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十話目。「そして、僕たちは部活で汗を流す。」





 風を切って放たれた低めの足刀を、バックステップで空振りさせる。続いて相手の少年が一気に距離を詰め、ジャブでも放とうとしたのだろう。踏み出された一歩、それを叩き潰すように、右の長い脚で顔面狙いのハイキックを繰り出す。

 が、相手は自分よりも低い身長を活かして低く屈み、横に跳んで距離を離した。

 蹴りを放った自分の背中に素早く回り込む動き。自分が眼前の彼がこのとき可能だった反応の、最適解。


 ──へえ、オメェはこれ初見のはずなんやけどな。


 ニィ、と猛虎の笑みが出る。相手の持ち味はどうやらすばしっこさらしい、至近距離まで近づかれると恐らく厄介極まりないのだろうが、ならば。


「近づけンのかよォ……ッ!」


 蹴り終わった右脚をそのまま軸に、そのまま全身をぐるんと捻り込み、振り回すような、豪快な左の後ろ回し蹴り。道着に巻いた黒色の帯の端がパチ、と拍子を打って、脚の先が斧のごとくぶん、と唸る。


「ひぇっ、怖っ」


 ──左足は勢いのまま後ろを向き、右足は軸足だからすぐには動かせまい。


 情けない声で、しかし迫る踵に撫でられた短い前髪が揺れる程度、上体を反らすだけの最低限の動きで躱して、相手は今度こそ、蹴撃の来ないがら空きの自分の正面に潜り込む。


「マジかよ」

「──しッ」


 もう蹴りの間合いではない。

 ここぞとばかりに少年が脇腹、みぞおち目掛けて左右のパンチのコンビネーション。ただでさえ自分より低い身長、さらに前かがみで放つものだから、見下ろす格好になって非常に防ぎづらい。

 まあそれも、防ぎづらい、それだけだ。


 ……自分の間合いで暴れられる、って思ったろ?


 バシン、と武道場の畳を踏み付けて、眼前の長身が残像を残して視界から消え去った。

 呆気に取られる少年、刹那に側面に回り込まれたと気付いて対応する。が、その刹那が、少年と相対する彼女にとって、十分すぎる時間となる。

 中段の構えを瞬時に取り、一歩を踏み出すと同時に右の拳で突きを打つ。相手より多少重いだろう体重が乗った一撃、咄嗟に合わせた腕の防御をそのまま上から貫いて、相手はその威力に吹っ飛ばされ──はさすがにしないが、姿勢が大きく崩れてしまう。


「──っべ!」


 少年が小さく呻いた。彼にとって、彼女のやり方は完全にイレギュラーだった。彼らが取り組む競技──フルコンタクト空手の組手となれば、普通はゼロ距離で拳を打ち合い、間合いを離すとしても、互いの足が相手の顔に届くかどうか、その程度の距離感。

 そんな常識が今は、尽く崩れ去っていた。

 ──近づけない。

 あの蹴りが一発でも当たれば、試合が終わるも同然だ。

 十センチ近い身長差、長身の彼女が自分よりも速い蹴りを放てるのは想定外だった。

 噂じゃ体格の変わらない上級生を蹴り一発で浮かせたぐらいだ。

 蹴りが放てる姿勢にあるこの相手に正面から接近を試みるのは困難で、自分の前に彼女と組手をやった女子二人は無理にでもそれをしようとしてコテンパンにねじ伏せられた。結局性差があれば或いは、と挑んだ自分も、経験したことのない間合いで戦わざるを得なくなり、積極的な攻めができない。


 体勢が崩れたコンマ一秒、額から跳んだ汗の飛沫に映り込む彼女が左脚を振り上げる。


 ……くそ、これが、大阪一の強さかよ。


 古野富田林高校空手部、そこに新たに加わった一年生のうち、唯一空手の経験を有していた男子である少年が、歯を食いしばる。

 その正面で、本当に楽しそうに、獰猛な笑みを浮かべる彼女──諏訪山シュウが振り上げた脚で足刀を放つ。

 苦し紛れの防御姿勢、左から迫る足の甲に、右ひじと右ひざを合わせて受ける構えを取った。

 そんなもので彼女の蹴りが防げる、はずもなく。

 ハンマーで殴られたかのような衝撃。

 肩の下あたりに炸裂した足刀の、あまりの重みに全身がそのまま九十度に傾くのが分かった。

 一寸遅れてジワリと脳に染み込む鈍い痛みに顔を歪めながら、少年はシュウの鋭く、美しい蹴りに吹っ飛ばされ────。





 ──ドパァン!


