第九十一話 「ゴブリン襲来」
──あれから約一週間。
俺たちはようやく、ラドランの街へとたどり着いた。
旅の間、ほぼ野宿だったが、案外体への負担は少なかった。
魔物が蔓延る中で野宿なんて、睡眠時間が取れないと思われるかもしれないが、マルタローが『魔物探知』なるものを常時発動しているらしく、寝ていても気配があればすぐに目を覚まして起こしてくれたので、実は案外眠れている。
実際に寝入りばなを襲われることは一度もなく、野宿の割にはしっかり睡眠を取ることができた。
まぁ、スキルなのか、ただの嗅覚聴覚が優れているだけなのかはわからないが、それでも助かった。
だが、マルタロー自身は、どこか元気がなかった。
セリエスさんと別れてから、コイツは目に見えて静かになった。
以前なら頭の上や肩に乗って、「わふ!」と元気に鳴いていたのに、最近は俺のフードの中に籠ることが多くなった。
食事の時も覇気がない。
旅の最中、俺が声をかけても生返事ばかりだった。
「──ここが、ラドランか」
眼前に広がるのは、厳重な壁に囲まれた要塞都市。
規模自体はそこまで大きくはないが、異常なほど高く、厚みのある外壁が街をぐるりと取り囲んでいる。
ラドランが「迷宮都市」とも呼ばれる理由は、この城塞都市のような構造にある。
外敵を寄せ付けない防壁に加え、街の内部もまた、入り組んだ迷路のような構造をしている。
仮に魔物が侵入したとしても、容易に制圧されることはない。
この街の建築様式は、魔物に対する徹底的な恐怖心を象徴していた。
俺は軽く息を吐く。
「……マルタロー、リュックの中に隠れていろ」
「わふ……」
マルタローをフードの中から降ろし、背負っていたリュックに入るよう促す。
狭くて息苦しいだろうが、街の中で見つかれば厄介なことになる。
俺はリュックの口を少しだけ開け、わずかに風が通るように調整した。
(声を出したらダメだぞ……)
(わふ……)
マルタローの小さな返事が聞こえる。
大丈夫だ、俺がちゃんと守る。
そう自分に言い聞かせながら、俺は街の入り口へと歩みを進めた。
──門番が二人。
一人は穏やかな顔立ちの青年。
もう一人は、目つきが鋭く、どこか不満そうな男。
(……おいおい、そんな顔で仕事してたら、日本なら即クレーム案件だぞ)
「ようこそ、ラドランへ。どちらから?」
優しそうな門番が、礼儀正しく声をかけてくる。
「あ、えっと、グランティスからです。旅をしていて……」
「あぁ、それは遠かったですね。お疲れさまです」
好意的な対応に、俺は少し安心する。
だが、その次の言葉に、軽く緊張が走った。
「すみませんが、聖水に手をつけてもらえますか? 規則ですので……」
「は、はい……?」
指さされた先には、石の桶があった。
その中には澄んだ水──いや、聖水が満たされている。
「最近は、魔族が人族のフリをしている可能性もありますので……」
静かな声で告げる門番。
なるほど、ラドランの厳重な警備の一端はこういうことか。
俺は無言で桶に近づき、右手を聖水に沈める。
──問題なし。
俺は人族だから、何の影響もない。
だが、もし魔族や魔物ならば、この水は皮膚を焼き、正体を暴く毒そのものとなる。
「……はい、通っていいですよ」
「どっ、どうも」
なんとか、無事に通過できた。
マルタローを隠している以上、これは確実にルール違反だ。
だが、置いていくという選択肢は、俺にはない。
少し歩いたところで、もう一人の門番が俺を呼び止めた。
「おい」
「は……はい?」
「荷物の中身を見せてくれないか?」
「えっ……」
息が詰まる。
やばい、まずい。
どうする? 言い訳を考えろ──
「おい!!」
だが、その瞬間、別の叫び声が響いた。
叫んだのは、先ほどの優しそうな門番。
──だが、彼の視線は俺ではなく街の外へ向いている。
「……どうした?」
怖い門番もつられて振り返る。
町の入り口から少し離れた丘の上。
そこには、五体のゴブリンがいた。
「ギギギギッ!!」
「グギャギギギ!」
舌なめずりしながら突進してくる、浅黒い肌の異形たち。
ゴブリンは単体なら雑魚だが、群れで動くと厄介だ。
「チッ、数がいるな。人を呼ぶか!?」
「いや、間に合わん!」
門番たちが、緊迫した表情で対策を練り始める。
その間にも、ゴブリンたちは勢いを増し、城門へと迫っていた。
「任せてください!!」
そう叫び、俺は城門を飛び出した。
