、って呼ぶね」
決定、と手を叩いたリョウカに、公音はやっぱり表情豊かな人だな、という印象を抱いた。
大阪でも全国でも活躍していた選手だ。もっと、刺々しいというか、他を寄せ付けない雰囲気があるのだろうか、などと勝手に思っていたのだが。
「では、成瀬くん」
「はい」
目を見ようとして、やめた。琥珀色の瞳が、自分の心を覗き込んでいるような予感がした。
「どう? 跳んでみて、感じたこととか、ある?」
「感じた、こと……」
つまり、また跳びたいって、思えたか。それが聞きたいんだと、公音はなんとなく悟った。
「分からない……。跳びたくないのかもしれない。まだ、あの日の記憶がこびりついて、それを思い出してしまうのが、怖い」
たぶん、本心だ。跳ぶことで迷いが消える、なんてことはない。むしろ、中途半端な感情が脳内を行ったり来たりと忙しなく動いて、今の公音の心はぐちゃぐちゃだった。
それに、疑問もある。
「フカさん、は、なんでオレに跳んでほしいの……?」
そう問われたリョウカは、刹那、さっきも見せた、寂しいような、悲しいような、そんな笑顔を浮かべた。
「……そっか、成瀬くんは、知らないんだ」
「何を?」
「りっくんとかから何も聞いてない?」
「連絡とってないから……」
りっくん、とはかつて同じクラブに所属していた同年代のリクのことだ。リョウカとも親交があるようで、今もトランポリンを続けているのだろうが、いかんせん競技から離れていた公音には彼が今どうしているかは分からない。
「そう……」
彼女は申し訳なさそうに頬を少し掻いた。
「それは……入部するか迷っている段階の今の君に言っちゃうのは、きっとずるいことだから、さ。まだ言わないでおくよ」
「そう、なんだ……」
ずるいこと、それがどういう意味なのか、公音には読めなかった。
「……訊いてほしくないこと訊いてもいい?」
リョウカがそんな風に問う。
「別に、大丈夫」
「そっか、ごめんね。その、成瀬くんがさっき言ってたあの日って、中二の全日本ジュニアのこと?」
また、心が痛くなった。ほんの少しだけ。寒い日に降った霙が頬に当たったときみたいな。その程度の痛みだ。
「……はい」
なんでそんなことを訊くんだろう。
公音が返して、リョウカは少しの間黙っていた。
「そっか」
ぽつりと、彼女がこぼした。
「辛いよね……挫折は。分かるよ」
天才、と、彼女のことを評している公音にも、彼女が挫折を経験していないわけがない、とは分かっている。むしろ、逆だろう。彼女でも勝てない相手は上にいる。府大会を優勝できなかった選手の下に自分がいたのと同じように。
きっと、彼女は大会に出場する度に、常勝の選手になるまでに、自分とは比べ物にならないほどの壁にぶち当たって、それを乗り越えてきたんだろう。
でも。
「そう、ですか……」
でも、あなたにはきっと分からない。誰かとぶつかり合える才能なんてこれっぽっちもなくて、誰にも期待されなくて、自分も自分に期待できなくなって、誰のことも怖くなって孤独になった、弱い僕の心は。
壁を登れなくて、その悔しさを今更になって思い出している、僕の心は。
そんなことは言えなくて、だから、わざとらしく肯定の言葉を吐いて、ため息をついた。
リョウカはそんな公音の横顔を少し眺めて、ふっ、と吐息をこぼした。
「でもね、言える範囲で言うなら……」
「なんですか」
前髪の隙間から、琥珀色の瞳を見た。
「──成瀬くんには、あれで終わってほしくない、って思ったんだよ」
「……どうして」
尋ねてみた。公音には、自分に期待する理由が見つけられないから。
無意識な、他力本願だった。
あの時の瞳の、真実を知りたかったのかもしれない。
「なんとなくやけど、感じたの。成瀬くん、あんなに高く上がっても怖がってなかったから」
