第五十九話 「仕組まれた罠」 【ベルギス視点】
水路を進むと、そこには埃まみれの檻がいくつも並んでいた。
どれも今は空っぽで、人の気配はないが、床の擦り跡や古びた縄の切れ端を見る限り、過去……いや、最近まで多くの人が囚われていたのかもしれない。
その光景が胸に重くのしかかる。
そして、水路の一番奥、薄暗い空間の中央に置かれた檻の中──
その中で、赤い髪をした少女が眠るように横たわっていた。
「ミーユ王女……!」
檻の中でミーユが小さく丸まるようにして眠っている。
近くまで行くと、息遣いが穏やかであることから、薬か何かで眠らされているのだろう。
「くそっ……!」
俺は檻の鍵を探そうと周囲を見渡したが、鍵はどこにも見当たらない。
仕方なく、鉄格子を手で握りしめ、力任せに引き剥がす。
ギリギリと金属音が響き、やがて鉄格子が歪み、バキリと音を立てて折れた。
エミルが中に入り、ミーユの身体を優しく揺さぶる。
「ミーユ! 起きて!」
「ん……んぅ……」
しばらくして、彼女がゆっくりと瞼を開けた。
「エミル……ベルギス……?」
「よかった! 怪我はない?」
「……私は……」
彼女はぼんやりとした表情で周囲を見回し、自分がどこにいるのかを確認するようにしている。
「どうやってここに連れて来られたのか覚えていますか?」
「……護衛だったはずの兵士たちが……」
ミーユはか細い声で語り始めた。
「私が一人になった途端、いきなり襲いかかってきて……何か布を口に押し付けられて、それで……」
薬か何かで眠らされたのだろう。
その後の記憶はほとんど無いらしい。
「そうですか……とにかく無事でよかった。ですが、まだ危ない。追っ手が来る前にここを出ましょう」
俺はミーユに手を差し出し、檻から出るよう促す。
だが──彼女は手を取ろうとせず、静かに首を振った。
「……別にいいわ……」
「え?」
「どうせ城に戻っても意味ないもの……」
そう呟くミーユの声には、どこか投げやりな響きがあった。
その瞳には、普段の生き生きとした輝きが失われている。
「どうして……」
「……お母様が、私を殺そうとしてるんでしょ……?」
その一言に、俺は息を呑んだ。
「──知っていたのですか?」
「なんとなくね……」
ミーユは膝を抱えたまま、小さな声で続けた。
「私、知ってるのよ……お母様は私なんて眼中に無くて……妹のナタリーを溺愛してること……そして、ナタリーに王位を継がせたいけれど、私が邪魔だってこと……」
彼女の目に涙が滲み始める。
「王位なんて……ナタリーが継げばいいのよ! 私はわがままで、問題ばかり起こしてばかりで……こんな私なんて、いない方がっ!」
「……そんなことを、本気で言っているのですか?」
彼女の言葉を聞き、胸の奥がざわつく。
だが、ミーユは俺の問いを無視し、自虐的に笑いながらさらに言葉を重ねた。
「誰も私なんて必要としてない! 護衛だった兵士だって、私を守るどころか……こうして裏切って……それが全ての証拠じゃない!!」
「──ッ!」
俺は彼女の頬に手を伸ばし、叩いた。
「……ッ!?」
「にいちゃん!?」
軽い音が遺跡に響き、ミーユがぶたれた頬に手を当てながら、驚いた表情で俺を見上げる。
「あなたの父、デュケイロス王は、どれだけあなたのことを思っているか……それを、あなたは何も分かっていない!」
「うるさいっ! アンタに何が分かるのよ!!」
ミーユが叫び返す。
その瞳には涙が浮かび、彼女の感情が爆発寸前であることが明らかだった。
「お父様なんて……私をなんとも思ってない!! 私が連れ去られても、助けにも来なかったじゃない!! あなたの言葉なんて信じられない!!」
「──王は、病気なのです」
「……病気? ハッ……知ってるわよ。でも従者も言ってたわ。大したことないって」
ミーユは目を赤くしながらそう言い放つ。
だが、その声にはどこか震えが混じっていた。
「表向きはそうでしょう。しかし、本当は長くない命です。城の者は誰も知りません。ただ……かつて王の親友だった俺の父、アステリア王の息子である俺にだけ、デュケイロス王は話してくれました」
「……え?」
ミーユの表情が一瞬で固まる。
隣にいたエミルも同じように呆然とした顔で俺を見つめている。
「……にいちゃん、王子って、何の話?」
俺は少しだけ視線を逸らし、深く息をついた。
ここで語るべきか、迷いもしたが、もう隠し通す理由はない。
エミルにも、ミーユにも。
