四話目。「どうして、僕を逃がしてくれないんだ。どうして、僕は逃げられないんだ。」
「──なん、で……ッ」
あの琥珀色の瞳が、自分の目の前にある。
なんで。その先の言葉を、公音は繋ぐことができなかった。
色々な「どうして」が頭の中を巡り巡って、何を言えばいいのか、言葉を選べない。
どうしてここに居るのか。
どうして「ここの」トランポリン部に入ったのか。
……どうして、自分を知っているのか。
「……大会でよく会ったよね」
驚いた表情から少し微笑んで、鱶丸リョウカは柔らかい声でそんなことを言った。
やっぱり、覚えている。
その瞳から逃れるように視線が泳いだ。
公音は彼女という人間がますます分からなくなった。元々よく知らなかったが。
「そう、ですね」
つい、敬語をつけ足して答える。大会の度に見かけただけの、赤の他人ではあるからという理由なのだが、それだけではなかった。
同い年。しかし、公音は自分が彼女と同じ場所に立っているだなんて、立てているだなんて、自惚れた考え方をしたくなかった。
「この高校にいるなんて……知らなかったです」
なんだ、賢かったんだ。この人は。
ずるいよ、と公音は思った。あんなに上手く跳べて、この高校に入れるぐらい勉強もできるだなんて、と。
拙い会話を繰り広げる二人に、左近寺が首を傾げた。
「あれ、知り合いだった?」
「……いえ、」
答えようとして、また言葉を迷う。結局自分にとって彼女が何なのか、その逆は。
……関係、と呼ぶにはあまりに淡い、というのは確かだ。
「私たち、同じ大会に出たことがあるんです」
代わりにリョウカが言った。左近寺は「えっ」と目を丸くするのが、見なくても分かる。公音はそんなこと、一言も言わなかったから。
「すみません、……トランポリンはやったことがあって」
今更の告白。言葉の後ろ半分が、尻すぼみに弱くなった。経験者です、とか、選手でした、とかはやっぱり言えなかった。
「あっ、そうなんや! 経験者か!」
「そんなところです」
「じゃああれやね、僕から説明できることはあんまりないな! んじゃあ、あとは鱶丸さんに任せるわ。ああ、あと跳ぶとき呼んでな、マット持つわ」
左近寺はそう言って体育館の中央──バレーボール部がいるスペースへ小走りに去っていった。バレー部の顧問なのか監督なのか、禿げ頭の中年教師と話しているあたり、どうやらそこの顧問か、副顧問も兼任しているようだった。
「ね、」
リョウカに呼ばれて振り返る。
「それじゃ、部活の説明するね。……でも、やることはほぼ知ってるか」
最後に付け加えて笑う彼女が手招きしてきて、公音は彼女を追ってトランポリンが置かれた体育館の隅へ向かう。
彼女は壁際に置かれた二脚のパイプ椅子の前で振り返ってこちらを待っている。
「じゃあ、説明するね」
リョウカに促されるまま公音がパイプ椅子に腰かけると、彼女は隣のもう一脚に座って切り出した。
「トランポリン部の活動日は火、木、土曜日の週三回で、平日は四時から七時まで。土曜日は二時から五時まで練習します。土曜日は体育館が六時まで開いてるから、五時で一旦終わるんだけど、そこから六時までは自主練ができますっ」
概ね、部活動一覧表に書いてあった通りだ。事務的な内容のせいか、彼女は先程までの短い会話とは打って変わって敬語だった。ただ、紡ぐ言葉の節々に喜んでいるような、上ずった感情が漏れ出ている。
「一応、運動部のうちではあるけど、部員は今のところ私だけだから先輩後輩の縛りもありません。のびのび自由に、が、トランポリン部の活動理念になります。ここまでで何か質問はありますか?」
リョウカは身体ごとこちらを向いて問いかけた。温厚な声で、とてもにこやかにしているけど、真摯な人なんだろう、と公音は彼女の人となりをなんとなく感じ取った。
「いえ、特には」
「うん、分かりました。この部活のおおまかな説明は以上です。……作ったのは私なんだけどさ。できたばっかりだから、細かいことはまだ決まってなくて」
