2:花と朝の風景
ゼロから始まった生活は、ほんのすこしだけ、何かを作ることに似ている。
「花」
浮き上がりかけていた意識が速度を増して表面に現れる。
唸りながらあまいあまいウーの声に目をこする。掛かっていたふわふわの布を掻いて顔を出せば、こちらを覗きこんでくるウーのふわっとした笑顔。
「花、 」
寝起きの頭では名前の後が聞き取れない。目を瞬いて首を傾げる。……挨拶、かな。それにしては短かった気がする。ウーが埋まっていた布の海から私を抱き上げる。額に落ちてきたキスにもぞもぞしながら、手を伸ばして頭を近づけお返しの挨拶。ウーの肌はいつでもひんやりしている。
「おはおーごあいます」
「おはようございます、花」
外を見れば青い空。今日もいい天気。ウーの腕から降ろしてもらって床に足をつける。はだしに石の床の冷たさがしみてふるりと身震いした。すかさず差し出されたのは、布の靴。ひざを突いて不思議なほど足に馴染むそれを履かせてくれようとしたウーに慌てて、首を振って自分で靴を履く。靴下みたいなのに、ちゃんと底は固くてこつこつなっている。
ウーが眉を下げて身をかがめる。目を合わせると顔が近づきほっぺに唇が触れた。すこしだけ、動揺。目を瞬いて動けないうちに抱き上げられてウーはさっさと部屋から出てしまう。この行動の意味が未だにつかめないため、突発的なそれに動揺してしまう。挨拶、ではないだろう。
とんとんとん、と小さな振動。肩に額をつければいつもどおり、やわらかいあまい声が囁く。
「花、わたしは、きょう、しごとに、行きます」
「はい」
「先生が、きます。わたしは、はやく、かえります」
「はい、ウー」
そう広すぎはしない家で移動する距離なんてささいだ。ウーの言葉を二つ聞いただけで居間(だと私が思っている部屋)についた。ウーはソファーみたいな椅子に私を座らせると、その隣に自分も座る。目の前の机には、器に盛られた食事が陽炎みたいな湯気を立てている。
「花は、わかりましたか?」
ウーは金属の楊枝みたいなもので、小さく切り分けられたテトをさすと私の口元に持ってくる。私は相変わらず舌の回らない礼を言って楊枝を受け取った。
『いただきます』
いまだに薄れない癖で食事を始めた私をウーはあまい、だけど少し眇めた目で見てくる。慌てて口の中に入れたテトを飲み込んだ。
「花、」
「はい。わたしは、べんきょを、します」
「花は、勉強は、しなくて、いいです。花は、家に、います」
「? 先生は、きます」
「そうです。花は、家に、います」
「?」
(ん?)
いまいち噛み合っていない会話にフリーズする。ええと、もしかしたら家にいる、というのは何かの慣用句だったのかもしれない。家にいて、勉強する、とか言葉を覚える、とかの難しい応用とか。とりあえず、頷いた。
手元の楊枝が再びウーの手に渡って、今度はテトを口に押し付けられた。食べろ、という無言の意思に口をあけて飲み込み、ありがたく楊枝を受け取った。ウーにとってわたしは、何も出来ない赤ん坊に等しく見えているのだろうか。
「わたしは、家に、います」
「そうです」
もう自分の食事を済ませたらしいウーは、私が楊枝を使って刺しては口に運ぶ様子を無表情で、だけどやわらかな目で眺めている。
テトは、多分こちらの世界の主食だ。見た目は深緑色とこげ茶色がマーブルになった鉄みたいな光沢をもつけれど、口に入れたらやわらかくてふわふわしている。小麦とお米を混ぜたような素朴な甘さのこれは、私のこぶし一個くらいのものを食べれば一日中何も食べられないほどおなかが一杯になる。
見た目が無機質なテトが湯気を出すのはいつみても不思議な感じだけれど、おいしい。今日の朝ごはんはテトと、オレンジゼリーみたいなほかほか野菜スープ味、ひらぺったくなった蛙の姿焼きに酷似した見た目の卵焼き味のもの。味だけ考えればむこうの食卓にあっても不思議ではない、かもしれない。
「ウー」
「はい」
飽きずに私を見ているウーにへらりと笑った。ウーもふわりと、相変わらずきれいに笑う。
「ごはんは、おいしいです。あぃがーと、ごじゃ、ぅ」
「花、 」
いつもしている会話。ウーは今日もふわりと笑って、何かを囁くと額にキスをする。最近、なんとなく分かってきたけれどこのキスは「どういたしまして」と「ありがとう」が含まれているんだろう。
(私は、まだ、なにもできない)
食事の準備を手伝おうとしても、まず、台所の器具の使い方を教えてもらわないといけない。材料の説明も、火の扱い方も、味付けも。
きっとウーはたずねれば丁寧に教えてくれる。いつもみたいに、あまく、やさしく、丁寧に。
だけど、きっとそれはすごく邪魔なことだと思ってしまう。ウーにはウーの生活があって、今日みたいに仕事に出かけないといけない日は食事を見守っている時間も本来はないはずだ。何よりもわたしが、すこしでも足を引っ張りたくない。
今の私の出来ることは食器の後片付けと、お水を汲むだけ。
(でもね、ウー)
「……ウー」
「はい」
テトを飲み込んで野菜スープのゼリーを飲み込んで手を合わせてごちそうさま。
私はだから、今日も心の中でこぶしを握って歯を食いしばって踏ん張る。
「わたしは、べんきょ、します」
「……花」
今ウーのためになるわたしの出来ることはきっと、一刻も早く言葉を覚えることだ。
「花、 。 」
ウーの言葉を、少しでも早くわかりたいというのは本当はきっと、わたしのわがままなんだろうけれど。
――――わたしは早くウーにいいたくてしかたがない。
いっこいっこ、言葉を積み上げて。ウーのあまやかしに、やさしさに、あたたかさに。いつかあなたにありったけの「ありがとう」を伝えたい。
「ウー」
ウーの瞬く金色の目を覗き込んで、笑う。
『ありがとう』
ウーは無表情で、首を傾げた。
つるつる光る、深緑と焦げ茶の主食は「ご飯」。
よくウーが吹かしている煙が出る枝は「煙管」。
この前買ってくれた振ると鈴の音がする髪飾りは「簪」。
この街の名前は「街」。
そして。
金色の目に黒い髪でせいたかのっぽ、
きれいな笑顔で甘やかしでやさしくてふわりと笑う、
まだうまく発音できない、「彼」。
覚書
テト
食べ物。主食?。
深緑と焦茶で金属光沢を帯びた見た目。
味はご飯と小麦を足した感じ。触感はふわふわ。
通常、女性の拳大の大きさ。(花談)