第六十一話 「謎の救世主」 【三人称視点】
轟音とともに、オーガの拳が振り下ろされる。
──ドガァァアア!!
打ちつけられた衝撃が、岩盤すらも砕き、粉塵が舞い上がる。
ベルギスの足が地面にめり込み、鮮血が飛び散った。
──彼がどれだけ殴られたのか。
もう数えることすらできない。
オーガの拳はまるで砲弾のようだった。
一撃一撃が巨岩を砕くほどの破壊力を持ち、まともに食らえば、普通の者ならば粉々に吹き飛んでいたはず。
だが──
ベルギスはまだ立っていた。
足元はボロボロに崩れ、地面にはクレーターのような窪みができている。
神威でガードしていたとはいえ、その防御を貫通してダメージが蓄積しているのは明らかだった。
呼吸が荒い。
それでも彼は倒れない。
膝に手をつきながら、無理やり身体を支え、前を向き続ける。
「にい……ちゃ……」
震える声が聞こえた。
捕らわれたままのエミル。
拘束されたまま動かないミーユ王女。
彼らが見つめる先で、ベルギスはぐらつく視界の中、薄く笑みを浮かべた。
「だい……じょう……ぶ……だ……」
頭から流れる血が視界を赤く染める。
口の中には鉄の味が広がる。
身体が悲鳴を上げる中、再びオーガが吠えた。
「オラァッ!!」
両手を組んだ拳が振り下ろされる。
身も凍るような音が響き、ベルギスの身体が衝撃で揺れた。
──それでも尚、倒れない。
彼は膝を突くことすらせず、その場に踏みとどまった。
「はぁ……はぁ……もう手が言うことをきかねぇ……」
しかし、オーガの手もまた、ベルギスを殴り続けたことで血にまみれていた。
彼の身体は岩のように硬く、殴るたびに己の拳を砕いているような痛みが走る。
「クソがッ!!」
苛立ったオーガが、丸太のような足を振り抜く。
巨体が生み出す圧倒的な膂力による蹴り。
ベルギスは吹き飛ばされそうになりながらも、地面を転がることなく、すぐに足を踏みしめた。
ガクガクと震える足。
今にも砕けそうになる膝。
「ぐ……げほっ……」
血を吐きながら、それでもなお敵を闘志を持った眼で敵を見据える。
「う……お……」
「なんなんだ……この人族は……」
オーガたちの顔に戦慄が浮かぶ。
彼らは今まで数えきれない戦場を経験してきた。
人族をその手で何度も蹂躙してきた。
これほどまで殴っても倒れない相手を、彼らは知らない。
「頑丈だな。しかし、如何に神威といえど限界はある。明らかにダメージの蓄積が見られるぞ」
真紅の魔族が静かに言葉を紡ぐ。
彼女は冷笑しながら、ベルギスの身体に刻まれた傷を見つめていた。
確かに、彼の肉体は限界を迎えようとしている。
呼吸は荒く、身体はボロボロだ。
だが、オーガたちも攻めあぐねていた。
理由は一つ。
「……ギィッ……」
オーガが拳を握りしめた瞬間、手の骨が痛み、震えた。
何度も何度も殴りつけたというのに、砕けたのは自分の拳のほうだった。
まるで、絶対に砕けない岩石に挑んでいるような錯覚すら覚える。
「ハァ……ハァ……」
攻撃を続けば、いずれ勝てるはず。
それなのに──なぜか、恐怖が湧き上がる。
この男はどこまで耐えるのか。
どれだけ殴れば倒れてくれるのか。
「さっさとトドメを刺せ」
「うっ……」
真紅の魔族が、まるでつまらない茶番に飽きたかのように吐き捨てた。
その冷徹な声に、オーガたちも息を呑む。
恐怖を抱きつつも、ここで怯えた素振りは見せられない。
オーガたちは互いに目配せし、拳を握りしめながら再びベルギスへと向かっていった。
「……とっとと、くたばりやがれぇええッ!!」
鉄槌のような拳がベルギスの顔面にめり込む。
歪む視界。
それでも……倒れない。
ベルギスの足が地面に深く食い込む。
しかし、彼の眼光は未だに鋭いままだった。
その姿に、オーガは恐怖に似た苛立ちを覚え、次の一撃を振り上げる。
「ベルギオス……」
蹂躙が続く中、真紅の魔族の声が静かに響いた。
「貴様の旅も、これで終わりだ」
背後から別のオーガの拳が、ベルギスの腹部へと突き刺さる。
ベルギスの体が折れ曲がり、内臓は悲鳴を上げ、鮮血が口から噴き上がる。
「連れ去られた母を探し続ける苦悩から、解放してやろう」
その言葉とともに、オーガたちはさらに拳を振るった。
腹を抉るような拳。
背中を踏みつける蹴り。
肩へと振り下ろされる巨大な腕。
「私は知っているぞ。貴様が母親を探すために、どれほどの犠牲を払ったのかを」
真紅の魔族が、楽しげに言葉を紡ぐ。
その声は、ベルギスの精神を抉るように響いた。
