第二百二十三話 「圧倒」【三人称視点】
泉が延々と広がる白の間──旅の扉の“内側”。
その中で、ひときわ硬質な光がはぜた。
「がッ──!?」
最初に弾かれたのはレイアだった。
水柱が杭みたいに伸び、その先端で彼女の細い体が跳ねる。
「ぬぅッ!?」
脇にいたサイファーでさえ一瞬、何が起こったのかすら視認できないでいた。
今の今までレイアに踏み潰されていた男──フェイクラントが、突然視界の縁を切り裂くように疾ったのだ。
彼が過ぎるたび、泉は轟きながられ、巻き上がった水滴が花粉のように空気へ浮遊する。
しかし、彼の五感の中では音は消え去り、全てが遅く、爆ぜる水飛沫でさえも止まって見える。
これが彼の独奏。
白鎖の・正午歌。
体感の時を“遅らせ”、己の稼働だけを正午の影のように短く縮める、彼独自のルール。
二度と非日常が差し込まない“陽だまり”を求めた結果の、あまりにも個人的な時間操作。
外からは、彼一人だけが加速しているだけに見えるだろう。
しかし──
「…………求道か」
飛ばされ、そのまま水面を二歩で受けたレイアが呟く。
紅い瞳が細く絞られる。
彼女の眼にもこの瞬間、フェイクラントは“速い”。
だが構造が違う。
世界を包む幕の密度は変わらない。
変わっているのは、彼ひとりの楽器調律だけだ。
第四位階が開いた。
けれど、その効力はあくまで“己のみ”を変容させる求道の系譜。
万象の刈り取りへ流れを敷いたヴェインとも、世界側の針を遅らせるレイアとも、種類が違う。
「ミーユとベルギス……奴らと一緒じゃな」
「あぁ……」
並べられた名は、いずれも現在のフェイクラントと同じ系統の第四位階者。
片や己に炎の理を反映させる者、雷へと変換させる者。
"己を別のものへと変質させる求道者"
たしかにフェイクラントの渇望は「世界の時間が止まればいい」という外向きの言葉を持っていた。
それなのに、結果は内向き──なぜか。
理由は単純。
"大魔王"の掌の上で居たくなかったから。
"覇道"を指名された──だが彼は首を縦には降らなかった結果。
つまり、“筋書き”に乗ることを拒んだのだ。
それは親の敷いたレールを、自ら外れる子のように。
覇流に身を投じるほどの力を持ちながら、最初に選んだのはその逆。
世界を書き換えるのではなく、己の“拍”だけを密室化し、外部からの干渉を断つ独奏。
掌の上で踊るくらいなら、舞台ごと遮断してしまえ──そういう、本能的な逆説。
「いいぞフェイ……それじゃそれじゃ」
サイファーが鼻の奥で笑った。
鱗の肩に、長い年月を生きた勘が逆立つ。
フェイクラントは止まった飛沫を踏み台に、一直線にサイファーへ入る。
一歩目。水面が布のようにたわむ。
二歩目。秒針がさらに沈む。
三歩目──届く。
鱗の肩口、刃ではなく指の腹で払う。
紙一重──火花が走った。
黒鉄めいた鱗に、爪の幅ほどの白い罅が入る。
「ふはっ! コイツは想像以上じゃな!」
サイファーの瞳孔が獣の細さに収束する。鱗の肩がぴき、と鳴った。
──手加減していたら、命を落とす。
長命の本能が、いまようやく危険度を正しく織り上げる。
対してフェイクラントは、自身の“時間差”に感覚が追いついていない。
視界を除く他の全て──つまりレイアを蹴り飛ばしたのも、サイファーを斬った手応えも、それが必殺となりえたのかも、あがる二人の声が断末魔なのか、それともただの呟きなのかも……噴き上がる水の感触すらも感じられない。
ゆえに、彼が選ぶ次の拍は──
「魔物術……」
水面が張りのある布のようにたわむ。フェイクラントはその反発を踵で弾き、天へ。
