第四十三話 「彼との距離」 【マルタロー視点】
ボクはクリスに心を許した。
でも、クリスだけだ。
ここはどうやらクリスが何かお店をしているらしい。
外からは人の声や、荷物を運ぶ音が聞こえる。
でも、ボクはその音が怖かった。
お店に来る人たちが覗き込んでくるたび、ボクは隅に逃げて丸くなる。
「可愛いね」と笑いながら手を伸ばしてくる人もいるけれど、その手が近づくと体が強張ってしまう。
クリス以外は、まだ怖い。
ある日、扉が開いて、見知らぬ二人が店に入ってきた。
ひとりは白髪の老人で、杖をついている。
もうひとりは、黒い服を着た魔族の女性だった。
その二人は、入ってくるなりクリスと話を始めた。
「久しぶりじゃな、クリス」
「サイファーさん、レイアさん! 来てくれてありがとうございます」
ボクはすぐに身構えた。
知らない人は怖い。
けれど、二人がクリスの近くに座っても、クリスは全然怖がらない。
むしろ楽しそうに話している。
「む……このプレーリーハウンド……」
「あっ、その子噛みますよ」
白髪の老人がボクに気づいて近づいてきた。
クリスが慌てて止めようとするけど、老人は笑って手を伸ばした。
老人が手を伸ばす瞬間、ボクの鼻にその人の匂いが届いた。
──あれ、この匂い、知ってる……?
そうだ、この人はボクを檻から出してくれた人だ。
檻の中のボクを解放してくれた人。
だからなのかはわからないけど、その手にはまったく怖さを感じなかった。
ボクはその手に頭を擦り寄せた。
「あれっ? 私以外は怖がるのに!」
「ふふ、ワシらは魔物使いだと言ったろう? ワシの心はいつも全開じゃからのぉ! どうじゃ!? 見直したというなら、ワシの弟子に──」
「ごめんなさい」
「悩んでもないッ!?」
みんな楽しそうだった。
この二人には不思議と敵意を感じない。
だから、すぐに慣れた。
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最近、クリスの昔からの友達という「フェイ」という男が一緒に住むようになった。
その人は、クリスとよく話していて、クリスはすごく幸せそうだった。
だから、ボクもその人と友達になりたいと思った。
でも、怖かった。
彼の心には、どこか影のようなものが滲んで見える。
何か大きな痛みや苦しみを抱えているような、そんな感じがして、ボクは近づくことができなかった。
「マルタローも、フェイと仲良くなってくれたら嬉しいな」
「わふ……」
クリスはボクとフェイが仲良くして欲しそうだったけど、ボクから行くのは勇気が出なかった。
フェイの目も、ボクを仲間として見てくれることはなかった。
そんなある日、フェイがクリスと一緒にリンゴのお菓子を作ってくれた。
それはすごく美味しかった。
でも、フェイが手を伸ばしてきたとき、ボクは反射的に彼の手に噛み付いてしまった。
「ぃぎゃぁああああああ!! 何すんだよ!!」
「…………!」
ごめんなさい。
嫌われてしまったかもしれないけど、お菓子は本当に美味しかったよ。
ありがとう。
フェイとは仲良くなれないかもしれないけど、同じ仲間としては見てるからね。
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家が燃やされた。
その夜は、フェイも外に出ていて、クリスは手から水を出して必死に消していた。
ボクは怖くて、何も出来なかったけど、クリスは火を消した後、
「待っていてね、マルタロー」
そう言い残してフェイの行った方向に走っていった。
待っていれば、またクリスもフェイも帰ってきてくれる。
そう思って待っていた。
でも、外から聞こえたのは爆音と、嫌な予感を呼び起こす熱気だった。
ボクはいてもたってもいられず、走り出した。
走った先には、地面に倒れるフェイと、炎の中で笑う魔族がいた。
クリスの匂いがするけど、姿は見えない。
地面には、クリスがいつもつけていた手袋が落ちていた。
直感でわかった。
この魔族は"敵"なんだということを。
「グルァアアア!!」
気づけば、ボクは魔族に飛びかかり、全力で噛み付いた。
でも、その体は硬く、簡単に弾き飛ばされた。
恐怖がボクを覆い尽くした。
それでも、ボクは立ち上がり、倒れているフェイを守ろうとした。
あまり仲良く出来た思い出はないけど、せめてボクの世話をしてくれたお礼くらいしたかったから。
だけど、魔族が放った炎がボクを包み込んだ──
ボクは死を覚悟した。
その瞬間、光が降り注いだ。
そこに現れたのはクリスだった。
その体は半透明で、まるで霧のように透き通っていた。
クリスは倒れたフェイに手を差し伸べると、光が彼を包み込んで傷が治っていった。
「ありがとう。フェイを守ってくれて……」
『でも、ボクは何もできなかった……』
「ふふ、じゃあ一緒に戦ってくれる?」
『もちろん! クリスと一緒なら怖くない』
ボクは彼女の腕に飛び込んだ。
温かい。優しい。
この腕に触れた瞬間、痛みも恐怖もすべて消え去った。
