第四十二話 「ボクの世界」 【マルタロー視点】
ボクにとって、世界はモノクロだった。
他者に愛され、必要とされる白の世界。
誰からも価値を見出されず、必要とされない黒の世界。
「癒しの力よ、今こそ治癒の恩寵を──『ヒール』」
目の前が眩しい光に包まれ、痛みに覆われた体がじんわりと暖かくなる。
そんな真っ黒な世界の真ん中にいるボクに、まるで太陽に照らされたかのような白い腕が差し出された。
あたたかい。
そのぬくもりに触れた瞬間、ボクの体は力を失い、深い眠りに落ちた。
気がつくと、ボクは木のベッドの上に横たわっていた。
周囲を囲むのは、見知らぬ人族たち。
太陽が照らす草原のような色の長い髪の女と、少し年を取った人族の男がいる。
「イザール神父、どう?」
「うん、命に別状はないけど、二種類の傷があるね」
「えっ?」
「魔物から受けたであろう傷と、人によって付けられた虐待を受けたような傷がね……」
その男の人は、ボクの体に触れるたびに手から光を放ち、体の痛みを癒していく。
その光は温かく、痛みを溶かしていくようだった。
「たぶん、誰かに飼われていたんだろうけど、虐待を受けた上に捨てられて、住処であった森に帰るも、人族の匂いがついていたから、群れからも迫害されたんだろうね……。魔物を嫌う人は多いが、ここまでされるのは酷いな……」
「そんな……ひどすぎる……」
女の人が、何かを呟きながら、ボクにそっと手を差し出してきた。
「グルルァッ!!」
ボクは本能的に声を上げ、その手を払いのけた。
触るな──近寄るな。
誰も信じられない。
その手がどれだけ温かそうに見えても、ボクには信じる理由なんてない。
信じたら、また傷つくだけだ。
「あ……ごめんね……怖いよね」
彼女は手を引っ込めたけど、その目はボクを見つめたままだった。
優しい目。
けれど、ボクにはそれすらも嘘に見える。
でも、その女の人はボクを見て唇を噛み締め、ボロボロと泣いていた。
「クリス……この子はかなり人族に不信を抱いている。基本的には元に戻ることはないと言われている……」
「それでも構わない。放って置けないもの……」
でも、そのクリスと呼ばれた女の人は、ボクを見て唇を噛み締め、ボロボロと泣いていた。
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次の日、目が覚めると、ベッドの隅に小さな皿が置いてあった。
皿には、匂いだけで美味しそうだと分かる食べ物が乗っている。
見ると、クリスが遠くから様子を伺っていた。
ボクは警戒して皿に近づこうとしなかった。
ただ、空腹には勝てなかった。
一口食べる。
それは、ボクが今まで味わったことのないほどの美味しさだった。
思わず次の一口を頬張る。
「美味しい?」
少しだけ距離を取ったまま、クリスが微笑みながら言った。
ボクは彼女をじっと見つめた。
笑顔。
その表情に、どこか嘘がないように見えた──気がした。
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それから、ボクの毎日は少しずつ変わり始めた。
クリスはボクに触れようとせず、無理に何かをさせようともせず、ただボクが安心できるように静かに見守ってくれた。
食事を運んでくる彼女の姿が、毎日少しずつ、ボクの世界に色を足していった。
最初は薄い白。
次は柔らかい金色。
そして、ほんの少しだけ暖かなオレンジ色が混ざった。
ある日、彼女が差し出した手を、ボクはほんの少しだけ舐めた。
その瞬間、彼女の顔がぱぁっと明るくなり、嬉しそうに笑った。
「ありがとう……」
その言葉が、ボクの黒い世界に、初めて"白"を持ってきた瞬間だった。
そして、ボクは気づいた。
この人なら、信じてもいいかもしれない──そんな気持ちが、ほんの少しだけ芽生えていた。
「撫でてもいいかな?」
クリスがそっと手を差し出す。
その手は穏やかで、何の悪意も感じられない。
でも──
「グルッ……!」
ボクの体が反射的に震え、低い唸り声を漏らしてしまう。
クリスの手がゆっくりとボクの頭に近づいてくる。
その動きが、過去の"ご主人"の手と重なった。
ボクはその手に怯えていた。
殴られる、叩かれる、また痛みを味わう──そんな記憶が頭の中でよみがえる。
足が震えた。
耳が後ろに下がり、尾が巻き込むように下がる。
頭を低くし、身を縮める。
「……っ、ごめんね。怖かったよね」
クリスはボクが見せた反応に気づき、すぐに手を引っ込めた。
彼女の顔には申し訳なさそうな表情が浮かんでいる。
彼女はそれ以上何もせず、少し離れた場所に座り込んだ。
「無理に触ろうとしてごめんね。大丈夫、大丈夫だから」
彼女の言葉は、どこまでも優しかった。
それでも、ボクの心の中には、まだ深い黒い影が渦巻いていた。
頭上に来る手が怖い──それだけで、体が動かなくなる。
それでも、彼女は諦めなかった。
毎日、夜が怖かった。
寝ている時、なぜか前のご主人がよくボクの前にいて、たくさん殴られた。
でも、気付いたらクリスが一緒に寝ていてくれて、ボクはとても安心した。
次の日も、その次の日も、毎日彼女はそばに座って静かにボクを見守った。
無理に近づいてくることも、触れようとすることもなかった。
気づけば、ボクは少しずつ彼女の隣にいる時間が心地よいと感じるようになっていた。
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ある日、ついにその瞬間が訪れた。
「ねぇ、触ってもいい?」
クリスが再び手を差し出す。
以前とは違い、その声にはどこか安心感があった。
彼女の手が、ボクの頭のすぐそばまで伸びてくる。
──怖い。
体はまだ少しだけ震えているけれど、それでもボクは逃げなかった。
目を閉じて、その手が触れるのをじっと待った。
そして──
「大丈夫だから」
その手が、そっとボクの頭を包み込むように撫でた。
温かい。
どこにも痛みはなかった。
むしろ、ボクの中にあった冷たい何かが、その温もりによって溶けていくのを感じた。
「よく頑張ったね。怖かったよね。でも、もう大丈夫だから」
クリスの優しい声が耳に届く。
ボクの体の震えが、少しずつ止まっていく。
彼女はそのままボクを抱きしめてくれた。
その胸の中は、信じられないほど柔らかくて安心できた。
「もう怖くないよ……よく頑張ったね」
"もう、怖くない。"
その言葉が、ボクの胸の中に確かに響いた。
クリスの手が再び頭を撫でる。
──痛くない。
その手は、ボクがずっと求めていたものだった。
温かくて、優しくて、決して裏切ることのない手。
「わふ……」
長く、長く。
黒い世界を歩き、また歩き。
ついに辿り着いたこの場所で、小さなボクの魂は、
この世に生まれた意味を知った。
『この人と、一緒に生きたい』