第二百二十二話 「開く第四」
翌朝。
目が覚めて最初に飛び込んできたのは、マリィの寝顔だった。
髪を下ろしたマリィのあどけない寝顔。
いつの日か、コイツが俺の布団に潜り込んできたことを思い出す。
そして同時に、やっちまった、という感想も頭をよぎる。
どんな"初めて"だよ。まったく。
いや、見方によってはこれ以上ないほどロマンチックな状況だったのだが。
夢の中とはいえお互いの"初めて"が朝焼けの浜辺って……。
「はぁ……」
ため息が出る。
っていうか、ツバキやサイファーたちになんて言おう……。
いや、言わなくていいか……?
『お前、マリィに変なことしとらんだろうな?』
『してねーよ!!』
「…………」
いや、きっとちゃんと話せば受け入れてもらえるんだろうけど。
でも、なぜか、視界はクリアになった気がした。
とても大魔王が夢に介入してきた日とは思えない。
まだ少しモヤモヤとしたものは残っているが、これはきっとクリスへの罪悪感。
"クリスとなったマリィ"を選んでしまったような気がするが、もういい。
クリスの想いは十分伝わってきただろう。あの世界で。
あの時彼女は、ハウリングの中で小さく笑い、俺とマリィが結ばれてくれて祝福してくれていたのだ。
言っていいのかわからないけれど、なんだかようやくクリスを失った悲しみを癒やされ切ったような気がした。
なぜだろう。
命を生み出す行為だから、失った悲しみを癒せるのだろうか?
「んぅ」
とか、変態的なことを考えていると、マリィがごろんと寝返りを打つ。
薄いシーツのせいで、身体の形がくっきりと写ってしまうが故に、当然柔らかな部分は波打つように揺れていて──
「…………」
襲ってしまいたい感覚を必死で抑えつける。
調子に乗るなよフェイクラント。
砕けそうな俺の心を女神のように包んでくれて、痛みを感じながらも俺の全てを受け入れた彼女にそんな行動は許されない。
…………まぁ、実際女神なんだけど。
「────」
「………んぅ?」
なので、彼女の前髪をかきあげ、額に唇を落とす程度に留めておいた。
童貞の頃はもっと欲望のままにしてやるとか息巻いていたはずなのに、いざ一線を超えるとどうしてこんなに余裕が生まれるのだろう。
まぁいい。
彼女はこれからも一生大切にする。
しばらくは寝かせといてやろう。
夢の中では随分乱暴に扱ってしまったし。
女神の純潔を穢した罰は──サイファーとレイアさんにボコボコにしてもらうことで晴らすとしよう。
「…………行ってきます。マリィ」
そう声をかけて、部屋の扉に手をかける。
「……ん、がんばって」
閉める直前、彼女の返事が聞こえた。
そんな一言程度なのに、俺のやる気は何倍にも膨れ上がる気がした。
合わせ鏡の問題は完全に乗り越えた。
もう、俺たちは惑わされない。
だからあとは──俺が強くなるだけだ。
できるのであれば、今のニヤケが止まらない俺を完膚なきまでに叩きのめしてほしい。
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旅の扉──白世界
「がッ──!?」
レイアさんの小さな踵が、俺の胸を釘みたいに打ち付けた。
水飛沫が白い幕になって視界を塞ぎ、落ちた先に“それ”が来る。
幼女の足。
顔面にぴたり、と。
足裏の小さな弧が、額から鼻梁、口の上までを綺麗に塞ぐ。
「ぶ……ぶごっ……!?」
マリィとのやりとりの後、やる気が漲っているのはいいが、それでいきなり結果が変わることなんてない。
前日と同様、俺の体は再びレイアさんに踏み潰されていた。
圧。動かない。冗談みたいに動かない。
両手で押しのけようとしたが、石像みたいに微動だにせず、むしろ“深く”沈めてくる。
冷たい水が鼻に入り、肺が火を噴いた。
「随分と今日は機嫌がいいんじゃな。何かあったか?」
泉の向こう、サイファーの呑気な声が降る。
「──、──ッ!!」
答えられるか! 死ぬわ!!