すごいなって感じたんだ、と、リョウカが言った。それが本心なのか社交辞令なのかは分からないけれど。
「そんな大した選手じゃなかったよ」
「……私やったら怖いよ、高さ上げるの」
「────」
「成瀬くんは、自分のこと、才能ないって思ってる……違う、もしかしたらそう思いたがってるんじゃない?」
どきりとした。
「そんなこと……」
「誤魔化さないでよ」
声色は変わらない。しかし、諭すような芯のある言い方で、はっきりと、ぴしゃりと言い切られた。
──見透かされた。
はっ、と吐きかけた息が詰まる。自分の吐息が少し震えた気がして、それを悟られていないか心配になる。
視線が、体育館の床を向く。赤いラインが足元から前へ、前へと伸びている。
少しだけ、目頭がふわりと熱くなったかもしれなかった。
「ごめん」
リョウカはすぐにそう謝って、「でも、」と続けた。
「成瀬くん、ずっと何かを隠してるでしょ」
「……なにを」
「自分の可能性を、見てみぬふりをしようとしてる……違う?」
「……え」
反射的に、彼女の目を見る。
図星だ。でも、こんなこと言いたくないじゃないか。
「弱かった奴」で済ませたいんだよ、この期に及んで。きっと、ほんのわずかしかないだろう、強くなれる可能性のために、今からもう一回、「弱い奴」に戻りたくない。もうたくさんなんだ。失望と、憐みのこもった視線を向けられるのは。
トランポリンのみならず、私生活でもそれが忘れられなくなるのは。
だから、やめてよ。言わないでよ。
「オレ……」
「跳んでるの見てたら分かるよ。成瀬くんが怖がっているのは、跳ぶことじゃないって」
「──う」
目を、逸らしたい。そっぽを向いてしまいたい。なのに、どうしてそれができないんだ。
彼女の瞳に射抜かれて、自分の目が動かない。心臓が早鐘を打っている。
「……なのに、どうして君はそんなに、跳びたくないって顔を作ってるの?」
だって、君は。跳んでいる間の君は、あの日と同じ顔をしていたから。
リョウカは記憶の中にあった、大会での公音の姿を引き出して、今の彼と重ね合わせた。
確かに、「まだ」強い選手ではなかった。
できる技の範囲が狭いわりに、他の同年代に並ぶ高さで、無理やり跳ぶ。冬の大阪、レベル別の大会で、ルール上、ジャンプの高さがスコアにならない大会でも、妥協なんて知らないって顔で、ハチャメチャな高さで跳んでいて。
そのとき彼女が見たのは、悔しさと、プライドと、空を向いている情熱と。それらが混じった表情で。
あのときと、同じ表情をしていたから。まだ、彼の中に選手としての心が生き残っていた気がして、嬉しかったのに。
「──どうして君は、まだ、あの日に囚われているの」
琥珀色の瞳に問われて、公音の目尻が、歪んだ。
あの日。……違うよ。ずっとなんだ。
公音は、自分の記憶の中で翻る、いくつもの失敗と、敗北と、後悔の色が、インクが垂れるみたいに心を汚していくのを感じた。
黒い、暗い、感情。でも、そんな心がほんのりと熱い。
「やめてよ」
「……っ」
震えた声で言った。本当は言葉を選びたかった。こんな言い方はしたくないはずのに、感情ばかりが先行して、そう言ってしまう。
「どうして、今なんだよ……」
「────」
絞り出すような声に、シャツの胸元をギュッと掴む右手に、リョウカが固まった。
「なんで今頃になって、オレに期待するんだよ。見てただろ……あの頃だって全然勝てなくて、成長なんてまるでしてなくて、今日だって、まともに跳べなかった」
言いながら、自己嫌悪が募っていく。
最低だ、僕は。こんなこと、彼女に言って何になる。ただの自分勝手だ。本音を話したくない。本心を晒したくない。だからって、かつて目標にしていた人を、こうして無理やり遠ざけようとしている。
まだ、トランポリンから逃げていたい。