「エミル。詳しいことは後で話す。今は王女を連れて脱出することが先だ」
「…………」
エミルの目に恐怖とも衝撃ともつかない感情が浮かぶ。
だが、俺は視線をミーユに戻した。
「デュケイロス王は……俺たちが彷徨っていた時に手を差し伸べてくれた恩人です。彼は自分の健康が崩れる中でも、娘であるミーユ王女を誰よりも大切に思い、王位を継ぐことを望んでいます」
「……そんなの、信じられない……!」
ミーユは両手で耳を覆い、頭を横に振った。
「信じられないのであれば、ご自身でお確かめになってください!」
「…………ッ!」
ミーユは耳を覆ったまま、膝を抱え込んで小さく震えている。俺の言葉は、まだ彼女の心には届いていないのだろう。だが、俺にはもう時間がない。彼女を説得する時間を奪うように、エミルが慌てた声を上げた。
「にいちゃん! 足音が聞こえる……誰か来る!」
エミルの言葉に、俺は一瞬にして周囲の気配を探る。
遺跡の奥から、複数の足音が近づいてくるのを感じた。
その音は、こちらを確実に狙っている。
「賊か……! ミーユ王女、立ってください。ここを出ます!」
俺はミーユに手を差し伸べるが、彼女は静かに涙を流したまま動かない。
耳を覆ったまま俯き、かすかに震え続けている。
「エミル! ミーユ王女を連れてここから脱出しろ!」
「えっ!? でもにいちゃんは!?」
「俺は後から追う。まずは王女を安全な場所に逃がすのが先だ!」
エミルは迷うように俺を見上げたが、すぐに決意を固めた表情になり、うなずいた。
「わかった! ミーユ、立って! 一緒に行こう!」
エミルがミーユの腕を掴み、無理やり彼女を立たせようとする。
最初は抵抗していたミーユだが、エミルの真剣な目を見て、少しずつその抵抗が弱まる。
「……エミル……私、どうしたら……」
ミーユがかすれた声で呟いた。
その間にも足音はどんどん近づいてきている。
俺は剣を抜き、二人を庇うように立ちはだかった。
「燃え滾る力よ、我が前に集いて顕現せよ──『火球』!」
複数の足音とともに、低い男の声が遺跡内に響き渡った。
次の瞬間、目の前に赤々と燃え盛る火球が飛来する。
俺は剣を振り上げ、その火球を叩き斬る。
火の塊は爆ぜ、熱風と共に燃えカスが飛び散った。
「クソっ! 追え!!」
前方から響く怒号。
廊下の奥から次々とローブを纏った賊たちが現れ、各々が剣を抜き放ち、または魔術の詠唱を始めている。
数に物を言わせる気だろう。
「走れ!!」
振り返らずに言い放つと、エミルが大きく頷き、まだ動揺しているミーユの手を引いた。
「にいちゃん、気をつけて!」
エミルの声を背中で受けながら、俺は剣を構え直す。
一人が詠唱を終え、再び炎の魔術を放った。
燃え盛る火球が左右から飛んでくるが、剣を振るい、空間ごと切り裂くようにその軌道を逸らす。
「なっ……!」
「こいつ、ただ者じゃねえぞ!」
怯む賊の間を縫うように、俺は前進し、剣の刃を踊らせる。
ローブを纏った一人の腹部に柄尻を叩き込み、崩れ落ちた彼の仲間をさらに切り伏せる。
「邪魔だ」
剣が鋼と血を混ぜ合わせた音を立てるたびに、賊たちの数が減っていく。
「早く始末しろ! ガキを逃がすな!」
賊の一人が叫びながら背を向け、エミルたちを追おうとするが──。
「逃がさん!」
俺は剣を振り抜き、その男の足元に一閃を走らせる。
石床が砕け、賊はバランスを崩して転倒した。
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俺は出口へと後退を続け、最後の数人を切り伏せていく。
賊たちの呻き声は途絶え、遺跡内は静寂を取り戻した。
(追手はもう来ないか……?)
息を整えながら、俺は廊下を抜けていく。
エミルとミーユは、もう出口付近まで辿り着いているだろうか。
廊下を進み、入り口付近の広間に差し掛かった瞬間──
ドガァアッ────!!
「……くっ!?」
突然、両隣の壁が轟音と共に崩れ落ち、噴煙が辺りを包み込む。
咄嗟に剣を構え、煙の中を睨みつけると、そこから二体の巨大な影が現れた。
「ククク……こいつか。ロータス様たちが言ってたガキってのは。本当にここに来やがったぜ」
「ハッ、こんなカスみたいな奴、一撃で潰してやるぜ!」
姿を現したのは、ギルド指定Aランクである二体のオーガだった。
どちらも三メートルを超える巨体を誇り、その片手には巨木のようなタルワールを軽々と握りしめていた。