第六十二話 「死なせねェぞ」 【三人称視点】
遺跡の広場に立ち込めた硝煙がゆっくりと漂う。
その中で、少年の声が響いていた。
「にいちゃん……! にいちゃん……っ!!」
埃にむせながらも、エミルは視線を彷徨わせる。
次第に濃い煙が晴れていくと、一人の男──ベルギスが姿を現した。
その身体は、血に染まり、腹部には痛ましいほど深い傷穴が開いている。
流れ出る血は止まらず、まるで命そのものが消えようとしているかのようだった。
「にっ……にいちゃん!!」
エミルは迷うことなく走り寄り、倒れ込んだ兄の身体を支える。
その腕に伝わる兄の体温は、冷たくなり始めていた。
「にいちゃん、しっかりして!!」
慌てながら、エミルは必死に詠唱する。
「癒しの力よ、今こそ治癒の恩寵を──『ヒール』!!」
淡い光がベルギスを包み込む。
だが──傷口は、ほとんど塞がらない。
「あぁっ……どうしよう……こんなに血が……」
震える声に、兄がかすかに応えた。
「エ……エミル……」
ベルギスは、息も絶え絶えに、口を開く。
その目は、どこか遠くを見ているようだった。
「死ぬ前に……母様の話を……」
「聞きたくない!! そんなの……帰ってから話してよ!! 癒しの力よ──」
必死に詠唱を続けようとするエミルを、ベルギスは弱々しい力で抱き寄せた。
「聞け……エミル……」
「うぅっ……」
涙が止まらない。
それでも──エミルは詠唱をやめた。
今の自分の力では、どうしようもないということを、薄々理解していたからかもしれない。
「母様は……生きている……魔族に囚われている……」
ぽたぽたと、血が床に滴り落ちる。
エミルは嗚咽を漏らしながらも、兄の言葉を必死に聞き取ろうとする。
「兄に代わって……セシリア母様を……助けてやってくれ……アステリア王国に戻るんだ……“女神の剣”のことを……詳しくは……大臣に聞け……」
ベルギスの声は、もはや震え、掠れていた。
だが、最後の力を振り絞って続ける。
「……わかったな?」
「……うん」
エミルは、兄の胸に顔を埋めて、しっかりと頷いた。
幼い顔には涙が伝い、泥と血で汚れた頬を濡らしていく。
「よし……ここから早く逃げろ……先程出て行ったオーガが帰って来る前──」
「──ぁ」
ベルギスの言葉が伝わりきる前に、エミルは息を飲んだ。
兄を抱きしめていた手が一瞬、硬直する。
兄の背後──渾身の一撃による雷が落ちた位置に、まだ立ち上がる存在があったからだ。
硝煙からゆっくりと現れる、真紅の魔族の姿。
彼女の全身は焼け焦げ、ボロボロの身体で、それでもなお立ち上がる。
その目には、憎悪と狂気が渦巻いていた。
「……ッ!?」
その姿に、エミルは恐怖を覚える。
魔族は焼けただれた手をかざし、指先に膨大な魔力を集中させた。
「『灼滅爆轟──』」
即座に撃ち出された赤黒い炎が、渦を巻きながら兄弟を飲み込もうと迫る。
高熱と爆風を伴う火系上級魔術。
その巨大な火塊は、容赦なく満身創痍の兄弟を狙い、空間を焦がしながら突進する。
エミルは目を閉じ、覚悟を決めた。
目の前の兄にしがみつくように、その手をギュッと、強く抱きしめる。
せめて、最期は一緒に──という想いを持って。
だが──
──ドンっ!
