第二百十六話 「俺とは」
視界が暗い。
合わせ鏡の影響で、意識を失ったまでは分かる。
「…………」
思えば、何かが変だ。
マリィは俺にダメ押しで身体を寄せ、意図的とも思えるようなほど俺への感情に開放的になった。
『近づかないで!』
『会いに来ないで……』
あれほど自分の感情に正解を決めることが出来なかったかつての彼女からは考えにくい。
クリスの心を受け入れることにしたのだろうか?
何のために、何を思って、言いたいことは色々あったが、マリィに問う気にもなれなかった。
それは、俺もマリィと繋がりたいと想っているからこそというのもあるが、もっと別の──
……今、俺が”役目”を背負ったということも。
モブという身分でありながら、塔の破壊という大役を背負うことになったのも。
そして──このタイミングで俺の渇望が”外”に向き始めたのに気づいたのも。
何かがおかしい……。
何か、総てを含めて誰かの掌。
その場の即興なんかじゃない、遠大なカラクリに絡め取られているような……そんな気持ちがしていた。
“俺は絶対にマリィもサイファーたちも見捨てはしない”
“だから必然こうなるだろう”
──とでも読み切られていたかのように思ったのだ。
ならば。
そもそも"俺"とは、そうした因果を引き寄せている俺とは一体何なのかと……。
マリィに惹かれ、彼女を想い、オルドジェセルに熱望されて、奴の配下と戦う。
……都合が良すぎる。
いくら異世界だからって、勇者でもなかった俺が……。
そんな俺とは一体──
『良いだろう。図らずとも合わせ鏡で滲み出た影響だ。では、これより以前以上の深い部分を教えよう』
奴の声が、胸の底に黒い墨を垂らすみたいに広がった。
単純で、逃げられない疑問。
──大魔王オルドジェセルの“代替”とは、すなわち何者なのか。
それを俺は、知っておかなければならなかった。
『“改変者フェイクラント”。再び、夢幻の境界で相まみえよう』
マリィの体温が、すっと遠のく。
肌、匂い、音、光――五感の配線が一本ずつ抜かれていくような感覚。
残るのは、ハウリングして膨らむ“奴の声”だけだった。
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「問一。君にとって“最古”の記憶は何だろう」
真っ黒な空間。
前に来た時と同じ場所――のはずなのに、今回は身体が動かない。
立っている感触があるのに、足は床を踏んでいない。
視界はあるのに、焦点がどこにも合わない。
できるのは、聞くことだけ。
さっきまで腕の中にいたマリィがどこにいるのか。そんなことすら、今はどうでもよかった。俺の意識は、声の持ち主に塗りつぶされていく。
「……よいかな? フェイクラントではなく、“君”の記憶だ」
“俺”の、記憶?
「思い出を古い順に並べるという課題は、どうしてなかなか簡単ではない。幼年、少年、青年、壮年、老年。そんな大づかみの箱に入れることはできよう。だが一つの箱を細かく仕切ってゆくほど、境目はたちまち曖昧になる。歳を重ねるほど、それは顕著だ」
相変わらずねっとりと、絡みつく語調。
意味は分かるのに、逃げ道を塞ぐようなリズム。
「ならば問二。君の年齢はいくつだろう」
…………は? 年齢なんて――
「ふっ、馬鹿な質問だと笑うかね。だが、よく考えたまえ。自分が生まれた“瞬間”を、年月日どころか時刻まで正確に覚えている者がどれほどいる? 結局のところ我々は“親を名乗る誰か”に教えられた数字を、そのまま“自分”と信じたに過ぎない。ステータスの表示も同じだ。誰が、何をもって“本当の年齢”だと定義する?」
そう言われた瞬間、思考が止まった。
言われてみれば、そういう意味で本当の年齢など言えるやつなど居るのだろうか。
「ゆえに問三。君の親とは、誰だろう」
声が、さらに近い。
耳ではなく、骨に響く。
「名前だけ聞いている顔も声も知らない何処かの誰か。その程度の認識しか君には無く、特にこれといった感慨もない相手だろう。ではこうとも言えることになる。そんな者らはいないも同じ。君には、親というものがいない」
待ってくれ待ってくれ。
俺に親がいない?
そんなことがあるのか?
いや、そんなことはおかしい。
だって、この世界に来る直前、ゲームにはしゃぎ過ぎた俺は、”親父”に壁を叩かれて──
「それは、本当に君の親かね?」
黒が、喉の奥まで沈む。
「君の部屋の隣に“住んでいた”者は、果たして、本当に“親”か?」
────ッ!?
違う、と言い切れない。
顔を思い出そうとしても、輪郭が煙のように逃げる。
声の高さ、指の太さ、匂い――喉元まで来て、何故か霧に紛れる。
「だから、四つめの問いを投げよう。かつて──君と私は同じ魂の保有者と言ったことは除外して、君は何だ?」
奴は、愉快そうに口角を上げた気配をまとっていた。
もはや俺には、何も思い出せない。
何も確かめられない。
奴の言葉に、完全に翻弄されていた。
「そう、君は──最古の記憶を選べず茫漠。そして己の年齢を証明することも出来ず、親の存在すら模糊として曖昧。そんな君は、一体何だ? フェイクラントという記号に縋られては困る。君が憑依するフェイクラントとは、この世界のこの時代に生きる男としての役割。たかだか数年前に被せられ、故に状況が変われば脱ぎ捨てるだけの衣にすぎない。夏と冬では装いも変わろう。日常と非日常では人生も変わろう。人生が変われば以前の己など別人に過ぎない」
息が浅くなる。
つまり──俺という人間は……。
「わかるだろうか? 君の真実──君は、私の……」
言葉が、そこで切れた。
---
「────ッ!?」
いきなり視界が焼け、光で満たされた。
誰かに名を呼ばれた気がして、俺は弾けるように目を覚ました。
「……ぁ」
目を、覚ましただと?
