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九話目。「そして、部活が始まる。」





 そして、翌日の朝のこと。


「──失礼しました」


 一礼して、職員室を後にする。途中の直線の廊下で階段を下りて、また上るという道筋の必要性に疑問を感じつつ、教室に戻った公音は、「おっ」と、手を振り上げたシュウの机へ向かった。


「──アオハルコースに進学おめでとォ」

「なんだよそれ」


 からかうときの笑みを浮かべる彼女に苦笑まじりにツッコんで、机に軽くもたれ掛かる。

 そしてシュウ、そっぽ向いてしゃべると文句言いたげな目をするくせに片膝立てて座らないでくれ。その座り方は道着か何か、とりあえずズボンを履いているときだけにしてほしい。

 内心でそんな切実な願いを垂れていると、彼女は公音の脇腹を人差し指で突っついてきた。

 やたらと力が強めな気がして、めり込むだろ、とため息をつきながら少しだけ振り返る。


「入部願出してきたんやろ? つまり、フカちゃんとの甘く切ない日々が始まるってわけや」

「やめてくれ、そんなんじゃないんだってば」

「ほォーん、ところでよ、」


 シュウは視線を落として──公音の足元を見やる。


「なんやその足さばき、膝関節なくなった奴かマイケルのダンスみてーになっとるけど」


 行き道では何も言われなかったから、このタイミングで絶対ツッコまれると思っていた。

 彼女はまるで力が入っていなくて、ワナワナ震える公音の脚の疲労困憊ぶりにフン、と鼻を鳴らす。


「筋肉痛か」

「……そう」

「あの程度で?」

「違う。夜に二キロぐらい走って、今朝も同じぐらい走った」


 ちなみに、昨晩と朝と、走るついでにいつもより負荷多めで筋トレもしてきたから、身体についている筋肉という筋肉が日常の動作をするのにいちいち悲鳴を上げる有様だ。


「アホかよ。そんなに悔しかったのかよ」

「うん、まあね……」


 全国で活躍する選手になる、と口に出したんだ。努力はいくらしても足りない。多少のがむしゃらや、無茶をした程度じゃ、誰にも勝てやしない。

 そんな焦燥に駆り立てられて、居ても立ってもいられなくなった、というのはそうなんだけど。


「リハビリに時間がかかるんだ。できることは、今からでもしておきたい」

「ストイックやな」

「そんな大層なものじゃないよ、これまで逃げてきたツケを払ってるだけだから」

「……へえ」


 ──そんなネガるこたァないやろ。

 背中を向けているのに、彼女がそういう視線をこちらに向けているのが分かった。

 肩を落とす公音に何か思うことがあったらしいシュウは、少しの間を空けて言う。


「……ただ、無理やらかして大ケガしたら終いやからな」

「分かってる……無茶までしかしてないから」

「何がちゃうねん」

「無理は無理だから無理なんだ」

「同じ単語を何回も並べんな、ゲシュ……ゲシュト……なんちゃら崩壊するやろ」

「出来ないことはしないよっていう意味。あとゲシュタルト崩壊な」


 無理は、しない。それをやって何度も失敗を塗り重ねてきたから。とはいえ無茶の度合いも考えないと。……あくまで夜に走ったのは、買い物のついでだったんだけど。

 ──あっ。

 そんな考え事を膨らませたところで、思い出した。


「──そうだ、忘れるところだった」


 そう言うなり自分の机の上に置いていた制カバンをゴソゴソ漁りだす公音に、シュウは前のめりになって首を傾げる。姿勢を変えたことで椅子の上に立てていた片脚が滑り落ちて、上靴と床がべちん、と音を立てた。