「そんな場合ではあるまい。フェイ、いつまで甘えておる」
「ごぼッ──!?」
レイアさんの踵が、ほんの数粒、深くなった。
視界が水に溶け、音が遠ざかる。
世界がゆっくり縁から黒く焦げていく。
「いつも言っておるじゃろう。お主の力はそんなものか? 渇望を燃やせ。かっこつけるな。綺麗にまとめるな。……“今”、欲しいものをそのまま薪にくべろ」
……渇望?
肺が悲鳴を上げる。
脳が酸素を喰い尽くしながら、いらないものまで引っ張り上げた。
『君は私の代替なのだ。誰より神威の扱いに長けている』
クソ……黙りやがれ。
お前からもらった力で、俺は強くなりたいわけじゃない。
『覇道がいるのだ。覇道が……』
……黙れってんだよ。
なにが覇道だ。
なにが世界を変える力だ。
“あの野郎”の声が、黒い墨みたいに胸に垂れる。
甘くて冷たくて、世界の法則をなぞるだけで人を縫い付ける、最悪の絵筆。
当然──奴の生み出した円環の理は改変してやる。
無限ループの世界なんて、こんなにも悲しみが生まれている世界なんて誰がなんと言おうと変えてやる。
「────」
だが、ただの修行でさえ、このザマだ。
プライドに縛られている場合じゃない。
操り人形でいたくない。
でも、力は要る。今、要る。今すぐに。
じゃあ、俺の渇望はなんだ?
最強の戦士になりたい? 違う。
世界を救って英雄だとチヤホヤされたい? 違う。
思い浮かべるのは刃じゃない。
旗でもない。
──思い浮かべるのは、小さな道具屋。
ひだまりの中にある、みんなで笑って、楽しかった思い出。
スープの匂い、子供たちの笑い声。
朝はおはようって言って店を開き、片隅にある埃をまとめて掃除して。
そこには、俺の出会った大好きな人たちがみんないる。
ツバキのジト目。ザリーナの悪態。ベアトリスさんのため息。
ミーユの暴力に、アーシェの怒鳴り声。
ミランダさんとクロードさんが、それを一歩隣で酒を飲んで眺めていて──
そして。
『フェイ』
彼女が、俺の隣にいるのだ。
──守りたい。
ただそれだけじゃ足りない。
“戻したい”じゃ足りない。
もう壊れないように。
二度と奪われないように。
──だったら。
あの野郎のクソみたいな円環世界など、俺が変える。
無限ループの世界など、停止すべきだ。
代わりに、あの陽だまりだけが未来永劫、ずっと続けばいい。
そして今、この溺れそうな苦しみすらも。
「────ッ!!」
「なっ!?」
ピクリとも動かなかったレイアさんの脚を、容易く掬い上げる。
しかし彼らとて英雄。
その瞬間にサイファーが臨戦態勢になったのを見逃さない。
──瞬間、俺は疾走していた。
胸の奥で、何かがカチリと噛み合った。
心音が、ひとつ。ふたつ。……遅くなる。
水粒が、目の上で吊るされる。
踵の重みが“数字”になって、ほこりのように宙に漂った。
世界全体に、薄い膜が下りたように。
「──『独奏』」
俺の中で、確かに始まったのだ。
初めて手をかけたハズの位階であるにも関わらずに。
その力を使うための祝詞が、勝手に脳に浮かび上がる。
「『輪は虚を巡り、涙だけを増やす。
我が乞いは栄光に非ず、ただ陽だまりの永日』」
正直、クズが持つ渇望だと思う。
仮にも勇者がこんな世界を望むのは、どうかしてる。
「『絡繰の糸は我自ら断つ。
知らぬように、知られぬように、我ひとりの渇望を在らしめよ──“未知”であれ』」
誰があの野郎の言いなりになるものか。
これは、俺だけが想う、俺だけの渇望。
「『秒針を縛れ。円環を駆け抜けろ。光の一撃で燃やし尽くせ──』」
俺が望んだ物以外、全部止まってしまえばいい。
安寧を阻むものは、俺が叩き壊してやる。
「──『白鎖の正午歌』」
時よ、止まれ。
かなり遅くなってしまったことお詫び致します。
風邪で一週間ほどダウンしてたのと、色々多忙が色々と色々で……。
またじっくりと書いていきます。