第二百十八話 「君とどうなればいい」
――波がひとつ、寄せては返す。
「俺は…………」
声にならない声が、潮風にほどけた。
理解が追いつかない。
いや、追いつきたくないだけだ。
大魔王オルドジェセルの“声”が消えて、残ったのは波と朝焼けと――胸の底に沈む重石。
俺は、大魔王の“所有物”。
前回はあまり気にも留めないようにようにしていた。
ムカついて、殺してやると思って特攻すらした。
けれど、今は違う。
肌で感じてしまった。
“コイツ”はもう、ただ一つの結末しか見据えていない。
女神を“新しい世界の核”に据える。
そのために勇者も魔王軍も人族も、そして俺さえも、全部まとめて供物にする。
合わせ鏡みたいに、コイツの思考が手に取るように分かる。
俺は“道具”。
力があっても、それは俺のものじゃない。
コイツのプロットの上に書かれた一人の登場人物に過ぎない。
「ぐ……ッ……」
バカ言うな。
俺は俺だ。
自分の意志で動いて、泣いて、笑って、迷ってきた。
そう思っていた。思いたかった。
けれど、何も思い出せない。
親とはなんだ? 誰が俺を育てた?
日本で生きていた頃の記憶さえも、霧のように解けていく。
まるで、最初から大魔王のために擬似的な記憶を持たされていたかのように。
『つまり、擬似的な人なのだよ。君は、私が錬成した新種の生命体と言ってよい。分かるかな? この意味が』
もはや、ただ聞いているだけの傀儡となった俺に、しかしコイツは口を止めない。
砂に吸われるような間。舌で言葉を転がす気配。
『この世界は他者の魂を奪い取り、数百数千と内に混沌させることができる。君の言う”レベル”の概念。その行為は、死した彼らの回帰を妨害している所業に他ならん。
それが今、とてつもない規模での計画が行われている。君も聞いただろう? アステリアに存在する”塔”の起動、及びその為の人と魔の戦争。塔は、とあるシステムにより死した魂を吸収し続け、円環運動を止めている。そしてその未来──魔王軍の主戦力はザミエラ以外全滅。人族の軍勢も大打撃を受け、残るは勇者エミルと復活した私の闘い。
思い出せないかね? 君が最後、”げーむ”とやらで見た光景のことを。最大規模にまで世界のルールに反した”塔”で、究極の覇道を持つ私と、同じく唯一私を脅かすことが可能な勇者の一騎打ち。それが──どのような結末を導き出したのかを』
短い、間。
潮の呼吸が途切れる。
『────弾け飛ぶ。弾け飛ぶのだよ世界が。その時現行世界は死にいたり、旧秩序は一掃される。
つまり、勇者エミルも覇道を持っている。世界そのものに愛されながら生を受け、彼もまた、復讐と”世界を救いたい”という渇望を持ち、その想いは流れ動き、征服して書き換える。だが無論、そのような結末を私は望んでいない。女神アルティアもまた、”覇道”にはなり得ぬまま、彼女が世界を塗り替えるということはない。ゆえに、私は再び世界を回帰させるのだ。言わば勇者とは──世界が生み出した、旧秩序を滅ぼすためだけの自滅因子。那由多の時を繰り返そうと必ず生まれ、世界は幾度も滅びを迎えた』
そうか、つまり俺の存在理由は──
『食い止めよ、その結末を。勇者が私にたどり着く前に、君が”彼女”と共に”流動”に至れ。見飽きた私の既知を洗い流し、新たに芽吹く世界が観たい。他の魔王らも、他の実力ある君の味方らも、凡夫の賢しい偏狭さなど、彼女の光で吹き飛ばすがいい。己こそが”世界”であると、そう強く信じるのだよ。でなくば到底、私と対等には届き得ない。
君は私の現し身なのだ。他の誰より”神威”を操ることに長けている。
ゆえに、理解しているだろう?』
間を置き、そして弄うように、大魔王オルドジェセルは──謳うように締めくくった。
『女神は君のすぐ傍にいる。今再び、前にも増して、強く、深く絡み合え。
より完成へと近づくため、生まれ変わるのだよ、私の代替──私の息子よ』
そして同時に、声も気配も違和感も、奴を感じさせる全ての要素が波のように引いていった。
なにか、とてつもなく重要なことを言われた気がするのに、俺の脳はすでに許容量を大幅に超え、考えることを放棄していた。
後にはただ、茫然とした朝焼けの浜辺が残るだけで……。
「俺が……」
俺が奴の息子だと?
奴が俺の父親だと?
これまで培ってきたアイデンティティを破壊するようなその言葉に、俺は声もなく佇んでいるだけだった。
響く潮騒の音と共に、今では耳慣れた海鳥のリフレインが聞こえてくるだけ。
アルティア……クリス。そして……
「マリィ……」
俺は…………俺は、君をどうしたらいいんだろう。
自分の感情、自分の選択、確固たる意志を持って進んできたと思える道も、奴の言葉が真実ならば意味を持たないことになる。
全ては、女神が世界を塗り替えるための”流動”とやらを起こすために、ただそれだけのためにある傀儡。
クリスが好きになったのも、マリィのことを意識し始めたのも。
サイファーやレイアさんに殴られながら、それでも強くなろうと歯を食いしばったのも。
魔王軍に対する敵意も、誰かを失うのが怖い気持ちも、ぜんぶ、間違いなく俺の感情だ。
なのに、源泉が分からない。
どこまでが“俺”で、どこからが“奴”なのか。
マリィの言っていた合わせ鏡の怖さを、やっと骨身で理解した。
“自分”が輪郭を失っていく恐怖。
だからといって止められないのに、それすらおそらく奴の掌。
ずっと気になっていた"改変"も、奴の納得のいく世界を創れというものなだけ。
…………じゃあいったい、俺は何を信じればいい。
何を寄る辺に、何を核として立てばいい。
教えてくれ、マリィ。クリス。
俺は…………君と、どうなればいい?