えへ、と少しバツの悪そうな顔で笑った。と、リョウカはふと、視線をトランポリンに向けて、公音に言った。
「──君が来てくれて、嬉しいよ」
──本当に、来てくれたんだ。
さっきも聞いた似たような言葉が脳裏に響いた。
公音は尋ねた。
「……オレのこと、知ってたんですね」
うん、と彼女は頷いた。
「そりゃあ知ってるよ、目立ってたし」
ずき、と心が痛んだ。
あの全日本ジュニア選手権のことだ、と反射的に思って目を伏せる。長い前髪の隙間から覗く体育館の床、それが一瞬だけあの広いアリーナの床に見えて、聞こえてきた他の運動部の掛け声で我に返る。
果たして彼女が続けた言葉は、公音の予想とは違っていた。
「前からすごいジャンプが高い子やなーって思ってさ」
「えっ」
虚を突かれて、公音は目をしばたたかせる。
ジャンプの高さ。それは公音がトランポリンを習っていた頃、特にこだわっていた部分だった。
他の同年代の選手と比べて習い始めが遅く、高度な技を使えずにいた彼は、大会に出る度に彼らとの差を思い知った。
二回宙といった、技の習得は一朝一夕でできるものではない。しかし、彼らに並びたい、越えたいという熱意と、彼らに届くことが叶わない劣等感は燻ぶり続けていて、だから跳躍の高さをひたすらに上げた。あの時も、そうだった。
それだけは譲らない、と思っていたことは覚えている。結局その高さも、「技の程度の割には高い」というぐらいでしかなかったけど。
今ではもう辞めた後だけれど、かつての自分の努力が、多少でも誰かに伝わっていたことを知って、憧れていた選手ににそう言われて、少し嬉しかった。同時に悲しくもなった。
「たしか、小学生のときから大阪の大会に出てるのを見たと思うんやけど、見る度見る度どんどんジャンプが高くなってて、このまま行けば、いつかヨッシーも越しちゃうんじゃないか、って思ってたよ」
「そんなこと……」
知っている名前が出てきて、それにもまた驚いた。彼女の言うヨッシー、とは同い年の選手だ。全日本ジュニアでの入賞経験もある人で、他の同年代と比べてもやたらとジャンプが高かったのを覚えている。
まさか、あの人を超すなんて、ね。
大げさなことを言う。自分を気遣う必要なんかどこにもないのに、なんて公音は思った。
「中二のジュニアの後の大会では見なくなって、辞めちゃったんだー、なんて思ったんやけど……」
彼女は公音の方を見た。
「また、跳んでくれるの?」
ほんの少し、期待と、どうしてか不安が混じったような表情をしている気がする、と公音は俯いたまま横目で彼女の顔を見て感じた。
なんで、この人は自分に跳んでほしいなんて思うんだ。僕なんて、あなたに届かないまま逃げ出した奴でしかないのに。
「……分からないです」
弱々しくかぶりを振った。
そこの、一番大切なのだろう決断は、まだできていない。
跳ぶのが怖いのか。跳べるのか。自分の意思にモヤがかかって、公音は自分の感情を見失ったままだ。
チカチカと、点滅するように脳を刺す中二の夏の記憶は、その程度では到底振り払えない。
リョウカはそんな公音の態度に小首を傾げた。
少しだけ身体を傾けて彼の表情を見ようとしたのだが、俯いているのと、男子にしては少し長い髪が彼の目元をほとんど完全に覆い隠していて、声色から想像するしかなかった。
数秒、なんと声を掛けようか考える。短いため息をついた彼に、リョウカは「ねえ、」と切り出した。
顔を起こした公音は、疑問符の付いた表情で彼女の方へ振り向いた。リョウカはトランポリンへ、白い人差し指を向けていた。
「跳んでみない?」
「────えっ」
聞き返すまでに、少し時間がかかった。
やめてよ。嫌だよ。
心の表層を回遊していた言葉が喉から出かかって、しかし公音は無意識のうちにそれを呑み込んだ。
言ってしまったら、彼女はものすごく残念な顔をするだろうから。
「せっかく来てくれたんやし、一回跳んでみようよ」
リョウカはそう続けて、パイプ椅子から立ち上がる。行こう、と手招きされるがまま、公音も遅れて立ち上がる。ギシ、とパイプ椅子が呻いた。