 その間に、彼は半透明のレジ袋に入った何かを取り出して戻ってきた。


「これ、渡そうと思って」

「あ?」


 呆けた顔で、差し出されたそれを受け取る。

 袋の中には、スポーツドリンクやらゼリードリンクやら、あとは制汗シートのパッケージも見えた。

 中身を見ても、これを渡される理由がさっぱり思い当たらなくて、シュウは視線で公音に問いかける。


「昨日さ、色々助かったから。改めてお礼がしたいんだ」

「お、おう……」


 シュウは袋の中身を机の上に並べてみた。

 スポーツドリンクのペットボトル、ゼリー飲料が二パック、プロテインバー三つ、そして制汗シート。最後のそれはシュウが愛用しているものと同じ香りだ。


「……ウチ、そんな千円分の仕事した覚えないんやけどな」

「なんで価格バレるんだよ、指摘しないでよ生々しい」

「あそこのドラッグストアやろ? ウチもいつもそこで買うてるから」


 とはいえ。


「このシートちょうど欲しかってん、差し入れあざっす」

「そっか、お気に召したようで良かったよ」


 相変わらずこういうところ義理堅いよな、とシュウは思う。

 入学してすぐの頃、「仲良くしてくれたお礼」だなんて言って、売店で昼食を奢られたことはまだ記憶に新しい。

 ……小学生のときもカブトムシだったかクワガタだったか、もらったっけ。

 土まみれの手で笑顔を見せる幼い公音の姿が脳裏に蘇った。

 考えてみれば、目元とかは、案外あの頃のままなんやな。


「まあ、大事に使わせてもらうわ」

「うん」


 ──がらり。

 と、教室のドアが開く音がして、二人の視線がそちらを向いた。


「あ、やっぱり来てたんだ、あと諏訪山さんもっ」


 やほ、と手を振ったのはリョウカだ。制服姿を見るのは初めてで、隣のシュウと違い、シャツのボタンをしっかり上まで閉め切って、膝下丈のスカートがふわりと揺れている。それでいて堅さを感じさせない着こなし方に、公音は彼女に対して品行方正なイメージを感じ取る。


「お、フカちゃんやん」

「……どうも」


 そんな彼女に、シュウが八重歯をちらつかせて手を振り返し、公音が目を逸らしがちに会釈する。


「なんか机が豪華やねぇ、諏訪山さんどうしたん?」

「いや、公音からの差し入れ。昨日コイツの背中ぶっ叩いてやった礼とのことでさァ」

「へえ~、成瀬くん優しいんやん」

「……ありがとうって言うだけじゃ不義理かって思って」


 左に軽くカールした前髪を指先で遊ばせて、公音が言うと、リョウカは「ええことやと思うよ」と、目を細めた。


「てか、フカちゃんどないしたん?」

「いやー、昨日成瀬くんに伝えそびれてたことあってさー、ちょっと成瀬くん借りていい?」

「おう、別にウチに断るこたァないやろ」

「ありがとねん~」


 おどけた調子でそう言いながらリョウカは机をぐるりと回り込んで、公音の前に立つ。


「改めまして、おはよっ」


 まさかわざわざ自分の正面に来るとは思っていなくて、たじろいだ。


「……おはよう、ございます」

「敬語に戻ってるっ!?」


 早咲きの向日葵みたいな笑顔にたどたどしく挨拶を返すと、彼女は途端に不満そうに頬を膨らます。

 だって、昨日のことを思い出すと、さ。

 リョウカの瞳は、当然のことながら昨日と同じ綺麗な琥珀色で、だからイヤでも自分の手に重ねられた彼女の手の温もりが記憶に滲んで気恥ずかしい。昨日のテンションのまま接するのは、公音にとってはさすがに難しかった。


「……それで、伝えることっていうのは」


 泡のように次々浮かぶ雑念を振り払うように尋ねた。


「そうそう、ちょっと来てほしいんだ」

「えっ」


 こちらに伸ばされた手を見て、手招きでもするのかと思ったのだが。公音の予想に反してリョウカは彼のシャツの袖をちょんと摘まむと、来ないの、と言いたげにこちらへ振り向いた。

 少し服に触れられただけでドギマギしてしまう、その心が見透かされたくなくて、公音は咄嗟に顔を背ける。


「じゃあ、すぐ返すからねー」

「おうよ」


 リョウカはからかう目で公音を見やるシュウに笑顔を残し、公音は彼女に連れられるまま教室の外へ。

 一人二人、生徒や教師の往来が多少あることを除けば、廊下はほぼ無人だった。

 リョウカが公音の袖から手を放したかと思えば、先ほど出た教室の扉の向かい側の、開け放された窓の縁に肘を置いて、少し身を乗り出すような格好になる。

 公音はその横の、壁にもたれかかった。


「ごめんね、立ち話になっちゃうけど、ちょっと内容がデリケートだから、二人で話せた方がいいかと思ってさ」

「いえ。それで、話って」

「そう──、」

 

