第八十五話 「ギルド内大喧嘩」
「な……なんですかアレ……」
俺はカウンターのマスターに視線を向け、そう尋ねる。
彼は少しだけ眉をひそめ、静かに囁いた。
「知らないのか?」
俺が首を傾げると、マスターは声を潜めて続けた。
「あれはBランク冒険者のジルベールだよ」
「ジルベール……?」
俺はその名を復唱する。
Bランクともあれば、冒険者としての実力は高いのだろう。
見た目は小悪党だが。
「奴は実力だけなら本物だ。数多くの魔物を討伐し、Bランクまで上り詰めた。だが──性格に難があってな」
「……どういうことですか?」
「依頼人から法外な金をふんだくるのが常習化しているんだ。依頼料を支払えなければ、暴力で脅す。おまけに、気に入らない奴には容赦なく手を上げる」
「……なるほど」
実力は確かだが、ろくでもない悪党ってことか。
そんな奴がBランクってのもどうなんだ……。
「ジルベールに依頼を出す人間は、よほどの事情があるか、他に頼れる者がいない場合だ。だが、たまにこういう依頼人がいる……『アイツには頼みたくない』とな」
「……でも、ジルベールしか受けるやつがいなくて荒れてるってことか」
まったく、めんどくせぇな。
ギルド内の雰囲気は、徐々に張り詰めてきた。
周囲の冒険者たちも、ジルベールの動向を警戒している。
こいつの暴力沙汰は珍しくないのだろう。
「おい……いい加減にしろよ、ジルベール」
別の冒険者が、意を決したように立ち上がった。
見た感じ、ガタイの良い戦士のようだ。
彼はジルベールの肩を掴み、落ち着かせようとするが──
「チッ……ウゼェんだよ!!」
ジルベールは、それを思いっきり殴り飛ばした。
「ぐあッ……!!」
吹き飛ばされた冒険者は、カウンターに激突し、そのままうめき声を上げる。
その瞬間、ギルド内の空気が一気に凍りついた。
「……は?」
さすがに、俺も驚いた。
もはやガチの喧嘩だ。
ジルベールは手をぶんぶんと振り回しながら、荒々しく吠える。
「なぁ……俺じゃなんか不満でもあるってのか? 聞かせてもらおーじゃねェか」
ジルベールがギラついた目を向け、依頼人のおっさんに詰め寄る。
おっさんは尻もちをつきながら、怯えたように後退していく。
「ひっ、なぁあんた……助けてくれ!」
「え、えぇ〜。俺!? あんまり巻き込まれたくないんだけど……」
気がつくと、おっさんは俺の足元まで下がってきて、必死に俺の服にしがみついてきた。
おいおい、俺を盾にするんじゃねぇよ……。
なんで巻き込むねん。
そんな俺の戸惑いをよそに、ジルベールはゆっくりとこちらへ歩み寄ってきており、ジロリと俺を見据える。
「なんだテメェは……正義のヒーローでも気取ってるつもりかヨ?」
「え? は? いやなんでこの流れでそうなるんだよ」
「うるせぇ! 生意気なツラがムカつくんだよ!!」
おいおいマジかよコイツ。
俺は何もしてないんだが?
ジルベールは勝手に興奮し、腰の剣に手をかける。
なんで顔だけで喧嘩を売られなきゃならねぇんだと思いながら、とりあえず臨戦態勢を取ろうと構える。
その瞬間──
──バシャァッ!!
突然、酒瓶がジルベールの横っ面に命中した。
衝撃で瓶は砕け、ジルベールの顔は酒でずぶ濡れになる。
彼は一瞬、何が起こったのか理解できないような表情を浮かべた。
「うるひゃいのはアンラらよ……」
気怠そうな声が響く。
ジルベールが顔を向けた先には、ピンク色の髪をした女性がいた。
胸元の開いた露出の高い服にコートを羽織り、頭には三角帽を被っている。
「テメェ……ミランダ……」
ジルベールが低く唸る。
酒の飲み過ぎなのか、ミランダと呼ばれた女の顔は真っ赤で、目が座っていた。
「ここはアンラらみたいな奴が来るとこじゃらいろよ……。ここは酒と踊りを楽しむ場所らってのにぃ……」
女性の中でもかなり美しい容姿を持っているように見えるが、完全にベロベロなせいでそれが薄れている。
ミランダの両脇には、これまた柄の悪そうな男と、比較的まともそうなイケメンの二人が立っていた。
どうやらミランダの仲間らしい。
「楽しむだ? じゃあテメェが投げたコレはなんだ!?」
「……アンタにくれてやったろよ……ちゃあんと、床にこぼれたのも舐めて帰りらよ……ワンちゃん」
その言葉は、ジルベールの頭のネジを外すのには十分すぎる一言だった。
彼の顔は真っ赤に染まり、取り巻き達もついに武器を構え始める。
そして一人が指笛を鳴らすと、さらに五人ほどの仲間が加わった。
「ぶっ殺してやる……!! そもそも、前からオメェら一派は気に入らなかったんだ!!」
俺は怒涛の展開に硬直することしかできなかった。
ミランダの取り巻き二人もまた、ぶつぶつ文句を言いながらも、どこか慣れた様子で臨戦態勢を取る。
「……姉さん……暴れたらまたリーダーに……」
「はぁ……」
「いいろよ……何時間も待たせるアイツが悪いんらから」
そして──
「「「うおおおおお!!」」」
ミランダ側三人組 vs ジルベール側八人組の大喧嘩が勃発した。
ジルベールの取り巻きの一人が先陣を切り、ミランダに向かって突撃する。