「──まだやってるんだ、って、あのとき言われたんだ。そう思われていたんだ。まだ誰かは期待してくれてるなんて、ただの勘違いだった。なのに、……なんでフカさんは高かった、なんて言うんだよ」
琥珀色の瞳に反射した自分の顔が、くしゃくしゃに歪んでいる。背中に冷や水を流されるような、悲痛な表情。奥に見え隠れする熱いものを堪えるような、悲愴面。
その瞳が、ひとつ、瞬く。
「だって、」
公音の長い前髪にほとんど隠れた、それでも分かりやすい深層の感情を、リョウカは見逃さない。
「成瀬くん、今、とっても悔しいって顔してる。まだ、跳べるはずって顔を、してるよ」
「────え」
リョウカの指摘に、公音が蚊の鳴くような一文字を垂らす。
だって、そうでしょ。まだ、低いなんて、思ったんでしょ。足りないって、もっと、って、思えたんでしょ。じゃあ、
「もう、逃げないでよ。ちゃんと、向き合ってよ、私に、競技に。背中を向けたなんて嘘だ。決別したなんて、言い聞かせてるだけだ。ここに来たのは気まぐれだったのかもしれないけれど、さっき跳んでた君は、間違いなく選手だったよ」
畳みかけるように、言葉を紡いだ。だって、私が許せない。だって、だって……。
「──君が、羨ましかった。一年半の空白をものともしないで、全力を出せた成瀬くんの勇気が」
言ってしまって、はっとした。本当は、まだ言わないつもりだったのに。言うのはズルだと、思っていたのに。
「私には、できなかった……! 君が辞めたすぐ後に、ケガして跳べなくなった私には、できなかった……」
これまでとは非にならないぐらいに目を丸くして、悲しい顔をする彼の前で、堰を切ったように、感情の奔流は止まらなくて、言ってしまった。
──遊び技しかやらないのは、できないのは。
「なんてことない練習で、落っこちて足首の靭帯を切っちゃってっ……私の選手としての生活は、戻らなかった。私は戻せなかった。足は治っても、あの痛みが忘れられなくて、今でも跳ぶのが怖くて、高さなんて上げられんくて。……でも君は、そうじゃない」
君は、不器用も、「できない」も、全部置いてけぼりにして、跳べたじゃないか。その勇気が、向こう見ずこそが、君の才能じゃないか。大会で、何回も落っこちてもめげずに高さを追求するなんて、誰も彼もができることじゃないよ。それに、気付いてよ。
……跳んでよ。跳べなくなった私の分まで。
「成瀬くんが私に憧れてくれているのは、なんとなく、分かるよ」
「えっ……」
「あのときも、そうだった」
あの時の、全日本ジュニア。
「どうして、そんな目で私を見たのって、思ったの。どうしてそんな、届かない夢を見てるみたいなんやろって。自分を「出来ない子」だって決めつけてるんだろうって」
同じ舞台に立った以上、選手として対等だ。男女で土俵が違っていても競い合う敵であり、同じトランポリンを踏む仲間でもある。
全日本ジュニアで何位だったからなんだ、失敗したからなんだ。この舞台に上がるために頑張ったのはみんな同じじゃないか。リョウカはそう思っていたのに、その、同じ舞台にいたはずの公音だけは、涙なんて枯れた、というような表情をしていたから。
高さ一本で、大阪五位に入り込めるぐらいの可能性を秘めているくせに。
高さだけでも追いすがろうとしてたくせに。
来年にはリクとかヨッシーとか、他の強い子たちぐらい上がれてたかもしれないくせに。
しれっと演技力も低くなかったくせに。
あの日の、墜落だって。
君は、落っこちる一つ前の技で、止まれたはず。それでもそのあとの技につなげようとしたのは、途中で演技を辞めてしまうのが嫌だったから、諦めたくなかったからじゃないのか。
ずっと勝てないでいるのは知っていた。
高さがスコアとして計上されない大会でも高さ一本を貫いた選手だ。いつも目立っていて、でも、いつも表彰台にはいなかった。