 同刻。


 体育館の片隅に置かれたトランポリン、その前後の補助台の群青色のエバーマットに公音が墜落して尻もちをつき、破裂音が体育館中に響き渡った。


「ちょ、大丈夫!?」


 慌てて振り返ったのは、上田に部の説明をしている最中だったリョウカで、エバーマットに大の字で寝っ転がった公音は、弱々しく体操着の袖から伸びる細っこい腕を挙げる。


「……生きてます」


 それを聞いて、ほっと胸をなでおろすリョウカ。

 

 ──そういえば、一昨日も、というか前々から無茶する子やったね……。


「やっぱり、私マット持つよ」

「えっ、でも上田くんは……」


 台に駆け寄る彼女の上から戸惑った声色が言いかける。それを遮って返した。


「説明はほとんど終わったよ。残りは左近寺先生が。今日はとりあえず見学して、最後にちょこっと跳んでもらおっかなって」


 そこまで言って、スポッターマットを持ち上げたリョウカはトランポリンのフレームに身体を寄せて、補助台の上の公音に目を向ける。


「たしかに、年齢別での結果がうちの部活の立場……存続を左右するかも、とは言ったけどさ」


 練習に移る前の、軽いミーティング。左近寺がした話。


『ここにはまだ、資格を持ったコーチが居りません。せやから、君らはあくまで自主練という形でできる技、できる演技までを練習してもらうことになる。学校にもさっさとコーチを連れてきてほしいとは再三言っとるけれど……大会での結果が、トランポリン部の「これから」を決める材料になるかもしれん、ということは言っときます』


 直接的な言い方を避けていたけれど、それはつまり、大阪府年齢別大会に出場する予定の公音が、いざ、大会本番で失敗したら、彼の決意も、リョウカが復活させたこの部も、彼女の思いも。


 ……まとめて水に流される可能性があるということで。


 リョウカ自身も、左近寺も、彼にプレッシャーをかけるつもりはないと言い切れるが。そう言いつつも彼が、きっと自分を駆り立てて、それが自分を踏み付ける圧になりつつあることも、分かっているけれど。


「──けど、ホントに、無理はしないで」


 琥珀色の澄んだ瞳に滲む、心配と、後悔の影。

 キャパオーバーの期待を背負って、血を流す心を叱咤して、苦痛もつらさも呑み込んで限界を越えようとすることは、してほしくない。


 ……それで、私は跳べなくなったから。


 そんな思いは自分勝手なのだろうし、彼とて無理が通るスポーツじゃないのは分かっているだろうとは、思う。

 ただ、トランポリンという競技は、孤独だ。たったの三十秒、四十秒の間に自分の力を、テクニックをすべてを出し切らなちゃいけないし、それをしようと焦ると時に重大な事故にさえつながる。

 もし、五、六メートル上空でバランスを崩し、頭から落ちてしまったら。

 そうなった選手がそのあと、どうなったのか、リョウカは何度か見た。


 実は、命がけの競技だ。


 それを自覚したから、リョウカは怖くなった。跳べなくなったのだ。


「それに、成瀬くんも、久しぶりに飛んだばっかりやし」

「……分かってます。無理はしてません」


 ……無茶まで、しか。


 公音がむくりと起き上がって、ベッドの中心の、赤の十字模様を睨む。

 今はリハビリの一環として、背落ち──バックドロップから後方に回って足で着地するプルオーバーという、初歩中の初歩の回転技の練習中だったのだが。


「足、まだ流れるな」

「そやねえ、背落ちでもうちょい足先真上に向けれたら、プルオーバーも真上でできると思うよっ」


 バックドロップでの着地の際、天井に向けようとした脚が自分の方へ倒れてきた。その結果、プルオーバーで大きく後ろに移動して、着地位置がベッドから大きく外れてしまったのだ。

