2++:舞台裏のある日の騒動
鬼は人ではない。
彼らは食を必要とせず排泄を必要とせず、成長せず死なず繁殖もせず揺らがずただ其処に在る。彼らが自己をまた仲間(種とも言えるかもしれない)を認識したときからそうであったし、変わらない。有り体に言うのであれば鬼は世界から隔離されているのだ。神とはよく言ったものだが、鬼はあらゆる影響をその身に受けない。より正確に表現するのであれば“受けられない”。
鬼は与えるだけである。生物を殺し生かし生み出し作る。
それを気が遠くなる年月繰り返してきただけだ。
人は認識をしていないようであるがが鬼が持つものを持ち得ないように、鬼も人が持つものを持ちえていない場合は多々あるのである。たとえは時の流れ。たとえば変化。たとえば……感情。鬼は人の持つそれを持ち得ない。
――――その、はずであった。
『ぅあ、ああああんっ!』
空気ではない、念が痺れるほどの泣き声が鬼街に響き渡ったのはのどかなある一日のことである。
鬼達が息を飲むより早くヴィルクターリスはその瞬間、顔面を蒼白にして一瞬で転移をした。
理由は明快にして簡潔。
その桁外れの大きさの泣き声がヴィルクターリスの寵愛する子の泣き声である、という一言に尽きる。そしてヴィルクターリスが泡を食うのは、寵児がうっかりと死に易いためである。ヴィルクターリスが街にくるまでどのような旅だったのか鬼達には詳細は伝えられてはいないが、鬼達が作ったこの平和な街ですら寵児はうっかり四五ほど死にかけた。何しろ、彼の子供には生物として最低限に必要なものとやらが欠けていると生物とは言いがたい鬼にも明白なのだ。
「花!」
移転した先は……至極残念なことにヴィルクターリスと寵児が生活の基盤を置いているはずの家であった。更に絞るのであれば普段寵児が動き回っている囲いの中であった。
「ヴ、イー!」
「花! っ、何をしているのだねお前は!」
ヴィルクターリスがやや粗野に声を荒らげたのも無理はない。腕を伸ばして小さい体を抱き上げ胸に抱え込んだヴィルクターリスは幼子、花の全身に視線を一通り走らせ無事を確認すると大きく息を吐いた。胸元では花が泣きじゃくりながら全身でしがみついている。
更に叱責を飛ばしかけたヴィルクターリスだったが稚い様子で泣きじゃくる姿に言葉を飲み込む。息を一つ、吸って吐いたヴィルクターリスは囲いに視線を向けもう一度深く息を吐いた。
普段其処には花が寝起きするヴィルクターリスの背よりもやや小さい、樹繕布の繭があるはずだ。カルヴァに仕上げさせた純白のそれはヴィルクターリスも少々眉を上げたほど出来のいいもの、であった。
今、彼の目の前にあるのは……。
「#ΘΨ⊿л! ヴィー! キジャーゥ、目、起きました!」
「……そうですね」
前半に鳴き声のような言葉が混じったものの、後半胸元で嗚咽交じりに訴える花の言葉にヴィーも幼児語で同意を示した。
足以外の体の表面を覆う白い毛皮に白赤色の三つ目。鱗混ざりのヴィルクターリスの腕ほども在ろうかという四足と、しなやかな光沢を帯びた赤い八本の尾。額に光る玉は黒い。
樹繕布、であったものは今や布ではなくなっている。ヴィルクターリスの目が確かならば、それはかつて鬼が生まれた直後頃に人によって滅ぼされたといわれる蛇狗に見える。しかも、囲いの上底に背中を当てて空間の半分以上を占めて窮屈そうに伏せている程度には、大きい。
先ほどまでその顎の下でもがいていた花は今はぶるぶると震えている。ヴィルクターリスもつい、暫く黙然と目の前の生物を眺めることに意識を奪われた。
(遣れ、どうすべきか斯の様は)
我に返ったヴィルクターリスは瞬間、思案し――――すぐさまそれを放棄した。斯く様な事は斯く様が好きな輩が行えばいいのだ。そしてヴィルクターリスは丁度そんな物好きに心当たりがある。
今は野卑に姿を変えた馴染みに声を飛ばしながらヴィルクターリスは腕の中の子供に声をかけた。
「花」
「ヴィー、ぉめんしゃーぅ、ね、ごめしゃ」
泣きながら言っているお陰で普段よりも悪い滑舌がもはや言葉の意をなしていない。しかし、懸命に謝るその姿に、相好を崩したヴィルクターリスは微笑んでこめかみに接吻けた。
「花」
「……ぃー」
「花は、起きます」
「……ヴ、いー」
「花は、玩具、遊びなさい」
「……」
「私は、用事があります」
「……ぁい」
上げられた顔の腫れた瞼を舐めて満足したヴィルクターリスは足早にその囲いから、巣から抜け出す。巣の間近に現れた不思議そうな微笑を浮かべたカルヴァと落ち着きなく身を縮める玩具はヴィルクターリスの腕の中でいまだ震えている幼子に気付く。首を傾けたカルヴァの隣の玩具は動揺を隠さずふらりとヴィルクターリスに近づきかけ、踏みとどまった。
『此様は如何したかね長殿、先程の寵児の鳴声は?』
『五月蝿い、口を噤め』
『……やれ、何か愉快な事でも在ったようだ』
一通り寵児を眇めた目で見たカルヴァは何の損傷もないことに納得したのか肩を竦め一時黙り込む。ヴィルクターリスはそれに一瞥もくれないで俯いたまま戸惑ったように体を揺らす玩具に視線を定めた。
「花を一時お前に預ける。毎時事乍ら、玩具の分を弁えて花に尽す様」
「唯」
「――――長殿、其れは飽く迄愛玩種。私の清玉を虐めないで頂きたい」
「……。花、玩具、遊びます」
笑ったまま、だが不快げに口を挟んだカルヴァに一瞥したヴィルクターリスは鼻で笑い無言で玩具に花を預ける。細腕ながら軽量の子供は顔を挙げ、見知った顔にまたぼろぼろと涙を流してしがみついた。玩具も眉を顰めその背を撫で摩りながら何事か囁きかける。
「ヴィー」
「花、わたしは、はやく、かえります」
「はい」
頷いた花と玩具が去っていくのを確認しながら、ヴィルクターリスは隣で無表情に微笑むカルヴァを促した。
『入れ、処理はお前に任せる』
『――――何はともあれ、有り難き幸い』
その顔が、ヴィルクターリスにしてはじめて見る驚愕に彩られたのはそれからすぐのことだった。
人は認識をしていないようであるがが鬼が持つものを持ち得ないように、鬼も人が持つものを持ちえていない場合は多々あるのである。たとえは時の流れ。たとえば変化。たとえば……感情。鬼は人の持つそれを持ち得ない。その、はずであった。
何やらそれが「変化」していっている現状に、鬼達はいまだ気付いていない。
――――それは兎も角として、暫く後、街の外れに蛇狗が繋がれ、鬼にして初めて目にする其れを一目見ようと物見高い鬼達が集まるのはその日の午後であり。
寝床を失った寵児がヴィルクターリスの寝床に潜り込んだのはその晩の話である。
何だか色々な人の齟齬が上手く、伝わら、な、い……。
覚書
蛇狗
でかい。絶滅していた。
全体的に白っぽい三つ目。