分かるよ、辛かったよね。私も何度も同じ経験をした。でもさ。
負けて、負けて、負けまくって。それでも諦め切れずに追いすがろうとした君が、どうして私のことを、遠い星みたいに見るの。
君も、いつかは同じ場所に立てるかもしれないのに。
……遠くになんて、居ないよ。
「私は、君の本音が知りたい」
隣り合っていたリョウカが公音の正面にまわって、二人は向かい合う。
胸元を掴む公音の浅黒い手に、リョウカの白い手がそっと重ねられた。その手が、暖かくて。
──どうして、あんなことしたの。
そうじゃなかった。
あのときの彼女の視線の理由が、分かって。
「オレ……僕は……」
本音。本心。隠してきた、胸の内。
少し、俯いた。
──悔しかったよ、跳んでみて。
自分という人間が、いかに「才能」だなんて言葉からかけ離れた凡人だったかを、何度も認識して、目を逸らしてきた事実を、また、自分自身に突きつけられた。
毎日続けてきた柔軟も、筋トレも、役に立たなかった。足りなかった。
でも、同時に、分かった。
役に立たなかった。でも、足りなかっただけかもしれないって。
……足りてさえいれば。
「──僕は……っ」
跳び方を思い出せば。
もっと、柔軟を徹底していたら。
もっと、脚をちゃんと使えていたら。
もっと、体幹を締めれたら。
もっと、もっと、もっと────。
もっと、高いところに。もっと、強い選手に。全国にだって。
あいつらと同じ舞台に。同じレベルに。
……もう一回。
もう、一本。
「まだ、跳んでいたかった……」
「────」
何度も何度も反芻してきた、勝てなかった日々が、また脳裏を埋める。
負ける度、落ちる度、どんどん、感情が削れていった日々。今より背の低い自分の姿。その背中はあまりにも孤独で、空虚だ。
跳べば、跳ぶほどこびりついた「出来ない奴」という評価は、この先剥がれることはあるのだろうか。
『成瀬って子、まだやってたんだ』
──あんなに下手なのに。
あの日聞いた言葉が、またあの頃の公音に突き刺さる。
分かってるよ。そんなこと、分かり切っている。そのあとの言葉を吐いているのが、まぎれもなく僕の声だってことぐらい。
僕が、僕の可能性を閉じた。
僕が、あの日の僕を壊した。
僕が、傷つきたくないから、先に自分で傷をつけた。
もう、充分だろ、現実逃避は、さ。
だって、さ。
「楽しかったんだ……」
体育館の喧騒に紛れそうな声で言って、顔を上げた。視界の真ん中に、琥珀色の瞳がある。
跳んでいるときに、久しぶりに感じられた、爽快感。笑みがこぼれそうになったあの高揚感も。重力にすら縛られない、ほんの刹那な自由。生身ひとつではたどり着けない、あの空間を独り占めする楽しさを、抱きしめて。
声で、言葉にして、ようやく思い出す。
そうか、楽しかったんだ、僕は。
あの時間が、トランポリンという競技が、いまだに。
決心して、息を吸う。枯れたような、喉から絞り出したような声が出た。
「そりゃ、大阪でも、全日本でも、輝ける人になりたかったよ」
きっと、みんな同じ目標を掲げていたのだろう。
でも、公音がやっとスタートを切った頃には、リクも、リョウカも、他のみんなも、とっくに走り去ってしまっていて。
遠くに背中が見えるだけの公音には、彼らの表情が見えていなかった。
自分と同じ、人であることも。
自分が、彼らと同じ、「選手」の一人だったってことも。
「何回も、自分が弱いんだって、突きつけられて……僕は、みんなみたいにはなれないんだって、言い聞かせてた」
もう、選手じゃないだろ。
お前じゃみんなと同じ場所には立てない。
その資格もない。
そんな自分の声が、自分の言葉が、今も、公音を責めたてている。
自分の声、だけ。
思い込みの自分の声が、閉じこもった殻に反響して、他人の声に聞こえていただけだ。その声に、まだ惑わされるのか? またくじけるのか?