ベルギスは、その弟を想いを否定するかのように、震える手を前に突き出し、エミルを強引に跳ね除けた。
もはや意識も朦朧としていたはずの彼が、反射的に動いたのだ。
それは、考える間もなく身体が示した、たった一人の家族への"愛"。
「──にいちゃ……なんで!!」
エミルは泣き叫びながら遠くへ弾き飛ばされ、地面に転がされた。
彼の視界の端で、炎の塊が兄へと迫る。
そして、
────轟音。
激しい爆発が遺跡全体を揺るがし、灼熱の嵐が広場を飲み込んだ。
光と熱がすべてを支配し、咆哮のような爆風が空気を切り裂く。
石片が飛び散り、崩れた天井から無数の瓦礫が降り注ぐ。
「にいちゃあぁぁあんっ!!!」
爆風の中に響いた叫びは暴風の轟きにかき消され、広場にはただ、燃え盛る音だけが残されていた。
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十一年前
アステリア王国・王城の庭にて
「よーし、ベル! 今日はお母さんと一緒に魔術の練習をしましょ!」
明るく響く声に応え、少年は嬉しそうに母親に走り寄る。
今年七つになる彼は、誰よりも母を慕っていた。
「はい! 母様!」
母でありアステリア王妃・セシリアは、王国でも名高い美貌と知性を誇る女性だった。
だが、そんな立場にあることを感じさせない、母親らしい柔らかい笑顔を浮かべている。
「こう見えて、お母さんは凄腕の魔術師だったんだからね!」
「ほんとうですか?」
幼いながらも興味津々のベルギオスに、セシリアは自信満々にうなずいた。
「いい? まずは初歩の水魔術から教えるわよ。手のひらに魔力を集中させて、イメージするの。流れる水を感じて──」
「……こうですか?」
ベルギオスは言われた通りに手をかざし、魔力を放出する。
すると、すぐさま手のひらに透明な水球が生成された。
「ちょっとベル!! 教える前にやっちゃダメじゃない!!」
セシリアはぷんぷんと怒りながらも、どこか呆れたような笑みを浮かべていた。
その表情には、明らかに溢れる愛情が滲んでいる。
「ごめんなさい、母様……」
「もう、本当にあなたって子は……天才すぎるのも困りものね。でも、将来有望! 絶対モテるわ!」
そう言って、ベルギオスの頭を優しく撫でた。
だが、その微笑ましいやり取りは、突如割り込んだ低い声によって中断された。
「セシリア!! お前、またこんなことをしているのか!」
その場に現れたのは、ベルギオスの父であり、アステリア王国の王──ガルザードだった。
険しい表情でセシリアを睨みつけている。
「あら、見つかっちゃったわね☆」
「見つかったわね☆ じゃない! 安静にしておけとあれほど言っておいただろう!」
「??」
突然怒られた母を見て、ベルギオスはきょとんとした表情を浮かべる。
何が問題なのか、彼には理解できなかった。
「安静って……別にいいじゃない。たまにはこうやって運動もしなきゃ、身体がなまっちゃうわ。それに、ベルと遊びたいもの!」
「遊びたいでは済まされん! お前の身体は──」
そこまで言いかけて、ガルザードは言葉を飲み込んだ。
セシリアも小さく溜息をつきながら、夫に静かな視線を向ける。
「あの……母様は調子が悪いのですか?」
ベルギスの問いに、両親はふっと顔を見合わせた。
そして、微笑みながら息子を見つめる。
「ベル、あなたにはまだ言ってなかったわね……」
セシリアは優しく、ベルギオスの耳元に顔を近づけた。
「実はね、あなたに兄弟ができるのよ」
「兄弟……?」
ベルギオスは驚いたように目を見開いた。
セシリアは微笑みながら、自分のお腹にそっと手を当てる。
「そう、ここにいるの。まだ小さな小さな命だけれど……」
「兄弟……僕に……?」
ベルギオスは、まだ実感が湧かないように呟いた。
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「お生まれになりました! 男の子です!」
アステリア王国・王城の寝室にて、そんな声が響いた。
「まだ首が座っていないから、そうそう……ゆっくりね」
母セシリアが柔らかい声で促す。
その声を聞きながら、幼いベルギオスは小さな赤子をそっと抱き上げた。
「は、はい……」
いつもなら、どんな剣術でも魔術でも自信を持ってこなすベルギスが、今は手元の赤子に神経を集中させている。
赤ん坊の身体は小さく、頼りない。
少しでも力を込めれば壊れてしまいそうなほどだ。
「くすっ……緊張してるの?」
「き、緊張しますよ! なんだか全身がぐわんぐわんで……!」
ベルギスは真剣な表情のまま、そっと赤子の頬に触れる。
赤子の肌は柔らかく、温かかった。
小さな瞼がかすかに動き、目が開く。
淡い瞳が、不思議そうにベルギスを見つめていた。
「はっはっは、ベルギオス。大声を出したらビックリさせるぞ?」
父ガルザードが笑いながら語りかける。
その言葉に、ベルギスははっとして口を閉じた。
「ふふ……ベルが生まれた時も、同じように大声で泣かせてしまったのはどこの誰だったかしら?」
セシリアがいたずらっぽく目を細めて父をからかう。
「か、関係ないだろ!? それは……!」
