第二百二十話 「心の拠り所」
俺は、どことも知れない黎明の浜辺で、純白の髪の彼女を抱きしめる。
照りつける朝焼けの光が、彼女の白に色を与え、淡い亜麻色に輝いている。
その彼女が、俺の"全て"を受け入れてあげると言ってくれている。
だから、もう包み隠さず全部言ってやろう──
「ふぇ……?」
「あのさぁマリィ、お前、空気読めてないって。本当、どうかと思う」
彼女は"あの子"と同じく純粋で、飾りがなくて、自分の言動が相手をどういう風にしてしまうか、まるで分かってないのは最初から俺の悩みの種だった。
人になりたての時は仕方ないと思っていたが、こうやって成長しても、やっぱり変わっていない。
あいつも「私のこと、好き?」とか平気で聞いてきたもんな。
ほんと、なんでもするとかそんなこと……女が素で言うなよ、危なっかしい。
「あ、ぇ、あれぇ……」
その証拠に、ほら今も、わけが分からなくなって驚いてるし。
「俺は怖いよ。マリィ」
結局、ハウリングが起きても起きなくても彼女は変わらない。
クリスの感情とか、そういうのを度外視してもほら、ずっと俺のことをただ真っ直ぐに見てくれている。
でも、俺はまだ──
「自分の気持ちの元が見えない。それが何処から生まれたのか自信が持てない」
俺も、マリィのことが大事だと思う。
今感じている温もりも愛しいと思う。
だけど、これは俺の気持ちか?
当たり前だと断言したいが、どうすればその裏が取れる。
どうすればマリィみたいに吹っ切れられる。
「色々考えたよ。言い訳も探した。さっき言ったことだって嘘じゃない」
夢で"奴"に「彼女と上手く踊るがいい」と言われてから、無意識に感じてた。
セルベリア大陸で、マリィの姿が人に変わった時、ほとんど確信を持っていた。
マリィと信頼関係を築くことが、イコール戦力向上の必須条件だと打算していたのは誤魔化しが効かない。
だからそういう、いかにも俺らしい打算を盾に、それとは別に湧き上がってくる気持ちを封印してしまいたかった。
ツバキ風に言うなら、運命力が強いのはこのせいか。
説明できない引力ってやつが、俺とマリィの間にあって、それが今の俺には恐ろしい。
「だってさ、操られてる気がするだろ……」
確固として厳然たる理屈に縋る。
そうすることで俺は俺であると思いたかった。
俺はフェイクラントとして、自分を見失いたくなかったのに、どうして……。
「マリィはどうやってこの苦しみを脱したんだよ。教えてくれよ。何を信じればいいんだよ」
「…………」
抱きしめて紅潮したまま、泣き顔の俺を見つめるマリィ。
なんだよ、恥ずかしいからそんなに覗き込むなよ。
我ながら、本当に情けない台詞を口にしていた。
こんな、自分でも気持ち悪くなる弱音の典型。
傍から見たら馬鹿でしかない。
…………いや、それが俺って言われるとそうなんだけどさ。
まして、現実の女からしたら全力で引くこと間違いなし。
俺がマリィの立場でもそう思う。
情けない。
泣きそうだし、女にもたれかかってるし。
だけどその自分すら、真実は誰なのかもわからないんだ。
「俺は奴の道具なのか? 一番古い記憶ってどれだよ? 俺の歳はいくつだよ? 親は? 俺が今までやってきたことは何だ? なんで今まで、自分のルーツに何の興味もなかったんだよ。おかしいだろ。親がいないんだぜ? 普通調べようとかするよな? 異世界と違ってあっちは色々情報を揃えるのも整ってるし、っていうか、なんでそこらへんの記憶も曖昧なんだよ!」
なのに、なのに俺って奴は今の今まで。
考えたらわかるだろ? フェイクラントは孤児なんだぜ?
そいつと性格も何もかも同じと言っていい俺が、親なんかいるわけなかったろ。
"そう設定されたキャラクターみたいな都合の良さ"で、自分の確信に迫る事柄へ無頓着。
あれだけの異常事態が発生して、世界がガラリと反転して、にもかかわらずにそんな俺は何者なのだろうかと、ろくに考えてさえいなかった。
ただありのままに、小説みたいだと思い込んで自分なりに動いていただけ。
「わけわかんねぇ。誰だよコイツ、頭おかしいだろ狂ってるよ。普通、もっとこの異常について調べたりするだろうが。何当たり前みたいにたった二年で順応して、平気で世界中旅してんだよ」
それは通常の人間が持つ思考なんかじゃない。
出来の悪い脚本に出てくる架空の人物めいてる。
意志を持って動いてる?
馬鹿を言うなよ、俺の意志って何だそれ。
記号の羅列か? ふざけんな!