 明らかなパワー不足。それに、ブランクで失った感覚。

 ベッドの中心に戻って、額に滲んだ汗を手の甲で拭う。そして半ズボンの、緩んだ紐を結び直して深呼吸。


 こんなところで躓いているわけにはいかない。最初の大会である大阪府年齢別を来月に控えた公音には、いかんせん時間がない。

 二週間前までには大会の演技の構成を決定しなければ、練習時間が物理的に足りなくなる。

 ギリギリで完成した演技では、結果なんて出ないだろうし、何よりも危険だ。


 ヒュッ、と短く息を吐いて、全身の筋肉という筋肉を引き締めた。

 ギシ、とスプリングが軋む音を聞き流しながらベッドを揺らし、併せて脚に力をこめて、公音は再びふわりと浮き上がるような跳躍を始める。


 ……ジャンプはかなり、感覚が戻ってきたか。


 専用のシューズを履いた足の裏に伝わる感触、一昨日と違って滑らなくなったという変化が、跳ぶごとに違和感ではなくなってゆく。

 上昇が終わり、空中で停止した刹那、正面に見えるのはギャラリーの柵だ。高さは一昨日とほとんど変わってはいないものの、今日何度か跳んでみて、あれほどのブレも、ズレもないと感じられるようになっている。そこは、ポジティブに捉えていいのかもしれない。

 直後、重力が公音の存在を思い出し、全身がベッドに引きずり込まれるように落下する。着地の衝撃インパクト、踏ん張って、暴れようとする力を押さえつける両脚の大腿が熱を持つ。

 次のジャンプ。分散しようとするベクトルを、体幹の力で真上を向いた一本に束ねて増幅する。


「────っ」


 スポッターマットの縁を握るリョウカが息を呑んだ。

 その彼女の視線を置き去りに、公音は浮き上がり、また地面に脚を掴まれて落ちてゆく。この、重力という、目に見えない腕を振りほどくて、ついつい両足に力がこもる。

 バタバタと、視界で暴れては時々目に入る前髪が邪魔だなんて思いながら、公音はさらに上へ。


 ──さて。


 正面にはやはり、ギャラリー。

 ただのジャンプと、ほとんど同じ高さ。

 かつての公音なら、いや、誰とも勝負さえできなかった公音でさえも、この程度の高さからのバックドロップ程度に躊躇いもしなかったはずだ。


 ……今は。


 着地、その瞬間、自分の足首がわずかにブレそうになったのが、ハッキリと分かった。その自覚を振り払うように、再上昇。

 表情には出さない、心の奥に、潜在的に芽生える感情。微かな乱れ、ささいなさざなみ

 さっきもそうだった。バックドロップのやり方は思い出したのに。

 跳び上がると同時に、ほんの少し足を前に出して、全身を九十度倒すだけの、単純で簡単な技なのに。


「なんでッ」


 ──なんで、足がすくむんだよ。


 ぎり、と奥歯を噛んで、冷や汗を無視して、バックドロップを仕掛ける。視界からギャラリーが外れ、代わりに映り込んだ白塗りの鉄骨の網が張られた天井、真上から釣り下がった水銀灯で目がくらむ。

 目を眇めながらも自由落下、着地に備えて、今度こそはと全身を固く引き締める。

 着地、すぐに弾かれて、一度遠のいた天井がまた近づく。軌道は直上……ではなく、斜め後方、少しズレた、と直感するが、もうこのままプルオーバーにつなげるしかない。

 なんとでも、なってくれ、と。

 公音が膝を抱え込む。物理基礎の授業で習った「慣性モーメント」なるものの縮小により、その小さな身体に鋭い回転が掛かった。

 目まぐるしく移る風景、木製の壁面が、エバーマットの青が、そして着地するべきベッドの白が。瞬間、抱え(タック)の姿勢を解除して膝を伸ばす。

 ブレーキのかかる回転力、公音の姿勢がゆっくり直立に近づいて、着地に備えた。


「オーバーっ!」

「──あっ」


 直立に戻った足の裏はベッドを踏めず、過剰に回転した結果背中で着地、直前でリョウカがすかさず投げ入れたスポッターマットが公音の身体を受け止めて、ボスンと音を鳴らす。

 さっきまで、少なくともギャラリーまでの四、五メートルまでは跳び上がれる程はあった反発力のほとんどがマットに吸われて、公音は揺れ動くベッドに縛られたように、寝そべったまま、ゆらゆら揺れる。


