第五十四話 「弟の成長」 【ベルギス視点】
夜の草原は、しんと静まり返り、冷たい風が緩やかに吹き抜けている。
頭上には無数の星が散りばめられ、遠くで虫の声が響いていた。
俺は簡素な野営用の鍋を取り出し、スープの準備をしていた。
エミルはその隣で火を起こしている。
まだ弟の手つきは拙いが、それでも確実に火をつける技術が上達しているのがわかる。
「お、今日はすぐについたな。戦いだけじゃなくて、火をつけるのも上手くなったんだな」
「うん! 剣術のお礼に、フェイのにいちゃんに教えてもらったんだ!」
エミルは嬉しそうに笑いながら、火を囲う石を整えている。
赤い炎が弟の顔を照らし、ほんのり赤くなった笑顔が浮かび上がる。
その姿を見て、自然と俺の口元も緩む。
鍋に野菜と干し肉を放り込み、塩と香草で簡単なスープを作る。
特別うまいわけではないが、旅の疲れを癒すには十分だ。
「ねぇ、にいちゃん」
「ん?」
「なんだか今日のにいちゃん、よく話してくれるよね。何かあったの?」
「そっ、そうか? 気のせいだろう……」
確かに、普段より話している自覚はある。
褒めることを意識しているからだろうか。
それとも、クリスさんの言葉が胸に引っかかっているせいか……。
変に思われたかもしれないが、それでもエミルが嬉しそうにしているのを見ると、このままでもいいのかもしれないと思った。
しかし、褒めると気づくことがある。
弟がどれだけ努力してきたか、どれだけ成長しているのか、今さらながら見えてくるのだ。
エミルは……どのように成長していくのだろうか。
俺はこれまで、エミルのことを"守るべき存在"としてしか見ていなかった。
弟を連れ回し、母親を探す旅に付き合わせることが正しいと思い込んでいた。
しかし──
エミルの未来すらも奪っているのではないのだろうか……。
赤子の頃から母親を知らないエミルにとって、母の存在など実際どうでもいいのかもしれない。
それでも、俺が勝手に使命感を背負わせ、彼を連れ回しているだけではないのか……。
「どうしたの? にいちゃん?」
「あ、いや……少し考え事をしていただけだ」
「ふーん?」
エミルは首を傾げ、器を両手で持ちながらスープを啜る。
炎の光が揺れ、彼の横顔がちらつくたび、何とも言えない感情が胸に湧き上がる。
「……エミル」
「ん?」
「お前は……将来、なりたいものとかあるのか?」
その問いに、エミルはスープを飲む手を止め、目をぱちぱちと瞬かせた。
「えっ?」
予想外の質問だったのか、少し戸惑ったような顔を見せる。
その様子に、俺はなんとなく視線を逸らしてしまう。
「別に……深い意味はない。ただ、気になっただけだ」
「う〜ん……」
エミルはしばらく考え込むように空を見上げ、やがてふっと笑顔を浮かべた。
「僕は……にいちゃんみたいになりたいな」
「……俺みたいに?」
「うん! みんなからも尊敬されて、いろんなところを旅して、強い男になりたい!」
その言葉に、俺は一瞬返事を失った。
「そ……そうなのか……」
何とか声を絞り出しながら、エミルの無邪気な笑顔を見つめる。
(尊敬……か。果たして、俺はそんな存在なのだろうか……?)