鈍い音とともに、オーガの拳が顎を砕くように打ち込まれる。
ベルギスの意識が一瞬飛びかける。
だが──
それでも……それでも、倒れない。
震える足で立ち続ける。
「そして……旅を繰り返し、魔族をしらみつぶしに倒してはこう尋ねていったそうだな」
オーガの膝蹴りが、彼の肋骨を粉砕しながら吹き飛ばす。
意識が揺れる。
「『母様はどこだ?』と──」
吹き飛ばされたベルギスが、硬い床へと叩きつけられた。
床の一部が砕け、埃が舞い上がる。
「ふふ……貴様がしていたことは全て、意味の無いことだったのだ」
真紅の魔族が笑う。
その言葉が、ベルギスの胸を鋭く貫く。
「我々魔族が、たった一人の人族ごときに屈するなど、ありはしないのだから……」
オーガの蹴りが、倒れた彼の腹部に深く食い込む。
彼は……ついに立ち上がれなかった。
歯を食いしばり、力を込めようとするが、膝は笑うだけ。
肉体が……いや、もはや精神が尽きかけていた。
もう、立ち上がっても意味は無いのかもしれない、と。
「さぁ、オーガども──」
真紅の魔族は、待ちくたびれたと言わんばかりに腕を軽く振り上げる。
ようやく奴の心は折れた。
これで終幕だ。最後の一撃を加えてやれ、と。
その合図を受けた二体のオーガが、最後の一撃を加えようと構えた瞬間。
──「ワンッ!! ワン!!」
どこからともなく聞こえてきた声に、誰もが一瞬動きを止めた。
小さな、か細い鳴き声。
それは、その場ではあまりにも場違いな音だった。
オーガも、エミルも、そして息も絶え絶えのベルギスすら、その声の方へと目を向ける。
そこにいたのは──
白い毛並みに、左耳にベージュの模様を持つ、たった一匹の小さな犬の魔物。
彼は一瞬こちらを見たかと思うと、そのまま何事もなかったかのように駆け抜け、遺跡の外へと走り去っていった。
それだけだった。
故に、誰も驚かないし騒がない。
その魔物は、ただの「そこらへんにいる最弱の魔物」だ。
この"強者"のみで構成された舞台で、警戒する必要などありはしない。
ただ一人、真紅の魔族を除いて──
「……ッ!!」
彼女の顔から血の気が引く。
その指先が震える。
故に、彼女はすぐに手下たちに叫んだ。
「今の魔物を追え!! すぐに殺せ!! どちらでも構わん!!」
突如として放たれた指令。
その慌てた様子に、オーガたちも動揺する。
「は? あんなただの犬みたいなヤツ……」
「いいから追えッ!!」
その声には、明らかな焦りが滲んでいた。
一体のオーガが首を傾げながらもその後を追っていく。
あの魔物が、何なのか。
その場で唯一、彼女だけが知っていたから。
彼女は心の中で焦燥感を募らせる。
白い毛並みの小さな犬など、戦場では塵にも等しい存在のはず。
それでも、彼女にとっては「決して見逃せない存在」だった。
だが、片付けるべきものもある。
「貴様も、さっさとトドメを刺せ!」
残ったオーガへと視線を向ける。
オーガは肩で息をしながらも、その分厚い手のひらが、ベルギスの身体を掴もうと伸びた瞬間──
──シュンッ!
突如、今度は空気が切り裂かれるような音が響いた。
「──なっ?」
次の瞬間、不可視の斬撃がエミルとミーユを縛る影の根本を切断する。
影は淡く揺らぎ、そのまま霧散した。
自由になった二人の身体が、力なく崩れ落ちる。
「何……!?」
真紅の魔族は、思わず目を見開いた。
この場にいる誰もが予期できなかった唐突に起きた事象。
同時に、暗がりの中から一人の黒いローブを深く被った男が影のように現れ、瞬時に解放した二人の身体を急いで抱え上げると──
「ひいいいいいいっ!!」
──ただ、逃げ出した。
その男が誰なのか、何の意味を持った行動なのか、誰も理解できない。
誰もが呆けた表情を浮かべたまま、動けなかった。
唯一、意識があるエミルは現状を理解できず、男の腕の中で暴れ始める。
「は……離せ!! にいちゃん!!」
「ばっ……! おまっ、暴れんなッ!」
男は慌てて押さえたまま、尚もその足を止めずにいたが、暴れるエミルを支えきれず、遂に手から滑り落としてしまう。
「ぐっ……くそっ!」
男は諦めたのか、エミルを置き去りにし、ミーユのみを抱えた状態でその場から逃げ出した。
怯えたように悲鳴を上げながら、先程のプレーリーハウンドが走って行った方向──遺跡の外へと一目散に駆け去っていく。
彼の姿が遠ざかっていくところで、ようやく思考が戻ってくる。
瞬時に、魔族の目が鋭く光った。
(あの男は……!)
