第八十三話 「ならず者の船を降りて」
俺が『囚人船』に誤乗してから、十ヶ月が経った。
「あぁ〜」
「わふぅ〜」
「久しぶりの地上でのコーヒーは格別だな」
「……わふ?」
暖かいコーヒーを飲みながら、俺は十ヶ月間の船乗り生活での弊害で伸び切ってしまった無精髭を指で撫でる。
船の上では身だしなみに気を遣う必要もなかったから髪も髭もボサボサで、常に潮風に当たっていたせいで、肌もボロボロだ。
周りは囚人ばかりだったので気にならなかったが、今や俺もならず者にしか見えないだろう。
全身もふもふだったマルタローも、すっかり潮風でギトギトのならず犬である。
野生と言われても遜色ないくらいのワイルドさが滲み出ている。
時々舌で毛並みを整えようとしているが、コイツはグルーミングが下手すぎてあまり効果は出ていない。
現在俺は、西の大陸・セルベリアにある港町『グランティス』にいる。
グランティスは西の大陸でもかなり南に位置しており、南の大陸・アステリアはもはや目と鼻の先だ。
……あくまで船で向かえればの話なのだが。
「さて……」
コーヒーを飲み終え、俺は港を見渡した。
潮風の香りが鼻をくすぐるが、俺の髪や髭には既にしみついているので新鮮味はない。
長い囚人船生活を経て、俺はもはや 「海に愛された男」 というより 「海に疲れ果てた男」 になってしまった。
港には、一隻の巨大な船が停泊している。
そう、俺が十ヶ月間も汗水垂らしながら働かされた囚人船 だ。
船の甲板では、全国のならず者どもが、今日も変わらず肉体労働に精を出している。
「よし!! 一旦休憩だ!!」
「おおぉおおおッ!!」
ハロルドの笑い声や、バッカスの豪快な指示が港に響き渡る。
それは、俺がもう関わらなくてもいい世界の音だった。
「よぉ、フェイ! 久しぶりの地上での飯は美味かったか?」
休憩になるやいなや、聞き慣れたハロルドの陽気な声が俺に向けられる。
もはやベテラン船乗りと化した元小悪党三人組が、俺に駆け寄ってくる。
「まぁな。悪いな、俺だけ先に抜けさせてもらって」
そう言うと、バッカスは豪快に笑った。
「ガハハ! 気にすんな! 元々オメェは囚人じゃなかったんだからよ!!」
「まぁ、それはそうなんだけどな」
その言葉に、隣にいたアビゲイルがふふん、と鼻を鳴らす。
「……残念ね。せっかく仲良くなれたのに」
アビゲイルは不敵な笑みを浮かべながら、肩をすくめる。
かつて俺が敵対していた誘拐団の一員だったが、今や何とも言えない 「腐れ縁の仲間」 のような存在になってしまった。
別れを惜しみながらも、俺はちらりと港の様子を窺う。
この船以外、まともに稼働している船が一隻もない。
「……ここも、やられちまったようだな」
「あぁ……デカい港はどこもそうらしいぜ」
ハロルドがぼそっと呟く。
アステリアが戦争に突入したからなのかは不明だが、世界中で魔物が活性化し、船が襲われるケースが増えているらしい。
噂では、各国の主要な海路はことごとく封鎖され、まともに交易すらできていない状況だという。
「けどまぁ、心配すんなって! 俺たちの船には元冒険者だった囚人もたくさんいるし、何度も海の魔物を退けてきただろ!?」
ハロルドが自信満々に言う。
まぁ、確かに囚人船とはいえ、こいつらは腐っても戦闘経験豊富な連中だ。
数ヶ月前にも、巨大な海竜と遭遇しながらもなんとか撃退したこともあった。
まぁ、ほとんどは船長の力技だったんだが……。
「おうとも! この船が沈むなんてことは、俺の『魔人斬り』が外れるくらい有り得ないことよ!!」
「…………結構確率高いわね……」
バッカスが拳をドンと叩きつけるようにして笑い、アビゲイルが呆れたようにため息をつく。
「それで、何かアテはあるのかよ?」
ハロルドが俺の顔を覗き込んでくる。
確かに、アステリアへの道は断たれ、今の状況は詰みのように見える。
だが、俺にはまだアテがないわけじゃない。
エミルが囚われてしまった以上、俺の『予知』とも言えるアドバンテージはほぼ失われた。
けれど、『どこの街にどんな重要キャラクターがいるか』、『どんなイベントがあったか』などの情報は覚えている。
俺がエミルとしてこの大陸を訪れた時、確かにここにもイベントがあったはずだ。
──なら、そこを狙うしかない。
俺はアビゲイルに作ってもらった地図を広げる。
「あぁ、港町グランティスを抜けて、次はこの《ラドラン》に行くつもりだ」
「ラドラン? あそこは結構封鎖的なイメージだが……」
「まぁ、ちょっと気になるとこがあってな。詳細は言えないが……」