「でも、制服で、シューズも持ってきてないですよ」
トランポリンの外周を囲うように敷かれたマットに立って、公音が言う。シューズとはトランポリン専用の柔らかい靴のようなもので、眼前のリョウカもそれを履いている。
「大丈夫だよ。跳ぶって言ったって軽くやし、ブランクもあるやろし」
「本当に、跳ぶんですか……?」
「その方が色々、決めやすいと思う。先にちょっと柔軟しましょっか」
リョウカに促されて、公音はマットに座り込む。リョウカはポケットからストップウォッチを取り出した。
「まず、爪先からいこっか」
爪先を立てずに正座して、膝を地面から浮かす。足の指、足首の筋が突っ張り、伸びるような感覚。それを、三十秒。
ピピピ、ストップウォッチが鳴った。
「うん、じゃあ次、前屈ね」
見本として膝を伸ばして座るリョウカに続いて、公音も同じことをした。やることは、体力・身体能力測定、いわゆるスポーツテストの長座体前屈と同じだ。
「よーい、スタート」
これも三十秒。公音は足を掴んだ手で上体を無理やり引き寄せてなんとか太ももを腹に付けるが、一方のリョウカは両手を背中に回した状態で、難なく身体を折り畳んでいる。
「よしっ、次は左右開脚やね」
三十秒経って、今度はそう言って、リョウカが流れるように百八十度開脚の姿勢を作った。公音もぎこちなくそれを真似ようとしたが、どうあがいても百六十度、多く見積もっても百七十度までしか脚が開かず、諦めて、上半身を前に倒した。
「……身体、柔らかいね」
「え」
三十秒のタイマーをスタートさせた直後、彼女は突然そんなことを言った。
どこが、と思う。どう見ても彼女の方がよっぽど柔軟性がある。
「柔軟、ずっと頑張ってたんだ」
身体を伸ばしながら、リョウカが微笑んだ。
「……まあ、習慣になってましたから」
嘘が混じっていた。習慣付いているわけではなかったのだが、トランポリンを辞めてから少しして、体が硬くなっていることに気付いたとき、どうしてか寂しくなったのだ。
結局自分は強い選手になれない、それを完全に思い知る前の自分が、同い年の選手やオリンピアンに純粋に憧れて、柔軟にも、筋トレにも打ち込んでいた記憶がちらついた。
結局そんなくだらない、傲慢な夢は叶わなかったけど。
辞めた後になって、鏡で引き締まった自分の身体を見て、身体はそのための努力に報いようとしていたのだと気が付いた。
それを、それさえも失くしたら、自分の過去という過去が全部、いや、成瀬公音という人間が、「無駄」の一言で片づけられるようになってしまう。それは、恐ろしかった。
強迫観念、に近いんだと思う。
ストップウォッチが鳴った。
「よし、じゃあ、跳んでみよっか」
二人が立ち上がる。公音は真隣のトランポリンへ目を向けて、吐息の端を震わせた。
「少し、でいいんですよね」
ほとんど自分に言い聞かせて、公音はトランポリンの、胸元の高さにある鈍い銀色のフレームを少し撫でて、その上の、ずらりと並んだスプリングを保護する群青のカバーに手を置いた。
「ふゥ────っ」
深呼吸を一つして、地面を蹴って飛び乗った。足をつけた白い布地のベッドが沈み込んで、少しよろめく。
よろけた。その一瞬が、一年半という時間の流れを公音に感じさせた。
「じゃあ、まずは軽く、ベッドの周り歩いてみよっか」
初心者や、長期間のブランクのある人向けの動きだ。地面とは違い、踏めば沈むトランポリンの上で足を動かして、「足場が動く」ということを身体に教えるための。
公音はリョウカの言うとおりにベッドの周囲をゆっくり歩いた。
シューズを履いていない、靴下の足が一歩を踏むたびに滑る。制服のズボンの裾が長くて時々踵に引っ掛かるのも多少、気になる。
「うん、いい感じ」
四、五周したあたりで、台の傍でリョウカが頷いた。
公音は一年半前にいつも味わっていた感覚が、今ではほんの少しだけ、もはやロクに残っていなかったことに驚いた。
────あれ……?