だが、エミルの目にはそう映っているのだろうか。
そう思うと、不思議と背筋が伸びるような気持ちになった。
再びスープを啜りながら、心の中でそんな決意を固めた矢先。
「ねぇ、にいちゃん」
「……何だ?」
「母さんは本当に生きてないの?」
エミルがふと神妙な顔つきになり、スープの器を膝の上に置いた。
その一言に、俺の心臓が跳ねた。
これまで何度もエミルには「母様は亡くなった」と説明してきた。
それは旅の本当の目的を隠すための方便だった。
見つかるかもわからない母親を探しているだなんて、変に希望を持たせたくもなかったからだ。
「……何度も言っただろう。母様はお前を産んだあと、すぐに──」
「それって本当?」
エミルは俺の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、子供らしい純粋さと、隠された真実を暴きたいという強い意志が宿っている。
「お前は、兄の言うことを疑うのか?」
「……うん」
「なっ!?」
思わず声を上げると、エミルは少し身を縮めながらも、強い眼差しを崩さなかった。
「本当は母さんは生きているんでしょ? にいちゃんは……魔族に攫われた母さんを探すために、世界中を旅して探してるんだよね?」
思わぬ告白に冷や汗が背筋を伝う。
俺の顔は硬直し、心の中で動揺が渦巻いていた。
「エミル……お前、知っていたのか?」
「何度か……色んなところで、にいちゃんが偉い人と話しているのをこっそり聞いてたんだ……」
エミルは少しうつむきながら告げる。
確かに俺が王族や領主に情報を尋ねる場面は、これまでの旅の中で何度もあった。
まさか、そんな時にエミルが隠れて聞いていたとは……。
言葉を失い沈黙していると、エミルは再び口を開いた。
「でも、それだけじゃないんだ」
彼は顔を上げ、その瞳にはどこか確信めいた光が宿っていた。
「夢も見るんだよ。これは上手く伝えられないけど、時々、夢の中で精霊さんたちが僕に囁いてくるんだ。そして……僕が生まれる前のことを映像みたいに見せてくれるの」
「精霊……?」
「夢の中では、豪華な服を着た父さんと母さんがいて、でも──魔族が城を襲ってきて、にいちゃんが戦っている姿も出てきて……最後には母さんが攫われるところも……」
「…………」
俺は愕然とした。
そんなことが……本当にあり得るのか?
だが、その内容は、家族が王族であることすら知らない彼にしてはあまりに正確すぎる。
そういえば、フェイさんも「大精霊が何とか」などと話していた。まさか、エミルが精霊と何らかの繋がりを持っているとでも……?
エミルは両手を握りしめ、さらに一歩俺に近づいた。
「にいちゃんが話してくれなかったのは、何かわけがあるんだと思うけど……でも、もう我慢できない! 僕はまだ子供で、知らないこともたくさんあるし、戦闘でも足手まといだけど……」
涙ぐみながら、彼は声を張り上げる。
「それでも僕は、にいちゃんと一緒に旅がしたい!! 僕も母さんに会いたい! だから教えてよ、にいちゃん!! 僕に隠していることを!! 僕たち家族でしょ!!」
「…………」
言い切るエミルの声が静寂の草原に響き渡る。
俺はしばらく黙り込んでしまった。
──だが、このまま黙っていてはいけない。
俺はため息をつきながら、腰掛けている岩の隣をぽんぽんと叩き、エミルに隣に座るよう促した。
「エミル……こっちに来い」
「え……」
「いいから」
エミルは少し戸惑った顔を見せながらも、俺の隣に腰を下ろした。
俺はその肩に手を置き、静かに言葉を紡ぎ始める。
「お前はいつも、妙に感が鋭いところがあって、カンタリオンでも、ルインフィードでも、これまで色んなところで誰も気づかないようなことに気づき、いつの間にか問題を解決してきて驚かされたが……今回のは特別驚いたな」 「…………」
エミルは黙ったまま、俺の顔をじっと見上げている。 その純粋な瞳に、俺はふっと小さな笑みを浮かべた。
「あんなに小さかったお前が、知らない間にこんなに成長しているなんて思わなかったよ」
「にいちゃん……」
エミルが俺を見上げる瞳には、安堵とも期待ともつかない複雑な感情が宿っていた。
「わかった……全て話そう」
「本当!?」
「あぁ。ただし、それは今回の旅が終わってからだ。ヴァレリスでの用事が済んだら、どのみちお前とは話す機会を作ろうと思っていたところだ」
その言葉に、エミルは小さく目を見開き、やがて静かに微笑んだ。
「そっか……わかった! 絶対だからね!!」
「あぁ、俺も少し整理したいからな……あの剣を……もしお前が──」
「?」
「いや、よそう。その時になったら話す……」
俺は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐにその場を取り繕うように話を切り替えた。
「……ま、先のことは後で考えよう。今はまずヴァレリスでの依頼をこなしてからだ」
「わかった!」
エミルは笑顔で頷き、再びスープを啜り始めた。
だがその横顔を見つめながら、俺の心はざわついていた。
精霊……夢……。
確証は何も無いが、もしも弟が"あの剣"に認められる存在だとすれば……俺は……。
夜の草原に、焚き火の炎が静かに揺れていた。