彼女の表情が一瞬にして変わる。
その男はフードで顔は見えなかったが、その"声"だけには聞き覚えがあった。
数ヶ月前に聞いた──とある男の声。
「逃がさん!!」
咄嗟に手を振り上げ、逃げる男に向かって魔術を放とうとする──が、
──ドォオオオン!!
彼女の背後で、轟音が響き渡る。
立て続けに引き起こる、"予想外"の展開。
「しまっ……!」
気づいた頃には、もう遅い。
──現在、人質は彼女の手から完全に離れている。
当然、その"刹那の隙"を、"流浪の王子"が見逃す道理は無い。
光が弾ける。
洗練された神威の解放。
「────ッ!!」
オーガが悲鳴を上げる暇もなく、圧倒的な衝撃がその巨体を吹き飛ばした。
壁に叩きつけられたオーガの身体が岩盤を砕き、遺跡内に激しい振動を巻き起こす。
しかし、それだけでは終わらない。
既にベルギスは、"最後の獲物"に向かって突き進んでいた。
「おぉぉおおおおおおッ!!!」
戦士の雄叫び。
彼は地面を全力で蹴り、突き立てられた己の愛剣を掴みながら、一閃の雷光となる。
血塗れの"戦士"が、黄金に輝く光を纏いながら突進する。
今まさに、『この一撃に全てを賭ける』と言わんばかりの、彼が得た最初で最後のチャンス。
その姿が、真紅の魔族を覚悟させた。
人質を盾にする?
無理だ、間に合うワケがない──
(──斬られるッ!)
雷速で迫る男。
その手に持つ剣が、完全に魔族を捕捉した。
「おのれぇええええええ!!!」
真紅の魔族が吠えるように叫ぶ。
彼女がこの状況で選んだのは──迎撃。
漆黒の大剣を上段に構えながら、同時に詠唱不要の"影の槍"を展開し、怒涛の刺突を繰り出した。
闇が凝縮された槍が、五本、六本、いや──瞬く間に数を増し、ベルギスの全身を貫こうと襲い掛かる。
──当然、満身創痍の男が躱せる道理は無い。
故に、槍が肉を貫く。
鋭い影の棘が肩を突き刺し、胴を穿ち、太ももを貫通する。
神威によってある程度の威力は抑えているものの、無傷というわけにはいかない。
それでも──それでもなお、彼は止まらない。
槍が刺さろうが、肉が裂けようが、彼は一歩も退かずに踏み込む。
(……くらえ……ッ……!!)
血反吐を雄叫びと共に吐きながら、それでも剣を握り直す。
極限まで練り上げた神威を武器へと伝え、極大のオーラを纏わせた必殺の一撃。
膨大な神威が刃に集い、光を放つ。
空間が軋み、周囲の空気が激しく震える。
その剣技の極致とも言うべき"破壊の刃"が、魔族目掛けて振り下ろされる。
ザンッ──!
「──〜〜ッッ!!」
しかし、真紅の魔族もまた無類の強さを誇る存在。
ベルギスの刃は深々と彼女の肩口へと食い込んだが、切断とまでは至らない。
魔族の鮮血が、返り血となって彼に飛散する。
「キサっ……マァアアッ!!」
──ズプッ!
彼女もまた、お返しと言わんばかりに大剣をベルギスの腹に貫き返す。
極限の相打ち。
「さっさと……死ね!! このッ……!!」
彼女はさらに剣を握り直し、刃を捻じ込む。
ベルギスの身体が痙攣する。
──しかし、その瞬間。
「……っ!?」
真紅の魔族の表情が一変する。
ベルギスの剣が食い込んだまま、バチバチと音を立て、異様な光を放ち始めた。
「なっ……これは……!?」
しかし、気づいた時には既に遅い。
鋭い痺れが剣から伝わり、彼女の筋肉が硬直する。
体の奥深くを揺さぶるような電撃が、骨の髄まで駆け巡っていく。
「受けよ……神の一撃……!」
──それは、魔力ではない。
"戦場を照らす光であり続けたい"という、彼の持つ"渇望"。
たとえ光が無く、血と硝煙で曇る希望の無い暗みの戦場でも、仲間たちが、家族が道を見失うことが無いように、光となって導きたい清浄な願い。
ベルギスの剣がさらに強く光を放ち、遺跡全体に雷鳴が轟く。
空間が軋み、天井に張り巡らされた古代の魔力が揺らぎ始め……
──そして、解放される。
「轟雷天裂剣!!」
極大の雷が、ベルギスと真紅の魔族の立つ場所へと落ちる。
──ズガァァァァアアアアッ!!!
雷撃が遺跡の天井を突き破り、崩れ落ちる石塊とともに二人の元へと炸裂した。
閃光が視界を焼き尽くし、地面が砕け、熱と衝撃波が荒れ狂う。
「────ッ!!!」
雷撃の中で、真紅の魔族の絶叫が響いた。
彼女の肉体を貫き、焦がし、灼熱の閃光が全身を焼き尽くす。
二人の姿が噴煙と粉塵の中に飲み込まれ、遺跡の外壁が崩落する音だけが、静寂の中に響いていた。