「ありえないだろ。最初の村でいきなり殺されかけて、アニメみたいだとか思えば同じ命を持ってる魔物を殺すことにも躊躇なしかよ! 絶対おかしい、普通じゃない! そんな一般的な日本人がいるわけない!」
挙句、たった数ヶ月の修行ごときで俺は並の冒険者じゃ一生かかっても届かないかもしれないドラゴン種と戦えてたり、何千人も殺して至った境地にいる魔王にも食らい付いたりできてしまう。
神威の才能に千年も生きたレイアさんが驚いて言葉を失っていた。
"彼の方"から寵愛を受けた存在だと、暴虐の魔王ヴェインが言っていた。
流動──神威第五位階。
レイアさん曰く、その境地に達したのは二名しかおらず、考えなくても女神と大魔王であることなんてすぐに分かるはずなのに。
そして、その境地の者が作り出した存在である俺は、さしずめ奴の神威そのもの。
だから、誰よりも神威の扱いに長けている。
違う、そうじゃないと今はもう言い切れない。
じゃあ俺は、俺が俺であるために何を信じればいいというのか──
……もう、壊れそうだ。
でも──
「……私を信じて」
瞬間──膝から崩れ落ちそうになった俺を抱き止めるように、マリィは静かにそう言っていた。
「あなたが必要だと思う私を信じて。私の気持ちは私のものだよ。フェイが自分をわからなくても、私があなたを分かってる。フェイが言ってくれたじゃない。クリスじゃなくて、私のことが好きだって」
彼女の指が、そっと俺の涙を拭う。
「フェイがいて嬉しい。フェイに逢えて嬉しい。これからもずっと一緒にいたいよ。ねぇ、これも信じられない?」
「けど……」
けどそれは、あれだろう。
俺が"奴"の代わりで、マリィは女神の代わりだから……。
クリスの器になってるから……。
「フェイと"あの人"は違うよ。そして私も、クリスでもアルティアでもない」
俺の恐れを諌めるように、淀みなくマリィはそう言った。
「ごめんね、いっぱい、ほんとにごめんね。クリスの代わりだからでしょとか、すっごい馬鹿にしてたよね。ごめんなさい。だからこれは、私の本当の気持ちだよ。私はフェイがいい。フェイを選びたい」
「でも、本当にアルティアが想う大魔王への気持ちとかは無いのかよ……」
「うん……私がアルティアと繋がっているからわかる。彼女はあの人のことを特別だと思ってるし、感謝もしてる。でもあの人は……」
うーん、と唸りながら、マリィは言葉を選んでいる。
恐らく、それだけ形容しがたいらしい。
「なんていうのかな……私も彼女の記憶だけがうっすら思い出せるくらいだからわからないけど、少なくともフェイみたいに取り乱す人じゃないし、泣かないし、運命の引力? とかは全然信じてない人。自分の確固たる理屈による選択しか選ばない。悩まない。そういう人」
悩み顔をしながらそう言い切り、再びマリィは俺を見つめて小さく笑う。
「だから、フェイはあの人と全然違うよ」
つまり、奴のようなイケメンムーヴができない俺。
今、無様に自信をなくし、どうしたいか分からないまま衝動に流されている俺こそが俺らしいと。
「それって、褒められてないよな……」
自虐的な苦笑が漏れる。
漏れるけど……
「私は、そのフェイだから好きだよ。だってね、私も同じだもん。説明できない気持ちがあるから」
アルティアの気持ちがどうあれ、クリスの気持ちは本当にフェイが好きで、だから今言ってることも矛盾しているの、とマリィは小さくつぶやいた。
でも、明らかにもうマリィはクリスの感情すらも受け入れている。
……俺だってそうじゃないか。
フェイクラントの気持ちだって、ハウリングで既に分かってる。
見えないフリをしていただけだ。
奴は、クリスのことが好きで、クリスも奴のことが好きだった。
その二人は、もういない。
なら、いいじゃないか。受け入れても。
マリィはクリスで、俺はフェイクラント。
叶えられなかった二人の恋を、俺とマリィが受け継いでいく。
「もう、私のものだよ。クリスだって、一緒にいてほしいと願ってくれてる」
合わせ鏡が、俺たち四人の感情を反映させる。
アルティアとオルドジェセルは論外だ。
これは、普通の人間だけが持つ"関係"なのだから。
アルティアにとって、オルドジェセルは知り得る世界の全てだった。
奴の基準で物を知り、奴の思想に疑問を持たず、結果として人族の味方についたが、未だ奴の脚本に歌い踊る空虚な歌姫でしかなかった。
その彼女が、クリスを通じて、マリィを通じて、やっと人らしい感情を手に入れたのだ。
だから、マリィはアルティアじゃない。
「"フェイクラント"は、うん、そうだね。殴ってやりたいよ。クリスも怒ってる。なぁにが『今までありがとう』だって!」
それは冗談めかした苦笑混じり。
だけど覆い隠せない怒りの気持ちが確かにあったのを感じ取る。
フェイクラントは、俺が憑依しなければ死んでいた。
自信を無くしてクリスに心配だけかけて、ずっと自分本位に生きてきただけ。
「だから、フェイはフェイクラントとも違う。……あ、フェイってのはフェイじゃなくて……あぁっ、うーん違くて……」
その男を、クリスの想いが上乗せされたマリィが憤っている。
なんだか滑稽だ。
この浜辺に立っているのは俺とマリィだけなのに、たくさんの兄弟がいるみたいだ。
だけど、俺は言葉もない。
だって、俺には──
「……、……ッ」
大粒の涙と共に、俺は嗚咽を堪えながら声にならない声を出すしかできなかった。
嬉しかったんだ。
どうしようもなく。
マリィがクリスの気持ちもアルティアの気持ちも理解した上で、それでもマリィ自身がこんなにも俺が好きである理由を考え出してくれて、俺を選んでくれたことに。
声が出ないほど嬉しかったんだ。
何を信じればいいか、何を拠り所に、何を核として立てばいいか。
その答えを与えられた気がしたから。