第七十三話 「旅の疲れは最高のベッドで」
俺の知識はゲームの筋書きに基づいている。
だが、現実はそう簡単じゃない。
ルートはすでに逸れ、正史にはなかったベルギスの生存。
ミーユの立場の変化。
王妃カーライエンがこうして無傷でやり過ごしているのはそのままだが、ヴァレリスの政権自体に大きな変更は今のところない。
ここから先は、俺の知識じゃどうにもならない。
そんな当たり前のことに、今さらながら歯噛みする。
攻略本通りに動いて勝てるほど、現実は甘くない。
とはいえ、今は考えても仕方ない。
王妃が今後どう動くかわからない以上、ミーユの安全を確保するのが最優先だ。
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夜の王都は静かだった。
屋敷の窓から漏れる灯り、街灯のかすかな明かりが、石畳の路地をぼんやりと照らしている。
街を歩く人影はまばらで、時折、夜警の兵士の鎧がカチャリと鳴る音だけが響く。
「どこに行くんだ? ベルギス」
王城の重厚な門を出た俺は、ベルギスに問いかけた。
正直、てっきり今夜は城の中で豪華な食事を振る舞われ、ふかふかのベッドで寝れるかもしれないと淡い期待を抱いていた。
だが、彼とミーユは迷うことなく城を後にした。
「王都にある宿へ向かおうと思っています。もう、城の者の誰が敵かわかりませんから」
ベルギスはそう言いながらも、警戒を解いていない。
彼の視線は常に周囲を見渡し、背後にも気を配っている。
その隣で、ミーユは城を出る際に着てきたフードを深く被り、できるだけ目立たないようにしていた。
「……ああ」
それもそうか。
デカードが捕まり、魔族の脅威は去ったとはいえ、問題はそれだけじゃない。
カーライエン王妃が動いている以上、城の中が安全とは言えない。
むしろ、敵がすぐ隣にいる城内の方がよっぽど危険だ。
「お母様がどこまで手を回しているのかもわからない。まだ私の暗殺を考えている可能性もあるわ……」
ミーユの言葉は冷静だった。
いや……冷静に見えて、彼女の指先は微かに震えていた。
無理もない。
血は繋がってないとは言え、母親に命を狙われているのだ。
俺がもし彼女の立場なら、どれほど悲しいことか。
「じゃあ、王様も危ないんじゃないか?」
俺はふと、別の疑問が浮かんだ。
「結局、あの王妃の目的は権力なんだろう? じゃあ、王も暗殺の標的にされるかもしれない」
カーライエンの目的は "ミーユの排除"だけでなく"完全な実権掌握" だ。
ってことは、夫であるデュケイロス王すら邪魔なのだろう。
ならば、王も狙われてもおかしくないハズだが──
「恐らく……それはありません」
ベルギスははっきりとした口調で否定した。
「今、王が殺されれば明らかに怪しまれる。しかも、デュケイロス王は病に倒れているとはいえ、全盛期の王はSランク冒険者に匹敵する実力者でしたので」
「……マジかよ」
俺は思わず目を見開く。
ヴァレリス王がかつてSランク冒険者級だったなんて、ゲームでは一言も触れられていなかった。
「今でも気配を察知するくらいは容易いでしょう。たとえ暗殺者が近づこうとしても、気づかれる可能性が高い」
「なるほど……もし暗殺者がバレたら、そいつが捕まって王妃が疑われるってわけか」
「王妃もそこまで愚かではないでしょう。今の段階で王を排除するのは危険すぎる」
「まぁ、それならまだ大丈夫か……」
正直、カーライエンのことだから「そんな理屈は通じません!」とか言い出しそうな気もするが、
今のところは "王はまだ無事" という認識でいいのかもしれない。
ゲームでもミーユが拐われた後、再びヴァレリスに戻っても王が殺されたという情報はなかったな。
確か"病で死んだ"という感じだったハズだ。
カーライエンはわざわざ王を殺さなくとも、勝てると踏んでいるのかもしれない。
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王城の門を出て数十分。
王都の中心部に位置する大通りを抜け、俺たちはある宿の前に立っていた。
「……えっと、ここに泊まるのか?」
目の前にそびえるのは、明らかに一般の宿とは一線を画す建物だった。
装飾の施された石造りの外壁。
入り口には豪華なシャンデリアがぶら下がり、門番までいる。
「このあたりでは、ここが一番安全でしょう」
「そうね」
ベルギスが淡々と言う。
ミーユも納得した様子で頷いている。
……まあ、それはそうかもしれないが……。
王城から逃れてきたとはいえ、所詮は"王女"だ。
安宿に泊まるわけにはいかない。
それに、ここならそれなりの護衛もいるはずだし、不審な客はすぐに排除されるだろう。
いやしかし、こんな豪華な宿に泊まれるのは正直ワクワクする。
プレーリーではソファ生活、サイファーのとこでは檻の中、船の中も寝心地はよくなく、ヴァレリスの初日も檻の中だった。
ちゃんとしたベッドで寝られるのは、何日ぶりだろうか。
「っていうか、俺、金持ってないんだけど……」
「何言ってるのよ。当然、私が払うわ。助けられた恩もあるし、護衛はベルギス一人いれば大丈夫でしょうし、フェイは好きにしてていいわ」
「え……いいのか? ベルギス」
「もちろんです。そもそも、フェイクラントさんは部外者ですし、ここはしっかり羽を伸ばしてください」
おお。
いいのか、そんなこと。