「全然ブレてないよ、さすが経験者だね」
励ましの言葉を飛ばして、ニッと笑う。さすが、という言い方に歯がゆさを覚えて公音は目を逸らす。
「そこまでできるなら、次は、低くでいいからちょっとジャンプしてみよ?」
「え……」
もっと、段階を踏むものだと思っていた。全然跳べそうにないのに、彼女には自分の有様がどう映ったのだろう。
台の中央に移動して、少しベッドを揺らしてみた。
キシ、とスプリングが甲高い鳴き声を上げて、全身がゆったり上下する。癖のない柔い髪がその度に浮き上がる。
いつ、腰に、膝に、足首に力を込めよう。
そう考えた時、ふと、不安と、冷や汗がこみあげてきた。
自分でも何故か分からないが、ふと、リョウカの方を見た。
「──大丈夫。私が持つから」
跳ぶことに対して怖がっている。彼女はそう察したのだろう。リョウカが緊急時に投げ入れられるよう、取っ手の付いた投げ入れ用マットを構える。
……違うんだ、僕は……そういうのじゃないんだ。
足元に目を戻した。
「跳ぶのが怖い」、公音の感情はたしかにそう表現できるのだが、その一言だけでは意味が足りなかった。
もし、跳べなかったら。
もし、跳べてしまったら。
結果がどちらにしろ、ここで跳んでしまったら僕は、もう後戻りできなくなるんじゃないか。
揺れるベッド、それに乗った自分の足が、やたらと小さく──遠く見える。そんな錯覚に襲われて、しかし、ふと我に返った。
……ああ、そうか。これが、僕の本音なんだ。
ようやく、気付いた。そう思ってしまったから、彼女の瞳に決断を委ねようとした。もしも、彼女の目に失望が宿っていたらそれで降りてしまおうって。そうやって、あの日憧れた対象にこのドス黒い感情を全部なすりつけて、完全に決別してしまおう。そう考えていたのか。
自分がいっそう憎くなった。
結局僕は、何一つとして自分で決められてないじゃないか。どちらに転ぼうと、せめて、区切りは自分で付けるべきなんじゃないか。
「がんばっ」
憧れた選手の声を、一年半ぶりに大会で何度も聞いた短い激励を、聞いた。
──はっとした。
『……やりてーことやりゃええやろ──』
──シュウが、そんなことを言っていたな。
やりたいことは、決まらないけど。どうするべきかも、分からないけど。今は一歩、進まなきゃ。
「──っ」
胴体の筋肉すべてに力がこもる。揺れに合わせて下半身で地面を押し、公音の足が宙に浮いた。
たった数十センチの跳躍、しかし、踏み込むタイミングが少しズレて、上半身が後ろに倒れそうになるのをなんとか堪えて着地。
後ろ──。あの日のことがまた、フラッシュバックする。
二度目、公音は記憶を振りほどくように跳び上がった。
先ほどより、少し高い。軌道もまっすぐだ。高さをキープして、何度か同じジャンプを繰り返す。だが。
……感覚が戻らない。
まだ一メートルも跳んでいないのに、着地のタイミングが読めなくなっている。まるで、水中にでもいるかのような不明瞭さだ。
ブランクって、こんなに重いんだ。
そう知った公音の脳裏には、引退したある先輩の選手の言葉が蘇る。
『三年ぶりに跳んだらフルツイストまでしかできんわ────』
そう言って、その人は五メートル上空でフルツイスト、後方宙返りの一回ひねりをやってみせていた。
そりゃあ、最盛期には十の種目の中に二回転技を何個も入れていたあの選手と、自分が同じだなんて思わないけど。
でも、それでも、せめて、まともにジャンプぐらいはできないと、本当に自分が「元選手」だなんて思えなくなってしまうじゃないか。
思いたくはないけど、思いたかったんだ。
「くっ……!」
さらに強く、踏み込んだ。加わった力の分だけ上へ浮き上がる。が、微々たる上昇だ。
こんな高さじゃ、跳んでいないのと何が違う。
着地、同時にもう一度跳び上がる。今度はもっと、強い力で。
「はあッ……」
跳び上がる。同時に腕を振り上げて、天井を指す。
上昇が終わり、一瞬、空中で制止する。短い息を吐いた。
前を見る。まばらに席を埋めて観戦する観客の姿がそこにある。
……違う。これは記憶だ。でも、あの日じゃない。もっと前、小学四年の頃、初めて出場した市長杯の景色だ。