いや違う。
ここは──
「うっ……ぁあああっ!!?」
目の前には、”大空”。
落ちる、という感覚が遅れて脊髄を叩く。
はるか下――雲の切れ間に覗く大地は、絵地図みたいに遠く、金色に光る城が爪の先ほどの点になっていた。
風はない。
なのに体は宙に浮いたまま、ただ“ここ”に固定されている。
そして――彼女がいた。
長い亜麻色の髪が、光そのものをほぐしてゆくみたいに流れている。
真っ白な翼は羽根の一本まで輪郭がはっきりしていて、顔立ちはクリスとマリィが重なって見えるほどよく似ている。
けれど、瞳だけがどこか無に近い。
揺れない湖面みたいに、感情の色が落ちていない。
彼女は空中で滑るように前へ来て、片手をこちらへ向けた。
そのもう片方の手には――女神の剣。
鍔は翼の意匠、柄頭には淡い蒼の宝玉。
刃文は光の川みたいに流れ、薄い銀の上に細かな古代文字が走っている。
当然、俺はそれを見たことがある。
ゲームの最終盤面、勇者にしか装備できなかった、あのアルティア・クロニクルの象徴。
ここは、依然として現実なんかじゃない。
そう理解するのに、時間は必要なかった。
『そう――千年前の大戦の最終局面だ』
「────!?」
背骨に氷が入ったみたいに硬直する。
あの声。
胸の底に墨を垂らすみたいに広がる感覚。
『ザミエラ、ヴェイン、そしてエルジーナ。三魔王を退けた人族は、もはや戦える力を残していなかった。勇者と呼ぶべきルドヴィクも封印の制約で消え、残った私は、地上を瘴気で覆い尽くそうとしていた。だが――その時、彼女が現れた』
視界の端で、何かが黒く揺れた。
自分の腕だ――いや、“俺”のじゃない。
金色の髪が腰まで伸びており、肩には深い黒の外套。
身体からは黒い瘴気が煙のように漏れて、握れば世界の隙間がきしむような気さえする。
胸に走る紋は見たことのない文様。
呼吸ひとつで風景がわずかに色を失う。
――大魔王の視点だ、と悟るのに、時間は要らなかった。
『驚いたよ。君とマリィのように、私は彼女としばらく共に旅をしたが、どこまでも無感情な彼女が、ここまで感情的に殺意を向けられたのは初めてだった』
"俺"から放たれた瘴気が、彼女の剣のひと薙ぎで四散する。
白い翼がきらめき、剣身の古代文字が一瞬だけ強く光る。
彼女の横顔はやっぱりクリスに似ているのに、眼だけが遠い。
そうだ……いつの日か、黄金の浜辺で会った時も、彼女は確かこんな顔をしていた――
光が強まる。
刃が空を線引きするたび、世界の密度そのものが軽くなる。
体が動かない。
抵抗の意思はあるのに、手足へ命令が届く前に、視界が白に飲まれていく。
『私と彼女は戦った。片や――世界を守るために。片や――彼女を守るために』
意味がわからない。
どうして“彼女を守るために”、彼女と戦う?
『ふふ、滑稽だろう? 世界に呪われた彼女を守るために始めた戦いが、気づけば私と彼女は相対する羽目になるとはね。この時聞いた言葉は、確か……”それでも、この世界を愛したいから”だったかな? 蜜月の時を過ごした私よりも、彼女は世界を優先したらしい』
光はさらに膨らむ。
アルティアの輪郭が透け、髪が光粒になって溶けていく。
『そして――私は彼女に敗れた。君も知っているだろう、彼女の呪いを。触れた者の命を例外なく刈り取る。それは私にも及ぶはずだったが――彼女はそれをしなかった。世界を恐怖で満たした私さえ、彼女は殺さなかったのだ』
視界が反転し、黒が滲んでくる。
白と黒がぶつかり合って、やがて黒が勝つ。
『彼女は自分の命と引き換えに、私をこの世界から切り離した。空間ごと切断し、地図にも載らぬ大陸に私を封じたのだ』
ゲームのテキストよりもはっきりした歴史が、"奴"の目から流れ込んでくる。
吐き気にも似た違和感。
これは回想でも物語でもない。
事実の手触りがある。
『まあ、これは余興だ。私が言いたいのは、こんな勝敗の話ではない。その後に起きたことだ』
「────!?」
世界がぐにゃりとねじれ、色も音も角度を変える。
上下が反転する感覚のまま、視界が再構成され――
---
――朝が来た。
「……ぁ」
目の前に、いつか見た浜辺が広がっていた。
どこでもない、けれど“いつもそこにある”黎明の光。
波は静かに寄せて返し、水鳥の声が薄い空へ糸を引く。
砂は金をすり潰したみたいに柔らかく、潮の香りはまるで時間を持たない。
アルティアの故郷──