──その後のことは、よく覚えていない。
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気がつけば、ボクはフェイに抱えられていた。
彼は傷だらけで、それでもボクを抱きしめていた。
すぐに飛びのいて距離を取ったけれど、その時のフェイの目は優しかった。
クリスはいない。
でも、その手袋だけが残っている。
「わふ……」
手袋に声をかけた。
……何も返事は返ってこなかった。
手袋の感触を鼻で確かめても、あの優しい手のぬくもりはもう戻ってこなかった。
フェイが大声で泣くのを見てわかった。
クリスはもうこの世界にはいないのだと。
ボクはまた、大切な仲間を失った。
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それからは、前にお店にも来たレイアという魔族が、フェイとボクを新しい家へ連れて行ってくれた。
山の中にあるその家には、大きな庭と広い居間があった。
ボクはその場所の匂いを嗅ぎながら、不思議と安心できる気持ちになった。
「ここなら安全じゃからの。お主も自由に過ごせ」
「わふ……」
レイアの声は少し低くて怖いけど、目の奥には優しさがあるように感じた。
それから彼女は、フェイの方に向かって何かを話し始めた。
ボクにはその内容がよくわからなかったけれど、フェイが小さく頷いているのが見えた。
新しい家には、たくさんの魔物がいた。
ボクよりずっと大きな体を持つものや、空を飛ぶもの、四本の腕を持つものまでいた。
最初は怖かったけど、みんなボクを歓迎してくれた。
『こ、こんにちは……』
『おっ! 新入りかぁ!? 』
『ミスティ、怖がってるわよ。私はチェイシー。よろしくね』
『……ティクロだ』
彼らはみんな優しかった。
クリスの家とは違うけど、少しずつこの家がボクの新しい居場所だと思えるようになった。
でも、夜になると、クリスのことを思い出してしまう。
彼女がいない夜は、怖い夢を見た。 再びあの檻に閉じ込められて、殴られる夢。
クリスが助けてくれると信じて待っていても、現れるのは誰かの冷たい目。
そのたびにボクは目を覚まして、震えながら朝を待った。
たまに、そんなボクに気づいたチェイシーがそばに来て、静かに寄り添ってくれた。
彼女の体は暖かくて、少しだけクリスの温もりを思い出すことができた。
『……安心していいわよ』
『……うん』
チェイシーが隣にいるだけで、少しだけ眠れるようになった。
でも、クリスのいない夜は、やっぱり寂しかった。
フェイとも一緒に過ごす時間が増えたけど、やっぱりどこか壁を感じた。
彼はいつもボクを見ては、難しい顔をして何か考えている。
「クリスに頼まれたんだ……俺が面倒を見ないと……」
「…………」
彼の目にはいつも影があった。
その目を見ていると、ボクもなんとなく居心地が悪くて、つい目を逸らしてしまう。
フェイは時々ボクに話しかけてくるけど、どこかぎこちない。
ボクもどう応えていいかわからなくて、なんだかお互いが遠い存在のような気がしてならなかった。
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ある日、チェイシーがフェイに叩かれた。
「……っ! 何やってんだよ! ちゃんと言うことを聞けよ!!」
フェイが怒鳴り声を上げると、チェイシーはじっとフェイを見上げた。
その目には怒りも悲しみもなく、ただ静かな光が宿っていた。
その夜、チェイシーがボクにそっと呟いた。
『ダメね、あの人族とも仲良くなれたらって思ったんだけど、私たちのことをあまり分かってくれていないのかも……』
『チェイシーもやっぱりそう思うんだ』
ボクも、彼と距離を縮めるのは無理なんじゃないかと思い始めていた。
でも、チェイシーたちはそれでもフェイと友達になりたいと言っていた。
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フェイがサイファーと喧嘩をして、家を出て行った夜のことは、今でも覚えている。
「お前は……クビじゃ」
「あぁ、クビにしたけりゃしろよ! マルタローも、俺なんかといるよりここにいる方がずっと幸せだと思うぜ!!」
居間で響いた怒声に、ボクは何も出来ずに見ているしかなかった。
フェイは「世話になったな」とだけ言い残し、サイファーの冷たい視線に押され、結局その場を後にした。
「……」
追いかけようかとも思ったけど、空気に飲まれて動けなかった。
それに、追いかけたとしても、フェイにとっては迷惑なのかもしれないと思った。
最後のフェイの目は、見覚えがあった。
それは、かつて森を追い出された時のボクの目と同じものだった。
だから気づいた。
フェイも、かつてのボクと同じように、"一人ぼっち"になってしまったのだと。
窓からフェイの背中が見えなくなるまで、ボクはその姿を追い続けた。
それでも、フェイが帰ってくることはなかった。