第九十話 「魔物と旅をするということ」
──マルタローがうなされていた。
寝息が乱れ、時折小さく鳴き声を漏らしている。
俺は少し身体を起こし、彼の背を軽く撫でる。
すると、ビクリと身体を震わせ、俺の手を避けるように縮こまった。
「おい、どうしたんだ。マルタロー?」
「わ、わふ!?」
突然の声に驚いたように目を開き、飛び起きるマルタロー。
肩で息をしながら、焦ったように辺りをキョロキョロと見回している。
まるで、本当に夢なのか、それとも現実なのかを確認するかのように。
──その目には、涙が溜まっていた。
「また、あの時の夢を見ていたのか……?」
「わふ……」
俺の問いに、マルタローは首を振って俯いた。
「違う……夢? どんな?」
「…………」
小さな身体を丸めたまま、マルタローは何も答えようとしない。
いつもなら俺の手のひらに顔を擦りつけるのに、今日は違った。
まるで拗ねた子供のように、俺の手を避けるようにして、頑なにこちらに顔を向けようとしない。
「なんだ? 話してくれよ」
「……わぅ……」
どうにも、俺には言えない夢らしい。
仕方ない、俺だって誰にも話したくない悪夢くらいある。
無理に聞き出してもいいことはないだろう。
「……まぁ、話したくなけりゃ別にいいけどな」
そう言って、俺は軽く肩をすくめた。
するとマルタローは小さく鼻を鳴らし、まだ少し警戒するように身を縮めたままだった。
──こいつは昔、飼い主にいじめられ、同族からも迫害されてきた過去を持っている。
クリスといた時も、サイファーといた時も、時々こうやってうなされていた。
俺と旅をするようになって、少しは良くなったと思っていたが、またぶり返したのかもしれない。
まぁ、誰にだって悪夢くらい見るものだ。
俺だって、まだたまに見ることもある。
俺の場合は、恋人のためにもっとできることがあったと後悔することの方が多いが……。
「あなたは、本当に魔物の言葉がわかるんですね」
不意にかけられた声に、俺は顔を上げた。
視線の先には、さっきグラスオスの群れとの戦いを助けてくれた青年がいる。
名前はセリエスというらしい。
「え、えぇまぁ。全てではないですけど……」
なんだか照れ臭くなり、目を逸らしながら答える。
セリエスさんはCランクの冒険者で、このセルベリア大陸の北部にあるシュヴェルツという街からグランティスに向かう途中だったらしい。
そこで俺たちの戦闘を見かけ、加勢してくれたというわけだ。
「死んだ祖父が話していたことを思い出しますね。魔物と心を交わすことができる人族の話を……。聞くだけ聞いて、信じてはいませんでしたが……」
「まぁ、それはそうですよね。俺も師匠に教わるまでは信じてませんでしたし」
俺は軽く笑って返したが、セリエスさんは何やら複雑そうな表情を浮かべた。
ちらりとマルタローを見つめる視線には、警戒とも、興味ともつかない何かが混じっている。
「どうですか? それを見た感想は」
俺の問いに、セリエスさんは沈黙した。
マルタローもまた、じっと彼の顔を見つめたまま微動だにしない。
「……あの……?」
「……あっ、すまない……そうだな……すごい、と思うよ……」
セリエスさんの顔はどうにも作り笑顔という感じだ。
微妙な空気が流れる。
何か、変なことでも聞いてしまったのだろうか。
「わふ……」
マルタローが俺を見上げて小さく鳴く。
このまま話を続けても気まずくなりそうだし、そろそろ行くか。
「そうだな、お前も起きたことだし、出発するか?」
俺は立ち上がり、荷物を背負った。
セリエスさんも支度を整えながら、グランティスへ向かう準備をしている。
「助けてくれてありがとうございました。じゃあ、セリエスさんも気をつけて」
「……えぇ」
軽く会釈し、俺はマルタローを頭に乗せて、再び歩き出した。
だが、数歩進んだところで不意に背後からセリエスさんの声がかかる。