ま、まぁ俺も成り行きでついて来ただけだし、てっきりミーユの護衛みたいな感じだったけど、そう言ってくれるなら、この王女と王子(仮)のご好意に甘えようじゃないか。
暖炉の火が暖かいロビー、ふかふかのベッド、フルコースの食事。
ふ、きたか。
ついにこの異世界にて初のご褒美タイムが……。
俺たちはエントランスに足を踏み入れた。
しかし──
「お客様、申し訳ありませんが……魔物の持ち込みは禁止となっております」
従業員のひとりが俺の前に立ちはだかり、そう注意する。
「……あ?」
何のことかと思いきや──
そういえば、俺の頭の上にはマルタローがくつろいでいるのだった。
おかげで最近の俺の髪型は白いアフロだ。
「わふ?」
「大変申し訳ありませんが、当宿では衛生管理の観点から──」
「ちょっと待ってくれ、こいつはただの魔物じゃなくて──」
「わふっ!」
俺の弁明を遮るように、マルタローが俺の手元に降りてきて、さらに胸元で丸まる。
『このご主人がいないとボクはどうしたら』みたいな顔をしている。
……お前、わざとやってるだろ。
宿の従業員は申し訳なさそうに、しかし毅然とした態度で続ける。
「大変申し訳ありませんが、規則で決まっておりますので……」
「えと……どうしよ?」
俺がどう説得しようかとベルギスに助けを求めようとした、その時──
「……彼は、私の客よ」
ミーユが静かに言葉を発した。
受付にいたスタッフが一瞬ピクリと肩を震わせ、ミーユの方を見やる。
フードを深く被っていたミーユは、その手元で何か小さなサインのようなものを送った。
それを見たスタッフたちは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに目線を交わし合い、静かに頷く。
「……失礼いたしました。どうぞ、お入りください」
先ほどまでの厳格な態度が嘘のように、従業員たちは慌てて通路を開けた。
俺は驚いてミーユの方を振り向くが、彼女は何事もなかったかのように前を向いて歩き出していた。
……今のなんだったんだ?
受付で何かをささやいたのか、それとも"ヴァレリス王女"であることを示す何かを見せたのか。
ちょっと距離があって見えなかったが、どちらにせよ俺たちは何事もなかったかのように宿へと通された。
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部屋はそれぞれ分かれることになった。
俺とマルタローの部屋。 ミーユの部屋。 ベルギスの部屋。
……と言っても、ベルギスは基本的にミーユの部屋の前に立っているらしい。
自らの弟を失った上、体も完全に回復しているわけではないのに、それでも護衛を続けるつもりなのか。
ベルギスの強靭な精神力あってのものか……。
俺なら耐えられる自信がない。
さて、現在俺とマルタローの目の前に広がるのは──
「おお……!」
俺は思わず息を呑んだ。
目の前には、異世界転生した者としては夢にまで見た"最高級の宿泊施設"。
広々とした室内には、ふかふかのカーペットが敷かれ、壁には繊細な装飾が施された調度品が並んでいる。
暖炉にはほのかな炎が揺らめき、部屋全体に心地よい温もりを与えている。
そして──
「このベッド、デカすぎないか?」
部屋の中央には、見るからに高級なベッドが鎮座していた。
フカフカの羽毛布団、シルクのシーツ、柔らかそうな枕。
……まるで貴族の部屋と言われても納得できる。
「わふ……」
マルタローも興味津々でベッドに前足を乗せ、クンクンと匂いを嗅ぐ。
そして、まるで吸い寄せられるように──
「わふぅ!!」
勢いよく飛び乗った。
そのまま転がるようにクッションに埋もれるマルタロー。
正直、俺も飛び乗りたい。だが──
俺は自分の頬をぺちぺち叩く。
「ふ……マルタローは子供だなぁ」
「わふ?」
「いいか? ベッドってのはこうやって──うぇぇぇええええいッッ!!」
俺はただ欲望に忠実に、マルタローに続いてベッドに飛び乗った。
「わふっ!!」
俺の体重でベッドがボヨンと跳ねる。
その衝撃でマルタローの体が浮き上がった。
「……うおっ! すげぇえええ!!」
「わふぅうううう!!」
沈み込むような感触。
柔らかい羽毛布団が全身を包み込み、今までの疲れが一気に吹き飛ぶ。
長旅の疲れ、戦闘の緊張、あらゆるものがこのベッドのフカフカさに飲み込まれていく。
何より、今までの寝床環境を思い返せば、まさに天と地の差。
「あぁぁぁ……最高だ」
ぼそっと呟くと、マルタローがピョコンと顔を出し、俺の腹の上に乗る。
「わふ」
「だよな……お前も最高だって言ってるんだろ……?」
「わふぅ……」
しばらく至福の時を過ごしていたが、ふと天井を見つめながら考える。
──このまま、ずっとこうしていたい。
だが、それは叶わない願いだ。
これから、俺はどうするべきか。
ベルギスを救う。
その後のことは、考えてなかった。
今や、ゲームの正史から逸脱し、もはやこの世界がどこへ向かうのか、俺にはまるでわからなくなってきた。
今のところ、ヴァレリス国内はまだ大きな混乱は起きていないが、それもいつまで持つか……。
「……まぁ、今はいいか」
考えても仕方ないことをグルグル考えたって、答えは出ない。
今の俺にできるのは、明日に備えて身体を休めることだけだ。
俺はマルタローを抱え直し、目を閉じた。
「……おやすみ、マルタロー」
「わふ……」
静かな夜。
暖かいベッド。
窓の外に広がる王都の灯り。
──今夜くらいは、ゆっくり眠れそうだ。