「惜しかったね」


 横からそんな言葉が聞こえてきて、公音はリョウカの方へ振り向いた。


「前のより後ろの移動が少なくなってたと思うよ」

「そう、ですか」

「うんっ。たぶん、慣れの問題かな。でも成瀬くん、ストレートジャンプのリハビリから初めて、ちょっと乱れはしてたけど五級から一級も今日だけであらかたできてるからホントにすごいよ、自信持って」

「……ありがとう」


 彼女の言う五級から一級とは、トランポリン競技の基礎の段階練習として行われるバッジテストで行われる十種目のことだ。このバッジテストで扱う技は座る姿勢で着地したり、空中でタックの姿勢を作ったり、開脚したり、といった競技においてスコア化されない、つまり難度点がゼロの技がほとんどだ。


「うーん……」


 と、リョウカが難しそうに、と言うよりも、言いにくそうに首をひねる。


「何か、アドバイスとかって」

「そう、それなんやけどね、」


 私もコーチとかじゃないからあんまり言えないんだけど、と前置きして、彼女は続けた。


「……高すぎない?」

「えっ」


 汗をにじませながらも涼し気な表情と裏腹に、分かりやすくショックを受けた。なんでそんなこと言うんだよ、そう言いたげな彼の胸中がどうしてか伝わってきて、少し申し訳ない気分になるが、リョウカは言葉を重ねる。


「成瀬くんが前にどんなスタイルで跳んでたかも知ってるし、だからこそ高さを攻めたい気持ちも分かるよ」

「……なら、」


 公音がすとんと台から飛び降りて、荒ぶった呼吸を整える。横に並んでみて、自分よりほんの少しだけ高い位置にある彼女の瞳がトランポリンの上、さっきまで自分が跳んでいた空中を見つめているのが、気になった。


「やっぱり復帰してすぐなのにあんなに跳べるって、すごいことやと思うし、羨ましいぐらいなんやけど……一歩ずつでいいんだよ」

「……」


 そう言った彼女がこちらに目を向けてきて、公音は俯いた。その言葉の意味は分かっている。分からないはずもない。

 まだ、無茶の範疇だ、無理じゃない。そう言い聞かせていたけれど、客観的に見ればそんなのただの詭弁でしかない。やってみて、できなかったのは、「今は無理」だったからなのだろう。

 それは、よく分かっているのだけれど。


「でも、足りないんだ」


 じわりと、汗の滲むような声が、喉から絞り出された。

 長い前髪の隙間で、彼の瞳が焦燥と、不安感に揺らぎを湛えているのが、リョウカには分かった。同時に、その瞳に宿っている光が、ネガティブな色に染まり切っていないことも。


「まだ、上げれるはずなんだ」

「……」


 無表情という仮面が外れてちらりと顔を出した公音の思いに、つい、掛ける言葉に困る。

 本当は、「まずは低いところから徐々に上げていこう」と、言うつもりだった。だが、顔を上げた彼の、爛々と輝く闘志の欠片を覗き見て、その言葉を呑み込んでしまう。


 ……燃えている。ごうごうと、ギラギラと。


「みんなに勝てるなんて、やっぱりまだ思えないけど……それでも」


 屈んだ姿勢から背筋を多少伸ばし、流し目を送った公音の顔が、いつもと違って少し凛としているように見えて、彼女は目をぱちりと瞬かせた。


「……フカさんに言ったから。全部取り戻すって。全国で活躍するって。だからもう逃げたくない。足踏みも、もうしたくない」


 そう言った彼が、トランポリンの周囲を囲むように敷かれた体操用の床マットに無造作に置いていた自分のタオルを引っ掴む。


 ああ。

 成瀬くんは、前を見ようとしてる。無茶しすぎている感じはあるけれど、ちゃんと挫折に向き合って、闘おうとしてるんだ。

 一度地面に落っこちて、散らばった羽根を一つ一つ拾い集めて。それを枯れた翼に接ぎ挿して。

 もう一度、羽ばたこうとしている。


『──ヨッシーも越しちゃうんじゃないか、って──』


 一昨日、何気なく彼に言った言葉を思い出した。もしかしたらこの少年は、そんな自分の冗談めかした言葉を、実現してしまうのじゃないだろうか。

 つい、口元がほころびかける。


「いや、ちゃうちゃうっ」


 と、慌てて我に返った。今はまだその段階じゃないのは明らかだ。このまま彼を焚きつけるだけ焚きつけて、それがプレッシャーにでもなったら、それで怪我でもしたら大変だ。

 彼が跳ぶ姿を間近で見ると、どうしてか心が沸き立ってしまう。もっと上に、と背中を押してやりたくなってしまうのだけれど。


「成瀬くん、」


 彼女が振り返ったとき、公音は汗を軽く拭ったタオルを軽く畳んで、また同じ場所に置いたところだった。顔を台の方に向けていて、どうやら一分に満たないインターバルで、もう一度跳ぶ気だったらしい。