 リョウカがサッと窓から身を翻して公音の真隣に並ぶ。艶めいた茶髪の毛先が自分の頬に当たりそうで、肩と肩が触れ合ってしまいそうで、公音は少しだけ距離を離した。


「練習のときの服装なんやけど、体操服でやってもいいし、成瀬くんの私服でもいいからね。左近寺先生にも確認してオッケーもらったから、そこは安心してくださいっ」

「ありがとうございます」

「それと……入部願ってまだ出してない?」

「いえ、ついさっき担任に」


 リョウカが片方のもみあげを掬って耳に掛け、パッと瞳を輝かせた。


「まじ~!? すごく嬉しい、ありがとっ」

「……それは、どうも」

「あと、これは成瀬くんの親御さんにも確認しておいてほしいのだけど、」

「な、なにを」


 親、という言葉に少し、気まずさを覚える。無意識に視線が床を向いて、俯いた。

 そんな公音の様子にリョウカは少し首を傾げたが、ひとまず連絡を続けることにした。


「そのー、大会の出場費は、今のところ学校が負担してくれることになってて、ジャージとか試技服も、一応廃部になる前の頃のが残ってるから、それが使えそうならそれを着てもらうことになるんだけど……」

「うん」

「新生トランポリン部にはコーチがいなくて。左近寺先生はバレー部と兼任だからあんまり私たちに付くこともできないそうで、だからもし外部からコーチが来るってなったら、何かしら私たちに負担が出てくるかもしれないっていう話」

「そう……いうこと」


 困ったな、と公音は鼻の頭を指で少しつまんだ。彼はまだ、トランポリン部に入るということも、そもそも部活に入るということも、親には報告していなかった。

 ……何を言われるかは、だいたい想像できるから。


「やっぱり親には伝えた方がいい、かな」

「まだ伝えてなかったの?」

「……言いにくくて」


 フッと輝きの消えた公音の瞳を隣で見やって、リョウカは彼のことを、家族との折り合いが悪いのだろうか、と分析してみる。

 それは、ともかく。


「あと、そう!」


 大事なことを思い出して、リョウカはぱちんと手を叩いた。


「……あのね、直近の大会として、来月に大阪府年齢別大会があるの。エントリーは来週からで、かなりスケジュールがカツカツになっちゃうんやけど……」


 大阪府年齢別。……夏の、大阪。

 

 懐かしい気がする響きだな、と公音は思った。同時に、猶予がないな、とも。


「私、成瀬くんに出てほしいと思ってます」


 リョウカが彼の顔を覗き込むようにして、望む。公音は、目をしばたたかせた。


 ……出るべきなのか。きっと彼女は出れると思ったから声を掛けたのだろう。でも、僕は、間に合わせられるのか。


「一か月後……だよね」

「うんっ」


 ぎり、と壁に添わせた手に力がこもる。


 ……来月、たった一か月。それまでにリハビリを済ませて、ずっと走り続ける同年代たちと闘える演技力を磨くことができるのか。

 僕に、その可能性は。


「……間に合うかな」


 ぽつりと、不安が口からこぼれ出た。

 トランポリン部に入部を決めた。しかし、実力は劣ったままだから。あの頃から常にあった、相手との絶対的な、絶望的な差は広がるばかりで。 

 出たくない、なんて逃げ腰はしたくないが、それでも出場したところで勝てないのは明白だ。そんな人間が、大会に出る資格を有しているなんて、公音には思えない。


 ──だが。


「大丈夫」

「……っ」

 