自分の本心を自覚したのに。
……跳びたいのに。
──嫌だよ。もう。
「──でも、まだ……僕はまだ、自分に期待できない」
「……うん」
スゥ、と息を吸った。ひとつまみの勇気と一緒に。
枯れた心。潤いを忘れ、渇いた心。それに、再び火をつけるように。
「今更かもしれないけれど、もう届かないのかもしれないけど、それでも、まだ間に合うって言うなら、今度こそ……跳びたい。越えられなかったものを、越えたい」
あの日、眼に焼き付いた白鳥のように。ずっと燻ぶってて、行き場を探していた情熱のままに。
「……僕は、跳べますか? 跳んでも、良いんですか?」
ずっと、隠してきたもの。失くしたふりをしていた本音。
洗いざらい、ぶちまけた。琥珀色の瞳から逃げられなくて。逃げたくなくて。
吐き出して、撒いて散らして、その最後に疑問符をつけるなんて、ナンセンス極まりない。僕は、なんて臆病な奴だろう。
そんな公音を、リョウカはずっと、まっすぐ見ていた。見開かれた琥珀色の瞳に、眉間を、目尻をしわくちゃにして、まっすぐこちらを見ている自分の顔が映っている。
胸の手に添えられたリョウカの手に、力がこもった。
「大丈夫。君が自分に期待できないなら、私が代わりに成瀬くんを応援する」
リョウカがキリッとした笑顔を見せる。
「跳ぼう、もう一回。戦おう、一緒に。私、頑張って君を伸ばしたい。あの時の君なりの努力を、きっと私も知ってるから」
公音の、髪より少し明るい色の瞳が、少し潤む。前髪の隙間を縫って届いた体育館の照明の一滴がその瞳に溶け込んで、炎のように揺らめいた。
体育館の床、公音が踏む赤いラインがまっすぐ伸びた先に、リョウカが居る。
ドーン、と音を響かせて、体育館の中央で床に叩きつけられたバレーボールが天井へ高く跳ね返った。まるで、どん底にぶち当たった闘志が、もう一度空を目指すように。
高かったよ。これから伸びるよ。
色んな人にそう言われてきた。そう言われたくて、そういう跳び方をしたはずなのに、いざ言われてもちっとも響かなかった。社交辞令だって、お世辞でしかないって。
なのに、どうしてかな。今になって彼女に言われると、こんなに胸が熱くなる。
自分を正面から見据える琥珀色の瞳が、嘘じゃないって語っている。
……かけられた期待に、応えたくなる。
あの楽しさを、手放せなくなる。
ずっと、言われたかった。本当は、本心では、期待を受け止められる自分でありたかった。やっと、ちゃんと、目を逸らさずに受け止められる。
前髪に隠れがちな目が緩む。口元が、少しほころんだ。
「今度こそ、全国で、跳んでみせます」
成瀬公音が笑っている。大会で、一度も見たことがない顔だ。リョウカは、自分の胸が熱くなるのを感じて、どうして自分の方が、と少し不思議に思う。
「だから、明後日、またここに来てもいいですか」
そう言った公音の拳は、震えていなかった。もう張り詰めた感情はこもっていなくて、脱力したようにリョウカの手を離れ、ぶら下がる。
ふっと眉を下げて、リョウカは、答えた。
「うん、もちろん。歓迎するで」