 応援するとは言ったし、時間がないというのも分かっているけれど、さすがにそれは看過できない、と苦笑する。部長として、選手としての彼を応援する人間として。


「さすがに一回休憩しよ?」

「えっ、なんで」


 物足りなそうな顔をした公音に、なんでじゃないよ、と吹き出しそうになった。


「慌てすぎは良くないし、ホントにケガするよ? それに、」


 リョウカは横──あきれ顔で体育館の壁沿いを指さした。公音もつられてそちらを見やって、首を傾げる。

 壁際で、二脚あるパイプ椅子に腰掛ける上田と左近寺がこちらへ「おっす」と会釈してきて、その足元には脱いだ学校指定のジャージが二着分並んでいる。綺麗に畳まれているのがリョウカので、それに比べて雑なのが公音のだ。

 そして、その傍らにはスポーツドリンクのペットボトルが立てられていて。


「──成瀬くん、今日の練習始まってから一回も飲んでないやん」

「あっ」


 間抜けな一文字が出た。跳ばなきゃ跳ばなきゃと、焦燥に身を任せるのに必死で、およそ一時間強の間、そんな普遍的な、水分補給という必須の行為さえも忘れていた。

 何のためにドリンク買ったのか、という話だ。


「……え、忘れてたの?」

「……はい」

「えぇ……」


 なんで引くんですか。忘れるんですよ。忘れっぽいから。


 ジト目で睨む彼女の視線から逃れるようにペットボトルを取って、壁によりかかる。ふうっ、とため息を一つ。

 キャップに手をかけたところで、椅子から立ち上がった上田が、こちらへ歩み寄ってきた。左近寺は逆に、リョウカの方へ向かっていく。


「──すごいな」

「……なにが」


 飄々とした感嘆に、淡々とした疑問を返す。上田は小首を傾げる公音の隣に並んで、壁にもたれかかった。


「素人目やからあんま分からんけど、練習始めて一日でもう回れてるやん」

「それは、」


 ふっ、と苦笑する。ペットボトルを握った手を見下ろしながら、公音は答えた。


「多少は経験があったから。……でも、あの程度じゃ」


 台に上がって、軽く跳んでからポーパスを始めたリョウカを見上げる公音。その言葉の続きは何だったのだろうか、と想像しながら、上田は彼について、意外と熱血なのか、と分析してみる。