同年代の八人と競って、最下位だった。トランポリンで味わった、最初の苦い記憶だ。
海原を飛ぶ鳥のように、ゆっくりと、羽ばたくように手を降ろしながら着地。さらに跳躍。
繰り返し、繰り返し、ただのジャンプを繰り返す公音の頭の中に、次々と、苦い記憶が蘇る。
最初の大会と同じ年。夏の大阪大会で、安定しないジャンプから技を仕掛けてエバーマットに落ちた。順位は最後から二番目。唇を噛んで台を下りたことを、覚えている。
次の年の市長杯、同じ八人で争って、自己ベストを更新した。それでも最下位は変わらなかった。
夏の全日本ジュニアの予選、同じ技、同じ内容の構成の十種目で、高さが足りずに年下の選手に勝てなかった。
冬の大阪大会。制御できない高さで技に入って見事に落ちた。他に三人が失敗して、最後から四番目だった。北条コーチは、攻めるのはいいが無茶はするなと言った。
夏の大阪大会、予選で十二人中六人が失敗して、決勝でもさらに一人が中断し、初めて五位で表彰台に立った。それが最初で最後の入賞だった。よくやったと北条コーチは言ってくれたし、同年代のチームメイトのリクは目を丸くして驚いていたが、幸運に恵まれただけの入賞を素直に喜びきれなかった。
西日本、好調の中で十種目を通しきったが、それでもスコアが足りず決勝には進出できなかった。調子こそ良かったが、最初から結果だけは分かり切っていた。北条コーチは自分よりも悔しそうな顔をしていた。
冬の大阪。予選で出場していた選手の半分が中断になり、決勝に進めたが、そこまでだった。決勝で上位の選手との差を覆せずに十位で小学校最後の大会を終えた。優勝したのはチームメイトのリクだった。
中一、夏の大阪、予選を八位で通過したものの、決勝で中断して十位。
全日本ジュニア予選敗退。本選には相変わらず進めなかった。リクがお前の遺志を継いで行くからな、なんて冗談めかして言っていたのは覚えている。
西日本、演技中断。予選止まりだった。来年こそは、とため息をついた。来年はなかった。
冬の大阪、少し体調がすぐれない中で出場し、何故か予選を突破した。決勝は七位で入賞を逃した。惜しいじゃねえかと肩を叩いてきたリクには、結局入賞しても表彰式に出る元気がない、と言い訳をした。
中二。夏の大阪。決勝で渾身の演技が出たが、他の選手との差は自分の渾身程度じゃ欠片も埋まらなかった。結果は七位。それでも優勝した選手よりも高く跳べたから、手ごたえを勝手に感じていた。これなら全日本ジュニア予選も通れる、と北条コーチが期待の眼差しを向けてきた。
そして、ようやく予選を通過して、本選にたどり着いた全日本ジュニア。
……それ以上は、いちいち反芻したくない。
いつになったら、僕に向けられたあの視線を、忘れられるんだ。
一から振り返ってみて、本当に反吐が出るような大会成績だな、と思う。
負けてばかりだ。最初から、最後まで。いいスタートも切れていなければ結果も何一つ褒められたものじゃない。
失敗が、敗退が、敗北が、それだけが公音に貼り付いた、選手としての箔だった。
跳べば跳ぶほど堕ちていく。選手を続けることは、弱いという評価を受け続けることと、イコールでつながっている。そんなことは、きっとあの、全日本ジュニアで砕けた心が戻らなくなる前から、とっくに分かっていた。
誰も期待してくれない。それを知って、ひび割れて、ギリギリで何とか形を保っていただけのプライドが崩れ去ったのは全日本ジュニアだったけど、自分に期待したくなくなったのは、もっとずっと、前のことだった。
挫折? そんなの、最初からだろ。
『──まだやってたんだ』
ああ、バカだよな。続けても続けても開花しない才能に、まやかしの可能性に、すがりついていた。
公音は、着地と同時に沈み込んだトランポリンの、収縮の予感を感じて、足で地面を押し込んだ。より高く、跳ぶために。
ビリ、と足首と、踵に電気の伝うような、火花が散るような感覚。
今にも自分を場外に弾き飛ばそうとしてくる反発力を、脚力と体幹で強引に押さえつけ、数百キロの衝撃のベクトルを、真上の一本に絞り込む。
跳ね上がる身体、空間を垂直に切り裂いて、公音だけが、上から下に吹き付ける風を感じている。