「へぇ……ま、何をするかは知らねぇけど、頑張れよ」
アビゲイルはニヤリと笑いながら、俺の肩を軽く叩いた。
「まったく、アンタって意外としぶとい性格してるのね。てっきり、囚人船に一生幽閉されるんじゃないかと思ってたのに」
「んなわけあるか」
「わかんないわよ? そのヒゲと潮臭さじゃ、普通の社会には戻れないかもねぇ?」
「ぐっ……」
アビゲイルに言われ、俺は思わず無精髭を撫でる。
……たしかに、このままじゃならず者以外の何者でもない。
今日の宿を見つけて、剃らないとな。
「わふ!!」
「ガハハ! お前も優秀な船乗りだったぜ! マル吉ィ!」
「船でまた会うことがあったら、その時は酒でも奢れよ」
バッカスのデカい手がマルタローを優しく撫で、ハロルドが俺の肩をどんっと叩く。
まるで長年の船乗り仲間のような、そんな別れの挨拶だった。
「……あぁ。またな」
俺は荷物を担ぎ直し、港を後にする。
海の男たちの歓声が背中に遠のいていく。
振り返ることなく、俺はグランディスの繁華街を目指して歩き出した。
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港を抜け、俺はグランディスの繁華街へと歩き出した。
グランディスは西の大陸・セルベリアの南部に位置するだけあって、暖かい風が心地いい。
石畳の道が広がり、道の両脇には活気ある市場や露店がずらりと並んでいる。
行商人たちが威勢のいい声で商品を売り込み、観光客や地元の住民たちが楽しそうに買い物をしている。
焼き魚やスパイスの香りが漂い、船の上の塩気ばかりの食事とは違う、豊かな食文化を感じさせる。
しかし今はまず、まともに休める場所を確保するのが先だ。
俺はギトタローを頭に乗せ、道の向こうに見えた宿屋を目指すことにした。
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『金の入り江亭』と書かれた宿屋の扉を開けると、ほのかに木の香りが漂う落ち着いた空間が広がっていた。
海沿いの町だけあって、壁には舵輪や海図が飾られ、海の男たちが集う雰囲気がある。
カウンターの奥には、恰幅のいい女将が腕を組み、旅人たちのやりとりを見守っている。
中央には大きな暖炉があり、その周りでは数人の旅人や商人がくつろいでいた。
囚人船で過ごした荒くれ者たちとは違い、落ち着いた雰囲気にほっとする。
「いらっしゃい、旅のお方。一泊かい?」
「ああ、風呂も使えるか?」
「もちろんさ、旅人に疲れを癒してもらうのが宿の役目だからね」
女将がにっこり笑いながら宿帳を差し出す。
俺は料金を支払い、部屋の鍵を受け取ると、真っ先に風呂場へ向かった。
湯に浸かり、長い船旅の疲れを洗い流した俺は、ようやく宿の部屋へと入った。
木造の簡素な部屋だが、清潔なベッドが一つ。
船の硬い床やロープの上で寝ていた身としては、これだけで最高級の寝床だ。
「ふぅーーー!!」
俺はベッドにダイブし、腕を大きく広げる。
ふかふかの布団が全身を包み込む感覚に、思わず声が漏れた。
「あーーー。久しぶりに地面の上で寝れるぜ……」
「わふぅ〜〜」
マルタローも俺の横に転がり込み、まるで同意するように鳴いた。
ふかふかの毛並みが、布団の上でゴロゴロと転がる。
潮風でギトギトになった毛をようやく洗えたおかげで、以前のもふもふ感も取り戻しつつある。
長い間、揺れる船の上で寝るのが当たり前だったせいか、ベッドの静かな感触がやけに新鮮に思える。
波の音ではなく、遠くから聞こえる街の喧騒と、暖炉の薪が爆ぜる音が心地いい。
俺は布団の中でぼんやりと明日のことを考える。
明日はまず、この街で装備やら消耗品やらを買い揃えないとな。
船旅の間、満足に買い物もできなかったし、道中のことも考えると最低限の準備は必要だ。
女神の剣やアステリアのことも気になる。
ヴァレリスで戦争が起こることは知っていたが、まさかアステリアでも起こっていたとは……。
いや、当然か。
大魔王を復活させるフェイズに入ったということは、魔族側が大胆に動き始めてもおかしくない。
もう、ベルギスはアステリアに帰っているのだろうか?
だとしたら、彼も戦争に巻き込まれているはずだ……。
「……明日から、また動き出すか」
そんなことを考えながら、俺は深く息を吐き、静かに目を閉じた。
アステリアへの海路が絶たれた今、考えても仕方ない。
心配事も多いが、俺は久しぶりのベッドの柔らかさに包まれながら、心地よい眠りに落ちていくのだった。