 一昨日、彼が見た光景。

 ギャラリーに居た自分を、シュウを、他にもチラホラいた生徒たちの視線を丸ごとかっさらって、トランポリンを強く踏みしめていた公音の姿。

 その表情が、普段の生活で見てきたような涼しげなそれだったら、きっと自分はトランポリン部に滑り込みで入部することはなかったかもしれなかった。

 必死で、熱くて、悔しそうで、それでも楽しそうで。

 ありふれた、それでいてかけがえのないスポーツ少年としての表情が、彼自身の中で眠っていた、あるいは忘れ去っていた闘争心というものにスポットライトを当てたのだ。

 だからこそ。


「カッコええやんって思うわ」

「……」


 その言葉に、キャップをひねっている途中だった手が止まる。


「結果がどうとか、できるできない抜きにして、さ。必死に食らいつくのって、ザ・主人公って感じやん。そういう熱さは俺、今まで持てなかったから」

「主人公……?」


 そのとき、いつの間に台を降りたリョウカが「海玲くーん」と手を振って、上田がそちらへ向かっていった。

 彼は名前で呼ばれることを選んだのか、なんて思いつつ、ペットボトルのキャップを開ける。

 上田は彼女や左近寺と短い会話をした後、台に上がって、ベッドの上を歩き回り始めた。そのどうにもぎこちない歩行を眺めながら、公音は口元に運んだペットボトルを傾ける。

 スポーツドリンク特有の、なんとも甘酸っぱい味。そのまま体育館に放置していたせいで随分生ぬるくなったそれを喉に流し込んで、ほっ、と小さく息をつく。


「かっこいい、か……」


 少し、照れくさいな、と空いた片手で前髪をいじる。

 それが本当なのかは、断定できないけれど。

 もう一口、スポーツドリンクで喉を潤わせて、ペットボトルを置く。


「……そうだよな。今は、必死にやることしか、できないから」


 ばちん、と両頬をぶっ叩いて、湿った心から水気を抜く。


 他の選手みたいなスマートさがない、自分には。そんな自分が今、できること、やるべきこと。

 「できなかった」を「いずれできる」に変える、第一歩。今は背落ちからのプルオーバーでさえ満足にできないけれど、今月中に、他の宙返り技を取り戻すためには、やるべきことは山ほどある。

 公音はその場であおむけに寝転がって、上体起こしを繰り返す。

 水分補給のついでに頭を冷やしてほしい、とリョウカは思っていたのだが、それに反して公音はちっとも落ち着けなかった。


「ひとまず、三十を二セットは、やらないと」


 心で思ってるだけじゃ、自分を奮い立たせきれないからと、口でそう呟いて。


 その後、軽くジャンプをしてみた上田が戻ってくるなり、遠回しに「復帰直後であんなバカみたいな高さで跳んだのイカレてるよ、成瀬くん」と言われ、苦笑しつつも練習に戻る。

 その後もひたすらプルオーバーを始めとする、基礎的な回転技の練習を繰り返し、その都度、何度もエバーマットに突っ込んで、あるいはスポッターマットを投げ入れられて、その度リョウカの表情が目まぐるしく変わって。

 息をつく間もない、がむしゃらに近い、濃密な練習。


 それを、おおよそ一時間。


「──うおっ」


 台から降りては、次に跳ぶまでの隙間の時間で取り組んでいた筋トレ。腹筋、背筋に続けて腕立て伏せをしていた途中、汗で床についた手を滑らせて、そのまま上体を床に打ち付けた。

 ドゴン、と硬くて重い音が鳴って、リョウカら三名がこちらを向く。


「大丈夫?」

「……うん、滑っただけ」


 姿勢は変えずに片肘をついて汗を拭い、息も絶え絶えにリョウカへ答えた。


 ──ああ、キッツイなあ……。


 背中がじんじんと痛む。筋肉痛のような、そんな痛みだ。初心者病という奴なのだろうか、この感覚も、以前トランポリンを習っていた頃に、練習の間隔をしばらく空けた後によくあった。

 練習場の風景が、脳裏に蘇る。

 真っ赤な床マットに、ここと同じ、群青のトランポリン。壁に貼られた黄色の緩衝材と、何かとトリコロールだった、あの場所。

 あの頃はずっと、実力が伸ばせないことに苛立って、練習なんて嫌いだと、疲れるだけだなんて思っていた。

 自分の努力不足を、熱意の喪失を、棚に上げて。


 ……音を上げるのは、せめてあの頃程度の、貧弱だったあの頃の僕の実力を取り戻してからだろう。今の僕に、辛いなんて思う資格は、ない。


「続き……二十一からか」


 また、両手を床について腕立てを続ける。

 リョウカが跳び、上田もぎこちなく跳び、そして公音も。入れ替わり、立ち代わり、たった三人しか部員がいないために、高密度な練習時間が過ぎてゆく。

 本日、木曜日のトランポリン部の活動時間は、四時から七時の三時間。

 三時間「も」なのか、三時間「しか」なのか。

 長いようで短い、そのくせ短いようで長い、時が徐々に過ぎて。


「──最後、倉庫の奥の方のスペース……あっちね、あっちに入れるよ」


 時計の針は七時前、体育館の窓の外に、太陽はもう居ない。代わりに藍色の暗闇と、おそらくグラウンドの照明らしき、無機質な白い光が、ぼんやりと差し込むだけで。

 公音は、倉庫内の奥の方を指さすリョウカとともに、三つ折りに畳まれたトランポリンの台をガラガラと体育倉庫に引っ張っているところだ。

 練習終わりで疲れ切った身体には重たいそれをなんとか引きずるように倉庫の奥の、薄暗い空間に運んで、ようやく仕事が終わる。

 体育倉庫を出ると、すぐそこに男子バレー部の生徒が数人固まっていて、リョウカがそちらに笑顔を向けた。


「えー、ご協力ありがとうございますっ」


 ──練習前に「バレー部のみなさーん!」と彼女が声を張り上げた時は、びっくりしたけれど。


「うす!」


 彼らはそう言って、体育館中央の、他の部員たちの群れの元へ。

 トランポリンの台は、一人二人で出し入れできるものではなく、運ぶだけならともかく、畳んだり、広げたりするには人手がどうしても必要だ。だから、こうして、他の部、特に左近寺がトランポリン部と兼任で顧問を務めるバレー部に協力してもらっているのが現状だ。

