第六十六話 「最強へのお膳立て」
遺跡の崩れた壁の隙間から覗き込む。
内部では二体の巨大なオーガが、抵抗する力を失ったベルギスを徹底的に蹂躙していた。
拳や蹴りが、容赦なく彼の身体を叩きつけ、床が何度も震える。
ベルギスは無理やり立ち上がろうとしてはいるが、オーガの猛攻の前に、ついに崩れ落ちて動かなくなってしまった。
「くそ……」
目の前の光景に、怒りが胸の奥から沸き上がる。
だが、今の俺がここで飛び出したところで、何も変えられない。
ザミエラ……あいつはプレーリーの村を壊滅させた張本人。
そして……クリスすらも殺した……。
そのザミエラが、今目の前にいる。
正直、恐怖で足がすくむ。
対峙した時の感覚が鮮明に蘇り、全身の毛穴が開いたような冷や汗が背中を伝う。
ある程度強くなったとは言え、俺が勝てるイメージは沸かない。
本来ならこの場面になる前にルートを変えたかったのだが、今はもう手遅れだ。
この状況から自分ができることを考えなければ。
「わぅ……!」
隣を見ると、マルタローも低く唸り声を上げていた。
牙をむき出しにし、怒りを滲ませた目がザミエラを睨んでいる。
俺の相棒も、俺と同じようにあの女を憎んでいるのだ。
だが、冷静にならななければならない。
まずベルギスを自由に戦わせるためには、エミルとミーユの解放が不可欠。
二人を縛る影は、一見すると強力な魔術にも見えるが……俺の神威なら斬れるかもしれない。
特訓で斬った岩よりは、いくらか斬りやすそうだ。
問題は──どうやって近づくか。
いきなり登場して全力で駆け出したところで、魔術で迎撃されるのは目に見えてる。
俺すらも捕まってしまえばそれこそゲームオーバーだ。
俺が頭を悩ませている間にも、ベルギスは無抵抗のまま、オーガにさらに蹴りを入れられていた。
──ゴシャアッ!!
床が割れるような音が遺跡全体に響き、ついにベルギスの身体が力なく転がる。
俺は歯を食いしばり、拳を握り締めた。
指を咥えて見てることしかできないのか……!
「さぁ、オーガども──」
ザミエラが飽きたように、最後の指令を出そうとする。
──その時だった。
「わんわん!!」
──!?
遺跡内に高く響く、甲高い犬の鳴き声。
「えっ?」
俺が、いや、誰もが一瞬ぽかんとした表情で動きを止める。
……遺跡内には、一匹のプレーリーハウンドが場違いにも紛れ込んでいて……。
隣を見る。
そこにはすでにマルタローの姿はなかった。
(ちょ、ちょえええええ!!?)
気づけば、マルタローは遺跡内に飛び出してしまっていた。
崩れた壁の隙間から素早く入り込み、堂々と中央を駆け抜けていく。
(ばかばかばか!! アイツ、何やってんだ!?)
頭を抱え、唇を噛み締めながら、必死に「逃げろ」と祈りを送る。
……と思いきや、マルタローは特に何もせずにそのまま出口の方へと駆け去っていった。
遺跡内の全員が、唖然としている。
誰一人、あの小さな犬に興味を持っていない。
いや、ただの通りすがりの犬だと思っているのか、オーガたちは再びベルギスに注意を向けようとする。
──しかし。
「ッ……!」
ザミエラだけは違った。
彼女の顔から血の気が引き、戦慄したかのように指を動かしてオーガの一体に命じた。
「今の魔物を追え!! すぐに殺せ!! どちらでも構わん!!」
オーガが一体、慌てて遺跡の出口へと駆けていく。
「くっ……」
なぜ、そこまでしてマルタローを気に掛けるんだ。
とか、そんなことを考えている場合じゃない。
(行くしかない……!!)
俺は深くフードを被り、崩れた壁の隙間から遺跡内へと忍び込む。
影に身を潜めながら、ザミエラの方へと一気に間合いを詰める。
誰にも気づかれていない。
今にも心臓が張り裂けそうになるのを無理やり抑え込む。
(今だ……!!)
俺は不可視の神威を刃状に纏わせ、一気に影を断ち切る──
シュンッ──!
「──なっ?」
切断された影が一瞬で揺らぎ、淡い霧となって消え去る。
エミルとミーユの身体が重力に逆らえず、その場に崩れ落ちた。
「何……!?」
ザミエラは、いきなりの出来事に思わず目を見開いた。
しかし、俺の動きにまるで反応できていない。
すかさず俺は、二人の身体を抱え上げ、そして──
「ひいいいいいいっ!!」
一気に出口へと駆け出す。
全身からアドレナリンが噴き出すのを感じながら、俺は一気に加速する。
心臓がバクバクと鼓動を打ち、耳元で自分の血流音が響いていた。
(イケる……! このまま出口まで──)
──だが。
「は……離せ!! にいちゃん!!」
「ばっ……! おまっ、暴れんなッ!」
腕の中のエミルが突然暴れ始めた。
ぐっと捩じられた身体を支えきれず、俺の手からエミルが滑り落ちる。
「ぐっ……くそっ!」
エミルの行動は理解できる。
痛めつけられ、ボロボロの姿の兄を見捨てられる訳が無い。
しかし、その行動は悪手に過ぎない。
焦ってエミルに駆け寄ろうとするが、その奥で、ザミエラが既にこちらに焦点を当てているのが見えた。
ゾクリと背筋が凍る。
彼女と対峙するだけで、村を焼かれたあの日の光景が鮮明にフラッシュバックしてしまう。
ダメだ……。
タイムリミットだ。
俺の脳が瞬時に結論を導き出す。
──今からもう一度エミルを抱えるのは不可能だ。
しかしこのままでは、ゲームと同じ結末になってしまう……。
置き去りにして逃げるか、再度挑むか。
時間にしてコンマ一秒迷う。
その刹那。
ドクン──
その瞬間、ザミエラの向こう側から、強烈な圧力を感じた。
倒れていたベルギスが微かに動き、全身から解放される"圧倒的な密度"を誇る神威の波動。
立ち上がる気配はまだ無い。
だが確かに、あれは"起きた"。
俺も神威使いだからこそ、それが理解できる。
ならば、俺がすべきことは一つ。
全てを信じ、ミーユを抱えたまま駆け出した。
そのまま振り返ることなく走る。
ザミエラが後ろから魔力を纏い、追撃の構えを取っている気配を感じた。
しかし、もう遅い──!
遺跡から飛び出し、そのまま森の中を駆け抜ける。
冷えた風が汗ばんだ顔を撫でるが、そんな感覚すら意識から消えていく。
ザミエラからの追撃は来なかった。
理由は、わかる。
──ドォォォオオオオオンッ!!
──遺跡内部から、凄まじい咆哮と共に稲妻が落ちる轟音が響き渡る。
「オォォォォオオオオオッ!!」
同時に、まるで獣のような、それでいて怒りが込められた叫び。
遺跡の壁が揺れる音が遠くまで届いてくる。
それは、彼が"目覚めた"ことを知らせる声に他ならない。
お膳立ては済んだ。
どうだ──自由にしてやったぞ。
あとは好きなだけ暴れやがれ──"作中最強設定兄貴"。
そんな想いを胸に、俺は振り返らずに走り続けた。