第七十七話 「大魔王の掌の上」
「────ッ!! ハァッ……ハァッ……!!」
荒い息遣いをしながら、俺は勢いよく身体を起こした。
意識が戻った瞬間、全身を包むのは異常なほどの発汗と倦怠感、そして──"恐怖"。
「……クソッ……!!」
心臓がバクバクと鳴り響く。
喉がひりつき、口の中が異様に乾いている。
寝汗でベッドのシーツはぐしょ濡れになっていた。
熱があるわけじゃない。
だが、尋常じゃないほどの疲労感が身体を覆っていた。
──夢だったのか。
否、あれがただの夢で済むものか。
俺は、確かに "大魔王オルドジェセル"と対峙していた。
彼の言葉、彼の視線、彼の圧倒的な力──すべてが脳裏にこびりついて離れない。
「……ッ……」
俺はガクガクと震える手で、額の汗を拭った。
「わふ……?」
隣で眠っていたマルタローが小さく鳴く。
どうやら俺の異常な様子を察しているらしい。
「悪い……起こしたか……?」
俺がそっと頭を撫でると、マルタローはクンクンと鼻を鳴らし、俺の腕にちょこんと顎を乗せてきた。
暖かい。
こいつのぬくもりが、ほんの少しだけ俺を"現実"へと引き戻してくれる。
それでも、全身の震えは止まらなかった。
呼吸を整え、周囲を見回す。
──ここは、王都の宿。
天井の装飾、窓の向こうに見える王都の街並み。
俺は確かに"現実"へ戻ってきたはずだ。
────現実?
いや、それすらも疑わしい。
ゲーム画面に吸い込まれたあの日から、ここが異世界という場所なのは分かる。
始めは「憧れの異世界に来れた」などと馬鹿みたいに喜んでいたが、状況が一変した。
《俺は、あの恐ろしい大魔王の掌の上で踊らされている役者に過ぎない》
その考えが脳裏をよぎった瞬間、強烈な吐き気が込み上げてきた。
「……ッ、ぐっ……!!」
立ち上がり、ふらつく足取りで部屋の隅にある洗面台へ駆け込む。
蛇口を全開にして水を流し、狂ったように顔を洗った。
冷たい水が皮膚を叩き、少しだけ意識がはっきりする。
「ッ、はぁ……ッ、はぁ……!!」
鏡を見る。
濡れた髪が顔に張り付いている。
目の下には深い隈が浮かび、血の気が引いて死人みたいな顔になっていた。
落ち着け。
整理しろ。
オルドジェセルが最後に語りかけた話。
その内容に、俺は最初に見た"どこかの浜辺"を思い出す。
時が止まったような早朝の浜辺で見た、長いベージュの髪を揺蕩わせていた少女。
夢の中では反応できなかったが──彼女はあろうことか、信じられないほどにクリスと似ていた。
いや、表情や落ち着いた透明感などは、ツンデレのクリスとは少し違うかもしれないが。
それでも、姿そのものはほぼほぼ一致しているように感じた。
「……断頭台の姫君……」
オルドジェセルは、彼女をそう呼んでいた。
確かに彼女は処刑される寸前だったが、俺が見た光景はその直前で終わった。
──彼女は一体誰だったんだ?
オルドジェセルは千年前にアルティアと戦い、敗北し、封印された存在のはずだ。
つまり、あの処刑の光景は"千年前の出来事"だったというのか?
「ワケがわかんねぇよ……」
俺はフラつく身体を支えながら、椅子へと座り込む。
肘を立て、手を額に押し当てる。
そして、大魔王の言葉。
アイツの言っていることが本当なら、「アルティア・クロニクル」というゲームの制作者は、地球には存在しない。
何かしらの方法で、アイツ自身がこの世界の"一部始終"をゲームという形にし、別世界──つまり俺のいる地球に流していたのだ。
なぜ、「一部始終」という表現なのか。
それについては、直感的に気づいてしまったからだ。
オルドジェセルは、"幾度となく繰り返した世界"で、"見たことのない結末"と口走っていた。
その言葉から察するに、
──この世界は、恐らく"ループ"している……のかもしれない。
頭の悪い俺でも、なんとなく気づいてしまう。
それに、その理論であれば、あの空間で俺が感じ続けていた"デジャヴ"にも納得がいく。
アイツと対峙しているだけで、フェイクラントに"無いはず"の過去の情景が浮かび上がり続けたのも、それが理由だろう。
この世界が繰り返されているのなら、"フェイクラント"という存在もまた、幾度も繰り返されていたことになるから。
そして、そのデジャヴは現在感じていない。
オルドジェセルと対峙した時にのみ開示されたかのような、奇妙な感覚。
何かの能力とでもいうのだろうか。
無数のフェイクラントの人生を凝縮したかのように見せつけられるような感覚は、もはや脳が張り裂けそうだった。
今は感じない、ということは、繰り返されるたびに、人の記憶ごとリセットされているタイプのものだろうか。
考えれば考えるほど、頭が痛い。
ただ一つ思うのは──俺がゲームをクリアする寸前にもループが起きた可能性がある。
ゲームがチュートリアルに戻ったことを思い出す。
そして、俺はその時間軸に転生した。
オルドジェセルは「運命を変えたい」と言っていた。
つまり、俺がエミルを操作して"普通に攻略"し、大魔王を倒す結末は、アイツにとって"気に入らない"結末だったということだ。
じゃあ、俺はどうすればいい?
俺はてっきりエミルが勇者に覚醒し、ゲームと同じように大魔王を倒せれば、この物語は終わるものだと勝手に思っていた。
自己満足かもしれないが、俺は俺でエミルができない範囲──ベルギスやミーユの救出などを、できる範囲で動ければそれで何かの足しにでもなると勝手に思っていた。
だが、恐らくそれだけではダメだろう。
大魔王にとって、それは"茶番"の続きに過ぎない。
このままいけば、またラスボス戦前にループさせられ、今度はどこまで戻るかもわからない。
俺として巻き戻るのか、フェイクラントとして巻き戻るのかも未知数だ。
「くそッ……!!」
力任せにテーブルを殴りつける。
そして、大魔王が俺に対して言っていた気になる一言。
あれが何を意味するのかはわからないが、あの時感じたデジャヴの嵐。
俺とフェイクラントは、"大魔王と────"
──ドンドンドンっ!!
「フェイ!! 朝よ!! 早く起きなさい!!」
扉を激しくノックする音が鳴り響く。
「うるせぇな……」
そう言いながら、俺は深く息を吐いた。
マルタローがベッドの上でのびをしながら、小さく「わふ」と鳴く。
心拍数はまだ少し早い気がするが、さっきまでの動悸や震えはだいぶ収まっていた。
……まるで、悪夢から覚めた後のような感覚。
整理しようとするたび、頭の奥がじんじんと痛む。
けれど、今すぐに答えが出るわけじゃない。
──だったら、今はそれを考えるのをやめるべきだ。
「……仕方ねぇな。今行くよ!」
心を落ち着けて、俺はゆっくりと立ち上がった。
この部屋の扉を開ければ、きっと昨日と何ら変わらない元気なミーユとベルギスがいる。
あの夢が無ければ、ただの騒音なノック音すらも、今の俺には安心感さえ覚える心地よいものだ。
俺は擦り寄ってきたマルタローを抱え上げ、ドアのノブをひねった。