 きっと、よくあるスポーツ漫画とかであれば、それによって部の立場が弱まったりするのだろうが、この高校では特にそんなこともない。バレー部員たちが不満な顔をしないのは、彼らが優しいのか、それとも彼女──リョウカの人望か。


「──はーい、最後、軽くミーティングしよっか」


 と、リョウカがパチンと手を叩いて、公音は三人が集まる体育館の隅へ。

 ミーティング、とはいってもいかんせん、部員が三名の新設部。話すことなんて大会が来月に迫っています、というぐらいで。

 ありがとうございました、という練習終わりの号令も、今日までソロ活動状態だった部長のリョウカと、トランポリン部の顧問としての活動に不慣れな左近寺、練習初参加の上田と、コミュ障気味の公音ではまともに噛み合うこともなくグダグダで。


「──はー、背中痛いわ」

「……大丈夫?」

「まあ、海玲くんも筋トレよくついてきたと思うよっ」


 解散後、それぞれ更衣室で制服に着替えて、フラフラの上田を心配しながら、ミーティング中のバレー部を残して体育館を後にする。

 公音も公音で背中どころか、全身がガタガタだ。練習の最初と最後の筋トレだけでは足りない気がするからと、跳んでいる合間にトレーニングを詰め込んだ結果の産物なので、誰のせいかと言われれば、間違いなく自分のせいなのだが。

 体育館の扉を閉めて廊下に出ると、窓の外、滝谷不動の街並みの彼方の空は意外にオレンジが残っている。黄昏どき、ってやつなのだろう。

 なんて公音が思っていると、突然彼の肩に腕が回された。


「──びっくりした」

「全ッ然やないかい、あまりの棒読みにこっちがびっくりするわ」


 刃物の切っ先みたいな目でそう言うのは、どうやら自分たちと同じく部活が終わったところらしいシュウだ。その少年じみた声に二人も振り返る。


「おー、お疲れっす」

「あ、諏訪山さんやんっ、部活終わり?」

「おう、空手部。ってか、上田もおるんやん、まさかのトランポリン部?」

「そのまさかやで。気になったから」

「意外やな」


 へえ、と憔悴した上田の顔を面白そうに見る彼女の首元からは、ライムか何か、柑橘類の香りが漂ってきていることに、公音が気付いた。


「……早速使ったんだ、あのシート」

「切らしてたもんでなァ」


 ふと、シュウが顔をしかめる。


「てか、オメェ汗臭いんやけど」

「だったら引っ付かないでよ」

「るせェ、ウチかて疲れてて杖が欲しいねん。ええからこれ使え」


 と、彼女が肩に引っ掛けたブレザーのポケットから制汗シートを一枚引っ張り出して、公音の首に押し付ける。


「……ありがとう」


 それはオレがあげたやつなんだけど、とか、人を杖にしないでよ、とか、言いたい文句はあったものの、そんなことをされたら突っ返すわけにもいかなくて、仕方なく首元に滲んでいた汗をそれで拭いた。

 陽が沈んで下がった気温に、汗だくの身体、そこに柑橘の香りが合わさって、少し肌寒い。

 そして、そんな自分たちの様子に不思議そうな目を向ける琥珀色の瞳が気になって。


「……なにかあったの」

「いや、」


 リョウカがくすくすと笑う。


「もしかして二人って、付き合ってる?」


 ため息をついた。

 自分と、シュウが? あり得ないだろ、と。


「付き合ってないよ、ただの幼馴染」

「なんだ、めっちゃ仲ええなーって思ったんやけど」


 シュウもフン、と鼻を鳴らして、呆れた顔で言った。


「どいつもこいつも、色ボケがよォ」

 

 ──そして、今日の部活が、終わる。

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