正午の影がさらに短くなる。こめかみの奥が、キンと鳴った。鼻の奥が熱い。長くは保てない――直感が告げる。
「──『劫火の咆哮』ッ!」
落下と同時、咆哮が空気の骨格を砕いた。
炎が花開く。
一本ではない。
衝程のズラしを刻んだ波状の炎帯が、扇の要から幾重にも折り重なって落ちる。
白世界を焼く朱が、泉の縁から縁まで覆い尽くしていく。
「おいおい、マジかフェイ!」
神威もそうだが、魔物術もまた底力を増していたことは明瞭。
躯の内側に張り巡らされた“魔素の導管”が、ひとつ位相を上げたのだ。
「──レイアッ!!」
「わかっとる!!」
先に吹き飛ばされたレイアが、滑るように水面を走り、そのままサイファーの背へ密着。
サイファーは頷きもせず、顎を引く。
「──『凍てつく息吹』ッ!」
蒼白の奔流が咆哮した。
極低温の槍が頭上へ逆落としに伸び、降る劫火と真っ向から噛み合う。
轟音────
白と朱の咆哮が、嚙み合い、抉り合い、擦り合う。
熱と冷の衝突は瞬時に大量の蒸気を産み、白の間は無音の雷鳴に満たされた。
圧で水面が沈み、泉の底が一拍、見える。
だが、炎の鉢が世界を呑み込む最中──
影が、一本。
「まだじゃァッ!!」
火幕を裂いて跳ね出た。
レイアだ。
さっきまで幼い肢体だった背に、薄革めいた黒翼が二枚、ばさりと生えた。
蝙蝠のような骨格、しかし羽縁は夜霧のように曖昧。
瞳の赤は刃に、呼気は夜気に。
神威の密度が、段違いに重い。
「同じ位階でなければ、話にもならんようじゃの」
呟きと同時、空気の粘度が変わる。
つまるところ、使ったのだ。彼女も。
神威第四位階は第四位階でしか対処不可能。
白の間に夜のうす膜が降りた。
空気のねばりが変わる。
水粒の落下がひと拍だけためらい、正午の光と夜の帳が空中でかち合う。
──速さの利は、相殺。
結果──互いが得意とする速度の優位は、完全に消えた。
残るは、神威を絡めた肉弾戦のみ。
──間合いの端で、拳が会話を始めた。
ゴッ、と鈍い衝突。
レイアの前腕が刃の角度で入る。フェイの拳は外へ弾かれ、反射で肘が返れた。
互いの神威が薄い鎧になって、肉の音だけが濃く響く。
「フェイッ……ちょっとはっ……老体を労われッ!!」
「ガ、ァァアアアッ!!」
「聞こえとらんのか!? 厄介な能力じゃの!!」
レイアの足が消え、次の瞬間、影の刃が首筋に立つ。
フェイは顎を沈め、肩を切り、紙一重でやり過ごす。
刹那、前髪が一本、空で止まってから落ちた。
「ゴォォォオオッ!!」
胸で拍を刻む。呼吸・芯・間合い。
右の虚を見せ、左で押す。
レイアの小さな拳が内側から割り込む。手首の返しが鋭い。
拳が触れた瞬間、夜の重みが手甲から骨へ伝わる。
炎に呑まれたサイファーは、もはや遠巻きに息を呑むしかできなかった。
水底の影が揺れる。
飛沫の幕がはらりと降り、二人の姿を一拍ごとに切り取っていく。
踵と拳。
直上と直線。
二つの軌跡が、一点で交差する。
フェイの視界が白く焦げる。
正午の影はもう残っていない。夜の膜も同じだけ薄い。
互いの“加速”と“停滞”は、ここではただの前置きだった。
「オオオオッ!!」
「来い! フェイ! 最後じゃ!」
拳に渇望を載せる。
レイアの拳にもまた、夜の静けさが宿る。
刃のように細い意志が、少女の指先から真っ直ぐ伸びる。
最後の踏み込みであることは明白だった。
水が輪になって開き、蒸気が渦を巻く。
神威が拳に集まり、光が濃くなる。
そして次の拍。
ドンッ──
高い音が世界の骨を鳴らし、
白が爆ぜた。