「フェイクラントさん」
「?」
立ち止まり、振り返ると──
セリエスさんは、どこか決意を秘めたような、重い表情をしていた。
「一つ……言っておきたいことがあります」
妙な真剣さに、俺は無意識に姿勢を正した。
その言葉の続きを、聞き逃さないように。
「そのプレーリーハウンドとは、別れた方がいい。……辛い思いをするだけです」
「!!」
──その言葉は、鋭い刃のように突き刺さった。
セリエスさんの表情には、躊躇いと、しかし揺るぎない覚悟が滲んでいた。
俺は無意識に拳を握りしめ、喉の奥が詰まるような感覚を覚える。
「……別れた方がいい?」
その一言を、俺は反芻する。
マルタローの背中が、俺の肩の上で小さく震えていた。
彼もまた、その言葉の意味を理解しているのだろう。
「このセルベリア大陸は、魔物に強い偏見を持つ人が多い。いや、この大陸だけではない。これから旅を続けていけば、さまざまな価値観を持つ人と出会うでしょう」
セリエスさんの口調は、静かで穏やかだった。
けれど、その言葉が持つ重みは、ひどく冷たく、容赦のない現実を突きつけていた。
「でも、あなたのように魔物と接し、あなたのように魔物を受け入れている人族は、少なくともこの大陸には存在しない。受け入れている人がいたとしても、それはペットと同じように飼っているものや、見世物としている者、商売の商品としている者であり──あなたのような存在ではない」
──つまり、それは。
俺が"異常"だと言いたいのだろうか。
無意識に奥歯を噛みしめる。
「……正直、私も受け入れることはできません」
セリエスさんの言葉が続く。
だが、その声には先程までとは違う、どこか苦しげな響きがあった。
「なぜなら──」
一瞬の沈黙。
そして、まるで自分に言い聞かせるように、彼は静かに口を開いた。
「私は魔物によって、身内を亡くしているからです」
「……ッ!?」
言葉が喉に詰まる。
マルタローも小さく息を呑んだ。
──なるほど。
それなら、彼が俺たちを見つめる視線に、あんな色が混じっていた理由が分かる。
それは嫌悪でも、興味でもなく。
恐れと憎しみ、そして──哀しみだったのだ。
「フェイクラントさんは、人と魔物……どちらかを選ばねばならない時、どうするんですか?」
突きつけられた問いには、答えられなかった。
どちらかを捨てることなんて、できるはずがない。
「魔物と心を交わせるということを、“特別”ではなく、“異質”であるということを覚えておいた方がいいでしょう」
その言葉が、妙に生々しく響いた。
──異質。
まるで、俺が「異物」であるかのような言い方だった。
「…………」
言い返したい気持ちもあったが、何も言えなかった。
何を言ったとしても、彼は魔物によって大切な人を失っているのだ。
俺からしたら、「クリスを殺したザミエラとも友達になれるさ」なんて言われても、絶対に受け入れられないだろう。
それと同じだ。
覆しようがない。
だから俺は、ただ深く息を吐くくらいしかできなかった。
「去り際にこんなことを言ってすみません……」
セリエスさんの声が、どこか寂しげに響く。
「ラドランは魔物に対して特に警戒心が強い……それは街の形がそう示しているかのように……」
「……わかりました。……ありがとう、ございます」
「ええ、では、気をつけて……」
それだけ言い残し、彼の姿は森の奥へと消えていった。
俺はただ、その背中を無言で見送る。
──そして、ふと、頭の上のマルタローに目を向けた。
「わふ……」
小さな震え。
マルタローはぎゅっと俺の頭皮に爪を立てた。
まるで、「ここにいる」と主張するかのように。
……バカだな。
そんなこと、言わなくたって分かってる。
「……行くか」
俺はそれ以上は何も言わずに歩き出した。
──だけど。
心の奥底で、ひっそりと何かが疼くような感覚が残っていた。