襲撃は悪いイベントだが、ナイスタイミングだ。
「お、おい!?」
門番たちが驚くが、気にしている暇はない。
荷物検査をされる前に、俺の戦いぶりを見せつけ、信用を勝ち取る。
それに、どうせここで誰かが戦うなら、俺がやったほうが確実だ。
門前での襲撃は避けられない。
なら、どうせなら俺が手加減できるうちに決着をつけてやる。
俺は一直線にゴブリンの群れへと駆け出した。
「グギッ!?」
俺の急接近に、ゴブリンたちはぎょっとしたように後ずさる。
この手の雑魚魔物は、狩る側に回ることには慣れていても、狩られる側の経験は少ない。
だから、俺みたいな突っ込んでくるタイプには、一瞬反応が遅れる。
ゴブリンたちの舌は全体が赤黒く染まっている。
おそらく、栄養不足と言ったところか。
だが──
「腹が減っているようだが、食べるものなら森の中にあるだろ?」
軽く威嚇をこめた声で告げるが、ゴブリンたちは「ギルギルッ!」と何かしら主張してくる。
──ダメか。
こいつらはもう狩りのモードに入ってる。
俺は剣の柄に手を添え、さらに威圧感を増す。
「人を襲うつもりなら──痛い目を見るぞ!?」
「ギギッ……」
少し後ずさるものの、退く気配はない。
なら、やるしかないか。
俺は深く息を吸い込み、重心を落とした。
「ギルギルギルッ!!」
ゴブリンたちが一斉に武器を構えた。
それぞれが手に持つのは、石斧やロープの先端に石が括り付けられた簡易武器。
人から奪ったのか、それとも自分たちで作ったのかはわからないが──どちらにせよ、俺には通用しない。
「ギャァッ!!」
石斧を振り上げて突っ込んできたゴブリンがいた。
動きは単純。力任せに振り下ろすだけ。
──甘い。
俺は一歩踏み込み、そいつの腹に蹴りを叩き込んだ。
「ギギャッ!!?」
衝撃でゴブリンの体が宙を舞い、そのまま地面に転がる。
武器のリーチ差を考えても、俺の脚の方が長い。
いくら振りかぶったところで、俺の蹴りは、相手が攻撃を仕掛けるより早く届く。
「次!」
すぐさま、二匹のゴブリンが同時に飛びかかってくる。
右からの石斧、左からの短剣。
「遅い」
俺は片方の攻撃を軽く身を引いて躱し、その勢いのまま拳をぶつける。
ナイフの軌道を読んで、カウンター気味に叩き込んでやると──
「ギャッ……!」
左のゴブリンがのけ反ったところで、もう片方のゴブリンにも容赦なく拳を見舞う。
「ギィッ……!」
二匹とも地面に転がり、動きを止めた。
最後に残った二匹は、ロープの先端に石を括り付けたものを振り回し始めた。
なるほど、投げ縄みたいなもんか。
「ギルゥ!」
ロープが放たれ、俺の腕に絡みつく。
「っと……」
思わず足を止めるが、すぐに俺は鼻で笑った。
「ハッ、こんなもん……錨上げに比べりゃ……」
俺はロープを掴み、そのまま一気に引っ張る。
「ギギギッ!?」
その瞬間、ゴブリンたちの体が宙を舞った。
ロープを振り回すのに慣れているとはいえ、逆に自分が振り回された経験はないだろう。
「おりゃッ!!」
そのまま俺は回転しながらロープごと二匹のゴブリンを地面に叩きつけた。
「ギャグゥ……」
「ふぅ……」
気がつけば、全員地面に這いつくばっている。
これで、戦闘終了。
軽く呼吸を整えると、俺はゴブリンのリーダーっぽい奴の耳を掴み、ギリギリと引っ張る。
まるで、子供を叱る親のように。
「おい!」
「ギギ……」
「人を襲うとこういうことになる!! しっかり覚えとけ!!」
「ギギィ!!」
耳を引っ張られているのを痛そうに手で俺の腕を掴もうとするが、もう力はほとんどない。
「ホラ! 仲間連れて森に帰れ!」
俺は軽くリーダーの頭を小突くと、ゴブリンたちはいじめられた子供のように頭を押さえながら、森の方へと逃げていった。
「……これでよし」
ゴブリンたちの姿が森へと消えるのを確認し、俺は剣を鞘に収めた。
と、その時──
「おい!!」
背後から怒声が飛んでくる。
振り返ると、先ほどの門番二人が槍を構えて走ってきていた。
「あっ、もう大丈夫です。追い払いました。恐らく、まだ怖さを知らない若いグループでしょう。一回ビビらせときゃ──」
「馬鹿野郎!!」
言い終わる前に、柄の部分で思い切り殴られた。
「ぐっ……!?」
強烈な衝撃が横腹に走り、俺はバランスを崩して尻もちをつく。
見上げると、先ほどの怖そうな門番が、冷たい表情で俺を見据えていた。