第八十九話 「置き去りの夢」 【マルタロー視点】
ボクは今、何もない場所にフェイと二人でいる。
空も地面も、何もかもがぼんやりと滲んでいて、現実感がまるでない。
まるで夢の中に迷い込んだみたいな、不思議な場所だ。
だけど、そんなことよりも。
フェイの顔が──
ボクを見下ろしているフェイの顔は、笑顔でもなく、怒っているわけでもなく。
ただ淡々と、何かを諦めたような、遠くを見つめるみたいな表情だった。
その顔は、ボクが知っている。
どこかで、何度も見てきた。
──そうだ。
それは、かつてボクを殴り、蹴りつけ、泥の中に押し込んだ人族の顔。
助けてくれると信じていた仲間たちが、ボクを群れから突き放した時の顔。
どうして、どうしてボクを見て、そんな顔をするの……?
「悪いな、マルタロー」
フェイの声は、まるで他人に言い渡す通告のように冷たかった。
ほんの少しだけ寂しそうで、それでも何かを振り切るみたいな、そんな声だった。
ボクの胸の奥に、じわりと冷たいものが広がっていく。
イヤな予感がする。
喉の奥がギュッと詰まる。
「ここでお別れだ」
「わ、わふっ!?」
自分の声が裏返る。
信じられなくて、聞き間違いだと思いたくて、でもフェイの目はもうボクを見ていない。
ボクは悪いこと、してない。
一緒にいるって、言ってくれたのに。
ずっと一緒だって、言ってくれたのに……!
フェイはボクに答えることなく、いつの間にか隣に立っている人族に目を向けていた。
その人族には、かつてボクに向けてくれていた柔らかい笑顔を浮かべている。
「人族の仲間ができたから、もうお前は必要ないんだ」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
だけど、フェイの笑顔と、その隣で微笑む人族を見て、何が起きているのかをようやく悟る。
「さぁ、次のクエストに行こう。フェイくん」
その人族はボクに向かって、まるで汚いものを見るみたいに目を細める。
足元にいるボクが邪魔だと言わんばかりに。
「マルタロー、お前と一緒にいると白い目で見られるし……色々世話をしないといけないし……」
少しずつ、ボクの体から力が抜けていく。
フェイの言葉が、全身を針で刺すみたいに痛い。
「正直、戦闘の役にもあまり立たないお前と旅を続けるのは辛いんだよ……苦痛なんだ……」
「ク……ン……」
口から漏れた声は、音にならなかった。
フェイの後ろ姿が、じわりじわりと遠ざかっていく。
追いかけなきゃ。
足を動かさなきゃ。
でも、体が重い。
前足も後ろ足も、地面に縫い止められたみたいに動かない。
──そんなはずない。
そんなこと言うフェイじゃない。
ボクと、ずっと一緒にいるって、そう言ってくれたフェイが──
『待ってよ……!』
足を引きずるように走り出す。
走っても走っても、フェイは遠ざかるばかり。
追いつけない。
どうして?
なんで?
ボク、ちゃんと戦えるようになったのに。
いっぱいフェイの役に立とうって、頑張ったのに……!!
最後にフェイが、ゆっくりと振り返る。
きっとボクを連れていってくれるって──
信じて、信じて、信じていたその瞬間。
フェイの口から、まるで氷みたいに冷たい言葉がこぼれた。
「じゃあな……モンスター」
その瞬間、世界がバラバラになった。
胸の奥で鳴る音がする。
バキバキと、ガラスが割れるような音。
ああ、ボクの心が割れたんだ。
砕けて、二度と元に戻らないくらいに、細かく細かく。
目から溢れた涙が止まらない。
勝手に声が漏れる。
鳴き声を止められない。
「わんっ!! わんっ!!」
お願い! 置いていかないで!!
ボク、ちゃんといい子にするから!!
もっと役に立つから!!
邪魔にならないから!!
だから──
「ぐるぅぁあ!! わふぅうう!!」
ボクの全身が叫ぶ。
届いて。
この声、届いて。
ボクを見て。
ボクを捨てないで。
お願いだから、捨てないで──
「わぉおおおーーん!!」
どれだけ吠えても、どれだけ涙を流しても、フェイは振り向かない。
──もう、ボクは必要ないんだ。
ボクを呼んでくれる声は、もう二度と、聞こえないんだ。
冷たい風が、ボクの涙を乾かしていく。
一緒にいたあの日々の温もりも、風にさらわれるように消えていく。
ただ冷たいだけの空気が、ボクの周りを包んでいく。
それでもボクは──
フェイを追いかけることを、やめられなかった。
ボクは、フェイの相棒だから。
たとえ捨てられても。
たとえ必要ないと言われても。
ボクの心は、まだフェイの隣にいるから。
だから……
だから──
フェイ……私を、置いていかないで。