三話目。「どうして、よりによって、彼女なんだ。」
夜が一つ過ぎて、火曜日の朝日が昇る。
午前八時を回ったばかりの少し早めの時刻に登校した公音は、一年弐組の教室の外、花粉の舞うこの季節にもかかわらず開け放された窓の隣に背中をもたれさせて、手元の紙に目を落とした。
入部願だ。名前すら空白の白紙だった。
「結局決まってないんかい!」
「うん……」
いつの間にか隣に来ていたシュウに思いっきりツッコまれた。
「シュウはもう入部願出した?」
「ッたりめェよ、空手部一択やで」
「そっか」
そういえば今更ながら、どうしてシュウはこの高校に来たんだろう、と気になった。
強豪校からの推薦もあっただろうに。
ふと、シュウの方を見上げた。窓の向こうから照り付ける朝日が安っぽい金髪に反射して眩しい。
「てか、」
と、公音が眩しくて目を逸らしたタイミングでシュウが振り向いた。
「自分で決心がつかねェならさ、いっぺん行ってみて説明でも聞いたらええんとちゃう?」
「どこに」
公音はわざとらしく問いかけた。
「トランポリン部。今日活動日やろ、確か」
シュウはそう言って、公音の肩を拳で小突く。
「ついでに誰が復活させたのかも分かるやろ」
「確かに……」
そう呟いたが、結局公音は説明を聞きに行くという選択をするのに躊躇っていた。
トランポリン部の創設者は気になるのだが、もしかすると知り合いかもしれない。かつて同じクラブに所属していた人だったりしたら、どんな顔をすればいいのか分からない。もしそうなら、自分のことを覚えていたら、何を思われるのだろう。
「はあ……」
考えても仕方ないな、とため息をついた。
そのとき、二人の前を大きな人影が横切ろうとした。
「君ら早ない? っていうか廊下花粉飛んでるやろ、教室入りや」
体育担当であり、一年壱組の担任でもある左近寺だった。若い男なのだが、体育教師らしく筋骨隆々で、背丈はシュウより少し低いのに見た目の威圧感がどことなく熊を思わせた。
「誠やん」
「せめて「誠先生」やな。君らこんなとこでどないしたんや」
呼び捨てしたシュウの頭を手に持っていたバインダーでポンと叩いて左近寺が問う。
「いや、別にしゃべっとっただけやったんやけど──あ、せや」
と、シュウが何か思いついて、何故かこちらを見た。
「部活の体験入部のアポってどうやって取ったらいいんスか?」
自分の逃げ道が塞がったのが分かった。
助かるんだけど、ありがたくはあるんだけど、自分じゃ決心がつかないとは言ったけれど。
「あれ、でも諏訪山は入部願さっき出しとったやろ」
「いや、ウチやなくて、コイツ」
そう言ってシュウは公音を親指で指した。
「トランポリン部、気にしとるみたいで」
「おお」
確認しようか考えていたことを概ね全部先に言われた。左近寺はどこか嬉しそうな表情を浮かべた。
「そっかそっか、成瀬は昨日の授業でえらい頑張っとったしなあ。きっと向いてるで、トランポリン」
昨日の体育で完全に覚えられていた。
公音は頬を掻きながら「あの、」と切り出した。
「入部するかは分からないんですけど、とりあえず説明だけ聞いてみたいんです」
「そうか、アポはもう別にええよ。トランポリン部は僕が顧問やってるから、部員やってくれてる子にもあとで僕から伝えとくわ」
そう言って左近寺は通り過ぎて行った。去り際にシュウが大声で言う。
「じゃあ「マコセン」でいいッスかァー!?」
「……ギリ許す」
そう返した左近寺は、隣の一年壱組の教室に入った。見届けて、シュウが公音の方へ振り返った。
「解決やろ」
「マコセンって言った?」
あだ名のセンスが教科書通りのギャルのそれで、ものすごく意外に思った。
半日が過ぎて、ホームルームを終えた数十分後。
「別にウチはヒマやし、オメーが終わるまで待つわ」
シュウはそんなことを言って早々に売店に向かってしまった。
いちいちビビんな、なんて付け加えていたけれど、公音はやっぱりため息を堪えられなかった。
活動場所は体育館。
トランポリン部の説明欄にそう書いているのでそちらに向かうのだが、足取りは重い。
あれだけシュウにも、左近寺先生にもお膳立てされて、まだ迷っているのか。
公音は自分の優柔不断ぶりが情けなかった。
普通に歩けば一分二分の道のりを、倍ほどの時間をかけて通り、入り口で靴を履き替えた。
「……っ」
扉の前で深呼吸する。向こうには、自分が捨てて、逃げたものが待ち構えている。それに向き合うのがやっぱり怖かった。
「……躊躇うことない、説明聞くだけだ」
震える手で扉の取っ手を掴み、そっと押し開ける。重い扉がゆっくり動いて、隙間から体育館の明るい床の色合いが覗いた。
バレーボール部やバスケ部の掛け声が聞こえる。剣道部が、竹刀で打ち合う硬い音が響く。バネが収縮する破裂音に似たあの音は……聞こえない。
恐る恐る入ってみて、正面にトランポリンの台が見当たらないことに気付いた。左右を見渡して、足を止めた。
「────っ」
体育館の端。頭上の照明に照らされて、それは静かに佇んでいた。
スチール製の鈍い銀色のフレーム。前後に張り出した青いエバーマット。硬い生地を縦横に組み合わせた白いベッド。
一年ぶりに目の前に現れた競技用トランポリンの姿に、息を呑む。歓迎されている、とは思いたくない。
懐かしさは感じなかった。その姿も、あの上で味わった敗北も、忘れたことがないから。
「お、来てくれたんか」
と、入り口のある壁際にいたらしい左近寺が近づいてきた。そのときになって、公音は台の周辺に誰もいないことが気になった。
「ああ、今ちょうど休憩してて、跳んでるとこ見たいやろうとこでごめんやで」
「いえ……」
公音の視線をそう解釈したらしい。トランポリンを見つめて固まっている彼をよそに、左近寺は「おーい来たでー!」後ろに振り返って部員を呼んでいた。
ああ、そうだ。部員が誰なのか気になっていたんだ。
公音は近づく足音の方へ首を傾けた。
「この子、説明聞きたいってことで来てもらってん」
その部員とは、女子生徒が一人、だけだ。
同学年のジャージを見て、同い年なんだ、と思った。
スラッとしているらしい身体を足元から見上げて行って、
「隣の弐組の成瀬君。体操が得意みたいでな、まあ色々教えてやって」
左近寺の言葉を聞いているのかいないのか、黙ったままの少女の、見開かれた目を見て、公音は自分も何も言えなくなってしまった。
こちらを見つめるつぶらな瞳は、鮮やかな琥珀色。
その顔立ちも、明るい茶色の髪も全部、覚えている。
上着を脱いだ体操着の袖から伸びる、細くしなやかな腕の先の、細い指をした手には、あの頃はいつもメダルが握られていて。
トランポリンという競技を始めてから、背を向けるまで、大会で何度も見たはずの彼女の姿が次々に蘇り、翻り。
記憶が、憧れが、劣等感が、集まり寄り合って、出来損ないのパズルのようにぱちりぱちりと合わさった。
あのとき、憧れた少女がそこに居た。
「──本当に、来てくれたんだ」
シュウとはまるで正反対に澄んだ声に、思わず一歩、後ずさった。
彼女、鱶丸リョウカはそう言って、瞳を輝かせた。
……震えた吐息が、公音の口をついてあふれ出た。
神様、どうして今頃、僕をここに導いたんだ。




