第五十八話 「攫われた姫」 【ベルギス視点】
胸の中でざわつく不安を振り払うように、俺は全力で草原を駆け抜けた。
何かが起きている──その確信だけが、俺の身体を突き動かしている。
王都を出発してからまだ時間はほとんど経っていない。
走って戻ればすぐに城へたどり着ける距離だ。
王都の城門が見えてきた。
だが、その先の景色に、どことなく異様な雰囲気を感じる。
通りを行き交う人々はいつも通り活気溢れる街に見えるのに、空気の中に張り詰めたような緊張が混ざっているような……。
俺の中の「勘」が、再び危険を警告していた。
走るたびに響く靴音を無視し、俺は城の中へと駆け込んだ。
城に入ってすぐの広間では、デカード大臣が立っていた。
俺の姿を見た途端、普段の落ち着き払った姿からは想像もできない動揺が、その顔に表れている。
「べ……ベルギス殿!? 遺跡に向かわれたのではなかったのですか!?」
「遺跡には行きませんでした。どうしても嫌な予感がして戻ってきたんです。大臣、何か異常はありませんか?」
俺の言葉に、大臣は一瞬目を泳がせた。
「な、なにか忘れ物でもされましたか……?」
「いいえ。それより、何か気になることがあれば教えてください。ミーユ王女の様子は──」
「ん? はっはっは、ベルギス殿は相当心配性なようだ! ご安心ください、王女には腕自慢の護衛を数名つけております。おそらく、今頃は退屈そうにしておられることでしょう」
大臣は笑いながら答えるが、その笑顔はどこかぎこちない。
「……それより、少し見ていただきたいものがございます。どうかこちらへ」
「何です……? それよりも、まず王女の安否を確認したいのですが」
「いえいえ、大したことではありません。すぐに済みますので」
そう言うと、大臣は俺を促しながら城の奥へと歩き出す。
だが──その足取りに違和感を覚えた。
おかしい。
まるで意図的に俺をミーユ王女の部屋とは逆の方向に連れて行かれている感覚。
「…………?」
前を歩く大臣からは、微弱だが魔力の動きが見られる。
魔術を使っている素振りは無い。
なんだ……?
魔力そのものを強弱付けて発している?
大臣の手の動きはこちらから見ることはできない。
だが、今は不穏因子はできるだけ排除しておきたい。
この"違和感"を解決する為にも……。
「大臣」
「なんでしょ──」
俺はその瞬間、大臣の右腕を掴み、じっとその手元を見つめた。
「……動かないでください」
「なっ!?」
俺が掴んだ瞬間、魔力を発することは止めたようだが、まだ魔力の流れを感じる。
大臣から送っているのではなく、送られている……?
「……これはなんです?」
「えっ、な、なんのことでしょう……?」
大臣の指先に受けている魔力は、微弱ながら弱く強くを繰り返している。
まるで信号のように……。
「……誰かに送っているのか?」
「い、いえ、そ、そんなことは──」
さらに問いただそうとしたその時だった。
「ミーユ!! どこ!? ミーユ!!」
廊下の奥から、エミルの大声が響き渡る。
「エミル……!?」
俺は掴んでいた大臣の腕を放し、声のする方へ駆け出した。
廊下を駆け抜け、エミルの声がする場所にたどり着く。
そこは、ミーユ王女の部屋のすぐ近くだった。
「エミル! どうした!?」
「にいちゃん……! ミーユが、いなくなった……!」
「……ッ!? 状況は!?」
エミルが必死に涙を浮かべながら話す。
その手には小さな花の冠が握られていた。
「かくれんぼしよう」なんて言い出したミーユが、部屋の中に隠れたまま出てこないと思ったら、姿が消えていたという。
「どこにもいないんだ! さっきまで部屋にいたのに!!」
「落ち着け、部屋の中を探す!」
俺は部屋の扉を蹴破る勢いで開け放ち、中へと駆け込んだ。
だが──
「……くそっ!!」
部屋の中は荒らされた形跡もなく、何の異変も見当たらない。
まるで彼女だけが忽然と消えたかのようだ。
「────か」
「あぁ────だ」
窓の外側から、低く押し殺した声が風に乗って微かに聞こえた。
俺は勢いよく窓を開ける。
外に目を凝らすと、黒いローブを纏った複数の人影が城壁の内側を走り抜けていくのが見えた。
その中の一人が大きな袋を肩に担ぎ、時折周囲を警戒するように振り返る。
「捕らえたか?」
「あぁ、眠らせた。長居はできん」
クソ……!