「ふぇ……」
不意に赤子が口を開き、小さな声を漏らした。
瞳が潤み始め、泣きそうな表情になる。
「父様のせいで泣き始めましたよ」
「なっ……!? 嘘だろ!? よ〜し、良い子だ、泣くなよぉ〜! ほっほいっほっほほい!」
「ぶえ……ぶぇえええええ!!」
「……全然ダメね。もう、貸して」
セシリアが赤子を受け取り、その小さな頭を優しく撫で、落ち着いた声であやした。
母親の両隣にその父親と、兄が肩を並べてベッドの淵に座る。
赤子は再び静かになり、柔らかい吐息を漏らした。
「ふふ、やっぱりお母さんが一番ね」
「名前は決めてあるのですか?」
「……エミリオン……なんてどうかしら」
「エミルか。良い名前だ」
ガルザードが頷き、ベルギオスを見つめる。
「ベルギオス、お前の弟のエミルだぞ」
「エミル……」
ベルギスは、腕の中で静かに眠る赤子を見下ろした。
小さな生命が、自分に寄り添うように身を丸めている。
母、父、そして兄。
肩を並べて、赤子を見守る。
家族としての温かな瞬間だった。
「お前の名は……」
「あなたの名前は……」
「エミル……」
「「「エミリオン・ル・エルド・アステリア」」」
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その少年は、情けなく口を開き、兄の最後の姿を見つめることしかできなかった。
目の前では、燃え盛っていた炎が徐々に収束していく。
先ほどまで凄まじい熱を放っていた火魔術が、まるで吸い込まれるかのように霧散していった。
その奥に立つのは当然、傷だらけの真紅の魔族。
全身が焼け焦げ、ボロボロになりながらも、魔族は狂気じみた笑みを浮かべていた。
その視線がエミルを射抜く。
炎が消えた中心では、もはや生命の息吹を感じさせない、焼け焦げた身体が地に倒れ伏しているだけだ。
もはや、エミルに現実を受け入れることなど不可能だ。
彼の震える手が、兄の方へと伸びる。
「にい……ちゃん……」
だが、その手が届く前に、突然冷たい気配が周囲を包んだ。
影が蠢き、空間そのものが歪む。
黒い闇は一瞬で小さな身体を飲み込み、彼と共に床へと溶け、消えた。
「また……"愛"か……」
残された魔族は、忌々しそうにそう呟いた。
その言葉には冷徹な軽蔑が込められている。
「……チッ……」
勝利したはずなのに、どこか拭えない苛立ち。
彼女はベルギオスを見下ろしながら、彼女はふと静かに息を吐いた。
だが、その表情には、どこか複雑な感情が滲んでいる。
軽蔑と共に、わずかな違和感。
彼女の中の"何か"が心の奥底を掠めるように。
「まぁいい……だが、心配するなベルギオス。これから弟は、貴様が会いたくて止まなかった念願の母に会い、我が魔族の奴隷として一生幸せに暮らすのだから……」
魔族は、そう冷たく言い放つと、壁に埋まっているオーガの方へ視線を向けた。
瓦礫の中から見えるのは、すでに絶命した巨体。
魔族は手を翳し、残ったオーガの遺体に炎を灯した。
その火はじわじわと広がり、やがて遺体を焼き尽くし、灰へと還していく。
火の粉がゆらめきながら宙を舞う中、魔族は最後に振り返った。
焼け焦げた遺跡の広場、そして地に伏したベルギスの亡骸。
「"愛"……そんなものに縋るから、愚かな死を迎えることになる」
そう呟きながらも、彼女の目にはかすかな揺らぎがあった。
本当にくだらないと思いながらも、その未知数の力には何かしらの恐れを抱いているように──
硝煙が漂う中、真紅の魔族は焼け焦げた腕を押さえ、ゆっくりと息を吐いた。
「……チッ……このままでは持たないか」
全身が悲鳴を上げている。
肌はただれ、骨の一部が露出している箇所さえある。
まさかここまで追い詰められるとは、予想外だった。
彼女は悔しげに顔を歪め、ふらつく足を無理やり動かしながら、静かに身を翻す。
「また、ヴェインにからかわれるな……」
そう言い残し、魔族は闇に溶け込むようにその姿を消した。
静寂だけが広場に残される。
だが──
地面に倒れ伏した、もはや"燃えカス"とも言えるベルギスの身体が、微かに反応する。
指先が、かすかにピクリと動いたのだ。
──しかし、動けない。
どれだけ意志を振り絞ろうとも、焼け焦げた肉体は命令に逆らうかのように微動だにしない。
全身の感覚は既に無く、もはや死を待つのみの存在。
(……ダレ……カ……)
声にもならない、かすれた想いが、心の奥底から漏れ出る。
(……オトウト……ヲ……ダレカ……)
エミルの無事を願う想いだけが、意識の果てで燃え続ける。
それはもはや、想いというよりも、"怨念"に近いのかもしれない。
(……ニクキ……マゾクノ……テカラ…………)
──映像が走る。
あの日、母を連れ去られた時の光景。
何もできず、父も母も奪われ、そして弟さえも……
(……カアサマ……カアサマ……)
朦朧とした意識の中で、彼の想いは天へと昇るように放たれていくだけだった。
これが、アルティア・クロニクルにおける正史。
多少の誤差はあったものの、彼の死という"予定調和"は崩れない──
………………
…………
……
「死なせねェぞ……ベルギス」