 リョウカがくるりと、また身を翻して今度は公音の正面に立った。一瞬日向に飛び出した髪の先がきらりと眩しくて、しかし目を逸らせなくて、まぶたを狭める。

 視界いっぱいに収まった彼女の、ほのかに朱い頬が朝日に照らされる。


「──私、成瀬くんのこと応援してるから」

「あ……」


 不安はぬぐえない。飛び去りもしない。だが、彼女の言葉が琥珀色の朝日と重なって、差し込んできた。

 つい、息が詰まる。


「うん」


 俯きかけた首を持ち上げて、一つ、頷く。かすれた声で、公音は決意を絞り出した。


「出場する。全部、取り戻すから」

「そう来なくっちゃ、やねぇ」


 リョウカがそう言って、公音の肩を軽く小突く。


「あと、他に訊いときたいこととかある?」

「いえ」

「じゃあ、話は以上やね。ありがと」

「こちらこそ、伝えてくれて」


 うん、と彼女は踵を返して、壱組の方へ歩き出すした──と、再びこちらに振り返った。どうしたんだろう、と公音が首を傾げると、


「明日、楽しみにしてるからっ」

「……うん」


 お守りの鈴が鳴るような、凛とした、それでいて柔らかな声で手を振って、リョウカは今度こそ壱組の教室へ戻っていった。

 扉の閉まる音が聞こえてから数秒、独り、壁にもたれて佇む公音は。


「──明日が楽しみ、か……」


 口の中で呟いて、彼女に小突かれた肩をそっと抱き寄せた。元々小柄で細身なシルエットなのも相まって、見る者があれば小動物的な印象を与えるだろう仕草。ただ、彼の胸の内に、そんな可愛げのある感情はまるでない。


「勝負、できるかな」


 今の姿は知らないけど、トランポリンを続ける限り、相対するであろう選手たち。彼らは公音のことを覚えているのか。そうだとして、競う相手だと思われるかどうか。

 自分が、彼らの土俵に立てるのか。


 性根から染みついた劣等感と、それゆえのささやかな対抗心。焦げた心が硬くなるような、感覚。

 跳ぶことに迷いはない。ただ、弱い、という評価から脱却する方法が知りたい。


「……オレが強くなれば」


 はあ、とため息をつく。

 ひとまず、優先すべき目標はできた。大阪府年齢別大会に出場できるレベルに、実力を戻す。


 ──できるだろう? だって、あの頃の僕は、弱いだけの選手だったんだから。


「跳ばないと。今度こそ、マトモに」


 自嘲まじりの独り言を残して、公音は教室へ戻る。

 そして。


 ──リョウカが楽しみだと言った、明日がやってきた。





 黄金色の西日を背中で受けながら、ホームルームが終わって直行した体育館内。今日は男女バスケ部が中央を占領している中、入口を潜ってすぐに横切った隅の、広くないスペース。

 体操服に紺のジャージを羽織った公音の正面には、とっても嬉しそうな笑顔を見せるリョウカと、顧問の左近寺が並んで立っていて。


「……なんで」


 唐突に、前置きもなく、彼は自分の隣へ疑問を投げかけた。その言葉への返答は、その隣からではなく、正面の左近寺から返される。


「今日は見ての通り、成瀬に続いてもう一人、体験入部してくれた子がいます。上田かい……なんて言ってたっけ、すんまへん」

「──海玲です。よろしくです」

「よろしくねっ」


 大阪人全開の仕草で詫びる顧問にそう言って、すまし顔でぺこりと軽く頭を下げたのは、クラスメイトの上田だった。彼は表情には出さずとも目で驚きを訴えている公音へ、四分音符を横倒しにしたような流し目を送る。


「一昨日、成瀬くんが跳んでるの見て、すごいな思って」

「そんな……」

「俺もあれぐらい跳んでみたくてさ」


 ──挫折を撥ね飛ばしたくなった。そう、彼は涼しい顔で付け加えて、正面へ向き直る。


「あれぐらいなら簡単だよ」

「そうなん?」


 公音は彼に目を向けながら返した。上田は「マジ?」なんて顔をしたのだが、正面のリョウカが呆れた表情を作り出す。


「成瀬くん適当言わないの」

「えっ」

「いきなりあそこまで上がれる人なんてそうそう居ないよ」

「……」


 嘘だろう、なんて公音は思って。

 よし、と左近寺が頷いた。


「そんじゃ、メンバーもそろったし、始めるかー」

「はいっ、これから今日の活動を始めます! お願いしますっ」


 ぱちん、とリョウカが合図のように手を叩いた。


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