全身がカッと熱くなるのを感じる。
俺は窓枠に手をかけ、迷うことなく身を乗り出した。
「にいちゃん!?」
「ベルギス殿!? 何を──!」
エミルとデカード大臣が慌てて叫ぶ声を背に、俺は地面に向かって思い切り跳び降りた。
着地の衝撃を両足で殺しながら着地する。
「大臣! 私は奴らを追います! このことは至急王にご連絡を!! エミル、お前は城内で待機していろ!! いいな!?」
窓から顔を出す彼らにそう叫びながら、俺は黒いローブの一団が向かった方向へと駆け出す。
一団は、やがて塀の隙間から外へと抜け出していくのが見えた。
俺もすぐに塀を乗り越え、後を追う。
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森の中は薄暗く、昼間だというのにほとんど光が差し込まない。
木々が鬱蒼と茂り、道らしい道もない。
だが、黒いローブの一団が残した足跡や枝の折れた跡がかすかに見える。
気配を辿るように、俺は森の奥深くへと進んだ。
一団の姿はもう見えないが、彼らが向かっている先に心当たりはある。
遺跡だ。
なぜそこへ向かうのかはわからないが、この状況で可能性がある場所を無視するわけにはいかない。
俺は足を止めず、森の中を全力で駆け抜けた。
しばらく森を抜けると、目の前に石造りの巨大な建造物が現れた。
苔むした壁や崩れた階段は、この遺跡が相当な年月を経ていることを物語っている。
「結局……ここに来るのか」
息を整えながら、俺は遺跡の入り口を睨みつけた。
不気味な静けさが辺りを包み、鳥のさえずりすら聞こえない。
嫌な予感がする。
遺跡にたどり着いた一団が中に入ったのは間違いないだろう。
だが、気になることが多すぎる。
暗殺計画を企てていたのなら、なぜミーユをその場で殺さず、わざわざ連れ去ったのか。
それに、もしカーライエン王妃が黒幕だとして、彼女の目的は何なのか?
ただ王位継承を自分の娘に奪わせるために、ミーユを排除しようとしているだけではない気がする。
大臣の動きも引っかかる。あの微弱な魔力は……?
あれが何かの信号だとすれば、大臣もこの計画に関与している可能性が高い。
「クソ……先に大臣を詰めた方がよかったか……?」
思わずそう口にしてしまうが、今さら戻るわけにもいかない。
ミーユを救うために、この遺跡の中へ突き進むしかない。
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薄暗い遺跡の中を進んでいくと、ひんやりとした湿気が肌にまとわりつく。
壁には無数の古代文字が刻まれており、どれも長い年月を経て色褪せている。
だが、古びた遺跡にしては不自然なことに、通路には魔力を光源とした魔道具がいくつも設置されており、淡い青白い光で道を照らしていた。
「……明らかに人がいるな」
俺は周囲に気を配りながら、剣を軽く構える。
足元には崩れた石材や苔の生えた瓦礫が散らばり、不用意に歩けば音を立ててしまいそうだ。
だが、魔物を警戒しながら進む俺に、まるでそれを出迎えるかのように死霊兵が現れた。
腐った肉の臭いを放ちながら、ゆっくりと歩み寄ってくるアンデッドの兵士たち。
その瞳には意思のない赤い光が宿っている。
「……邪魔だ」
俺は剣を一閃する。
薄い甲冑を着たアンデッド兵士の首が簡単に落ち、崩れた体は音を立てて地面に転がった。
さらに数体が襲いかかってくるが、いずれも剣の一振りで斬り伏せていく。
これらの魔物は俺にとって脅威ではない。
「……多いな」
奥から、さらに多くのアンデッドたちの呻き声が聞こえてくる。
俺はため息をつきながら剣を握り直し、一歩踏み出す。
次々と襲いかかる魔物を蹴散らしながら、奥へ奥へと進んでいった。
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さらに進むと、水路のような場所に出た。
遺跡の内部に張り巡らされた地下水脈のようで、かつては排水のために設けられたものだろう。
だが、その一部が崩れ、明らかに後から人の手で修復された痕跡が見られる。
整備されたような通路が、不自然に水路と交差していた。
「……なんなんだ、ここは?」
遺跡の古さと人為的な改修の痕跡が入り混じり、不気味さが増している。
俺は慎重に足を進め、壁の古代文字を目にするたびに警戒心を強める。
だが、ふとした瞬間、後ろから軽い足音が響いてきた。
「にいちゃーん!」
聞き慣れた声に振り返ると、そこにはエミルの姿があった。
「……エミル!? なぜこんなところに?」
「にいちゃんを追ってきたんだ。大臣がね、ミーユを攫った賊のアジトが遺跡にあるかもって言ってたんだ。だから、そのことを伝えようと思って」
エミルは少し息を切らしながら、俺に説明する。
「大臣が……?」
「うん。でも、結局僕がここに来た意味はなかったね。にいちゃんは一人でここに来ることができたんだから」
エミルはしゅんとした様子でうつむく。
おかしい……どう考えても、大臣は俺をこの遺跡へ誘導しているようにしか思えない。
だが、何のために?
俺が考え込んでいると、エミルが慌てて口を開いた。
「あ、えっと……ごめんなさい。言うことを聞かなくて……でも──」
「いや……黙ったのは怒ったわけじゃない。別のことを考えていただけだ。合流できたなら、それでよかった」
エミルの顔が少しだけ明るくなるのを見て、俺は安堵する。
とはいえ、大臣の意図は依然として謎のままだ。
だが、今は目の前の問題に集中するしかない。
「とにかく、ここからは一緒に行くぞ。だが、無理はするな。いいな?」
「わかった!」
エミルの元気な返事を聞いて、俺は再び足を進めた。
ミーユを救うために、この遺跡の奥深くへと──