しかし、ミランダはふらふらとしながらも、その動きを軽く躱し──
「おっそいわねぇ……」
ぐるりと回転しながら相手の顔面に強烈な蹴りを叩き込む。
「ぐぼぉッ!!」
男は椅子ごと吹っ飛び、そのままカウンターに激突した。
その瞬間、酒場は完全な戦場と化した。
ギルドの受付嬢も、踊っていた女性たちも、酒場のスタッフも、悲鳴を上げながら逃げていく。
「ちょ……姉さん、店を破壊するのはまずいって……!」
「あーしは当たってらいのよ、アイツらがあっちに吹き飛んだだけでしょ〜……」
ミランダは、酔っ払いながらも優雅に身を翻す。
それに対し、ジルベールの仲間たちは怒号を上げながら武器を振り回し、ギルド内はめちゃくちゃな乱闘状態に突入してしまった。
俺は、酒瓶の破片が飛び交う中で一歩下がり、呆然とその様子を見ていた。
背後のカウンターでは既にマスターも頭を抱えながら床に這いつくばっている。
「……は?」
やばい、完全に逃げ遅れた。
ジルベールの取り巻きたちは怒号を上げ、武器を振り回し、ミランダ側の三人もまるで舞うように応戦している。
ギルド酒場はもはや戦場と化し、木のテーブルや椅子が無惨に砕け散る。
酒瓶が割れる音が鳴り響き、空気にはアルコールと火薬のような焦げ臭さが漂い始めていた。
「──『火球』!!」
ジルベールの手下の一人が、詠唱を終えた瞬間、鮮やかな赤い魔力が手元に集まり、灼熱の塊が弾けるように放たれる。
「うおらぁぁああッ!!」
しかし、ミランダの隣にいたマッチョの男が両腕をぶん回し、まるでバットのように巨大な棍棒を構えると──
──ゴォンッ!!
火球を豪快に打ち返した。
「なっ……!?」
「燃えボールは危ねぇだろォが!!」
打ち返された火球は、発射主の魔術師にそのまま直撃し、派手な爆発を巻き起こす。
火花と煙が舞い散る中、魔術師はのたうち回りながら転げまわった。
その様子を見ながら、ミランダは楽しげに笑う。
「あはっ! いいわねぇ! 目ェ醒めてきた!!」
彼女の目がギラリと輝く。
最初の酔いが嘘のように、その動きにはキレがあった。
もしかしたら元々こういう戦闘狂の気質なのかもしれない。
ジルベールの手下たちは、数の上では優勢だったはずだ。
だが、ミランダたちは人数差を感じさせないほどの動きで押していた。
特にミランダに至っては、まるで踊るように敵を蹴散らしている。
と、そんな中──
「うわっ!?」
俺のすぐそばに、一人のジルベールの部下が吹っ飛んできた。
反射的に椅子から転げ落ち、床に転がりながら回避する。
「ちょ、ちょっと待て! 俺は関係ないぞ!?」
「うるせぇ、さっきお頭に目ぇつけられただろうが!!」
相手は鼻血を垂らしながらも、すぐさま立ち上がり、俺に向かって剣を振り上げる。
いや、なんで?
──こっちに喧嘩売られる理由、何もねぇんだけど!??
「……意味わかんねー」
俺は床に座り込んだまま、瞬時に判断を下す。
相手の剣が振り下ろされる直前、俺は身体をひねりながら片脚を大きく薙ぎ払う。
「よっ!!」
「──ッ!!?」
敵の膝裏に的確に蹴りを叩き込み、バランスを崩させる。
よろめいたところを見計らい、俺は勢いをつけて回転しながら──
「ハロルド直伝……『回し蹴り』ッ!!」
──ドカァッ!!
俺の蹴りが相手の顎を直撃。
鈍い音と共に、敵は文字通り吹っ飛び、テーブルを巻き込みながら盛大に倒れ込んだ。
「うっし」
俺はガッツポーズを決める。
──ふっ、伊達に囚人船で日々鍛えてたわけじゃねぇんだよ。
「ヒュー」
「ん?」
俺の戦いぶりを見ていたのか、ミランダさんとやらがいつの間にか俺の隣に立っていた。
目を輝かせながら、俺を値踏みするように見ている。
「やるじゃないの、お兄さん」
「えっ、お兄さん!?」
俺も頬は思わず赤くなってしまう。
この世界に来てから、そんな呼ばれ方をしたのは初めてだった。
ちょっと嬉しい。
……が、ミランダの口調はさっきまでとは違っていた。
完全に酒が抜けて、戦いの興奮でスイッチが入った感じだ。
「その調子でガンガンやって──」
「うおおおおお!!」
ミランダが言い切る前に、彼女の背後からジルベール組の一人が棍棒を振り下ろす。
しかし、彼女は振り返りもせずに、ただ軽く腕を振るった。
──ゴシャァッ!!
裏拳が見事に相手の顔面へとクリーンヒット。
棍棒を構えた男は、まるで木の葉のように吹き飛び、そのまま床に叩きつけられた。
「……おお、すげぇ」
見た感じミランダはスレンダーだ。
それが大男を吹き飛ばすとなると、やはり魂のレベルが違うのだろう。
思わず感嘆の声が漏れる。
しかも、それだけでは終わらない。
床に叩きつけられた衝撃で宙に舞い上がった重そうな棍棒を、ミランダは何気なく片手でキャッチする。
そのままクルクルと軽々と回しながら、俺に向き直った。
「どう? おにーさん」
彼女は妖艶に笑いながら、俺の顔を覗き込む。
「……あたしらと一緒に海賊やんない?」
「はい……?」
「……わふ?」
俺の脳は処理落ちした。
ついでにフードにいたマルタローも多分処理落ちした。