「──でも」
体育館の外周を走るギャラリーと同じ高さの空中で、そのたった一言が、黒く沈んだ自分の心を貫通して、外に飛び出した。
見下ろした体育館、バレー部員の何人かがこちらを見ている。その中にはクラスメイトの顔もあって、あいつはバレー部に入るんだ、と知る。
どうして僕のことを見るんだ。まだ何もしていない。不格好に、劣りに劣った下手くそなジャンプを跳んでいるだけじゃないか。結局僕は、自分のブランクと迷いに苦しめられているだけだ。
あの時と同じ、不格好な僕だ。
でも。
あれだけ負けまくって、ボロボロの心で、憧れを捨てられずに跳んでいたあの頃の自分は、それでも今よりは高かったはずだ。
……一年半。たかが、一年半だろうが。
リハビリも何もしていないのに、自分の心だけで自分を鼓舞して高さを上げる。目を背けたあの頃よりも、今が劣っているなんて許せなかった。
「────あれ……?」
どうして、そんなことを思うんだ。
どうして、あの頃の僕に悔しさを感じているんだ。
実力を伸ばせなかった。才能がなかった。誰にも勝てなかった。勝てないのに続けた。
トランポリンという競技に足を踏み入れたのが間違いだったんだ。
そう、思っていた。思いたかった。だったらどうして、一年半経った今になって、今更になって。こんなに悔しがっているんだ。
まだ、跳びたがっているんだ。
「……ンだよ」
剛健化した全身でトランポリンを押し込んで、スプリングが破裂音に似た唸りを掻き鳴らす。
シュウみたいに、がさついた自分の声。
無意識に、歯を食いしばった。
未練だらけじゃないか。
跳ばない、跳べない。何度もそう言っておきながら。
接地。足の踏み方の大きく変えて、再び自分を打ち上げようとするトランポリンの力を足から空中へ逃がし、着陸した。
ぎし、ぎし、と余韻のように揺れるトランポリンの上で、公音が嗚咽に似た息を吐いて、リョウカは、彼が涙を流しているのかと、少し身構えた。だが、相変わらず猫背のままの彼の横顔が、とても悲しそうに見えて、でも同時に、少しすっきりしたようにも見えて、安堵した。
「────」
トランポリンを降りた公音と、隣り合ったリョウカの目が合う。
琥珀色の瞳。彼女はその目を見開いて、半開きの口が何かを言おうとしていた。
どうして驚くんだろう。どうしてさっきのバレー部の人達に似た目を向けるんだろう。公音には、彼女の表情がどうにも不思議だった。
ただ、跳んだだけだ。技なんて何一つ出来やしなかった。そんな余裕もなかった。高さだって、あれだけこだわったそれですら、過去の自分に突き放されていた。
いっそ、少しも跳べない方が良かったのか。そうなっていれば、躊躇わず、何の罪悪感も抱かずに、「弱かった奴」で居られたのに。
「悔しい、なんて……」
思わない。思いたく、ない。だって、思ってしまったら跳ばなくちゃいけなくなるじゃないか。
過去の悔しさも、恥も、まだぬぐえていないのに、新しくそれを塗り重ねる羽目になる。だって、僕は一度辞めたのだから。周りの選手が次の大会で相手に勝つために、必死こいて練習している中で、僕は取り残されているんだから。
「はあ……」
彼女から目を離して、ふと、跳んでいたときに見下ろしたギャラリーを、今度は地上から見上げた。
せいぜい、五メートル。トランポリンの上からならおよそ四メートル弱。やっぱり、あの頃の自分にすら、結局届きもしなかった。
なのに、あの頃は得られなかった爽快感が心の隅に居座って、そんな自己矛盾が、とても、気持ち悪い。
と、別の方向から視線を感じた。
跳んでいる間はずっと背を向けていた側だ。二人が並んでこちらを見ている。一人は黒髪で爽やかそうな顔をした少年で、もう一人は、その彼よりも背の高い、よくよく見慣れた金髪のショートボブ。
「来てたのか……」
シュウもこちらに気付いたようで、よっ、と片手を振り上げた。その隣には、何故かクラスメイトの上田。いつの間にか見に来ていたらしかった。
……見られたくはなかった。こんな、カッコ悪い自分の姿は。
目を逸らして、公音のの脳裏に疑問符が浮かぶ。
でも、どうして二人が?




