第二百十五話 「渇望の種類」
夜──
「はぁーっ! 疲れたぁ!!」
俺は勢いよく布団に寝転がった。
疲れた体に、柔らかい生地の感覚が染み渡る。
夕飯は完食、風呂で塩も汗も流した。
あとは寝るだけ──だが、明日以降の特訓のことも考えていかねばならない。
『サイファーとレイアさんを倒すまで』のビジョン……。
それは明確に見えたものではない。
今日で魔術剣を覚えることができたが、にわか仕込み程度の技を覚えた程度では、二人を脅かすほどでは絶対に無いだろう。
魔素はもう、十分に俺の身体に浸透している。
それはレイアさんの猛攻を耐え切った時点で、その効力を実感した。
ならば、やはり二人へ対抗するには、神威位階を引き上げるしか無い。
長く燻り続けてきた第三位階から、未知の第四位階まで……。
「確か……レイアさん、使ったことあるよな?」
思い出す。
かつて俺がヴァレリスへと向かう際、レイアさんが昼にも関わらず”夜”を展開した時があった。
あれは恐らく神威第四位階である──独奏。
彼女の渇望が何なのかはわからないが──恐らく何かを得ようとした結果、”夜”という形で能力になったのではないだろうか。
何度も言うが、神威は想いの力……。
自分が”こうなりたい”と思う力が、そのまま強さになる。
だが、レイアさんのアレは……違う気がする。
“こうなりたい”という力で周囲の環境ごとねじ曲げるのは、少しおかしい。
渇望には、種類がある……?
たとえば──
「……”世界が、こうあればいいのに”……とか?」
”俺が最強になりたい”のではなく、”俺以外が雑魚だったらいいのに”だと、なるほど……確かにこれも『渇望』の一つだ。
要は、己の内側に向いているか、外側に向いているか。
オルドジェセルも、たしか世界に通用する渇望があるだの言っていた。
だとしたら──その考え方が、位階の鍵に繋がるのか?
「じゃあ……俺の"外に向けた渇望"ってのは……」
──こん、こん。
と、そこで扉が軽く二度叩かれた。
起き上がる前に、分かってしまった。
廊下の空気が、"彼女"の気配にうっすら色づくのが。
「…………マリィ?」
鼓動が勝手に速くなる。
これも、合わせ鏡のせいだ。
マリィが、ベアトリスさんの言葉を無視して、一人できたのか?
だが、俺が約束を破って会いに行くならまだしも、彼女から来るなんて――
少なくとも、あいつは言いつけを軽々しく破る子じゃない。
「……………」
彼女は扉の前に佇むだけで、返事はしない。
きっと、何かしら理由があるのだ。
だからこそ、俺も。
「……入って」
なんの疑いをする余地もなく、扉を招く。
静かな軋み。
隙間から、月明かりと、彼女の匂い。
「フェイ……」
沈んだ顔で入ってきて、悲しげな目で見つめてくる。
マリィはそのまま歩いてきて、俺の隣にちょこんと座った。
「…………」
「…………」
沈黙。
布団がかすかに沈む音だけ。
何かを言いたがっているのはわかるが、マリィの口から言葉は出てこない。
ここで俺が変に聞いても、彼女にとっては良い気分ではないだろう。
…………って、この考えすらも伝わってしまっているな。
まぁいい。
「あー……その、昼はごめんな。ツバキと……距離が近くて」
とりあえず、昼のことは謝っておいた方がいいだろう。
あんなに怒っていたし、今のマリィはそのことを考えてはいないが、筋は通しておいた方がいい。
「ううん。私の方こそ、ムキになっちゃって……。それに、いっぱい“ごめん”って想ってくれてたから、もう大丈夫だよ」
「そっか。なら良かったよ」
「うん……」
また沈黙。
なんだか気まずくて、天井の節目を勝手に数え出してしまう。
そのとき、彼女がぽつり。
「大変だね……」
「……まぁ、な」
ただ二語。
それだけで、今の俺たちは通じ合ってしまう。
側から聞けば「ハウリング」のことなのか、「今、俺が直面していること」なのかすらわからない曖昧な言葉のはずなのに。
近くにいるだけで……いや、離れていても、なんとなくマリィの考えていることが分かってしまう。
そして近づけば近づくほど、その濃度は増していく。
だから今も、その「大変だね」という意味が、今の俺がぶち当たっている壁のことなんだとはっきり分かる。
「わかっちゃうの、辛くないか?」
「ううん、そんなことない……だって……」
言葉をとぎらせて、俺の方へと一歩分体を寄せる。
が、その体が触れることはない。
俺にしがみつくのを我慢している。
俺の感触や心を敏感すぎるほどに感じながらも、必死に心を抑えている。
触れてしまえば、きっと前みたいになる。
ぐちゃぐちゃになって、溶け合うくらいに己と彼女の境界線が曖昧になるほどに。
そしてだからこそ、俺たちは「会ってはいけない」とベアトリスさんから言われている。
それでも、彼女がきた理由は──
「ごめんね……来ちゃって。我慢してたんだけど、気がついたら部屋の前に立ってて……」
「いいさ。”心配して”来てくれたんだろ?」
「うん……」
言葉が尽きれば尽きるほど、合わせ鏡が勝手に補ってしまう。
だからこそ、下手な嘘はつけない。
適当な慰めも言えない。
座ったまま、マリィが足をぱたぱたと揺らす。
何かしたいのに、何もできない時の癖──かつて、クリスが安静を言い渡された時にもしていたソレ。
そして、ふと──
「私に、何か出来ることはない?」
そんなことを言い出した。
今までの拒絶なんて、最初から何も無かったように、あっけらかんと──
だが、そうふるまっているだけの心。
俺が担おうと思っている使命の内容を、彼女は既に知っている。
だから、説明する必要もない。
「無いよ。お前は俺より強いし……なんなら、俺じゃなくてお前の方が使命を受けた方がいいんじゃないか?」
「んー……私はフェイのそばにいれたらいいから」
「今んとこ、それもなかなか厳しいけどな」
「あはは……ごめんね」
誤魔化すみたいに笑って、布団の上を這う指先が、そっと近づく。
「謝るなって。……てか、今日の昼飯、すごく美味かった。ありがとな」
「! ……ふふ、全部食べてくれたの、嬉しかった」
何気ない会話を交わしながら、しかし、俺たちの意識は会話の中なんかには無く、布団に伝わせた手に集中している。
「…………」
「…………」
"触れてはいけない"
そんな言葉がよぎるが、彼女を目の前にして俺の思考は上手く働かない。
まるで、それが俺に差し出されたように見えてしまったから──
まただ──
彼女が目の前に居るだけで、俺の頭の中は彼女で埋め尽くされる。
それは、マリィも同じであることに変わりはなく──ついに。
ぎゅ……と、俺はその指先に触れる。
指だけだというのに、暖かな感触、柔らかな肌。
そして彼女はとても可愛くて、心地よい香りが漂ってくる。
五感全ての情報が心地良過ぎて、数秒間、また頭の中が真っ白になってきて──
「……だめだよ」
こちらのことを見ることもなく、マリィはそうつぶやいた。
でも、その手が引っ込められることはない。
むしろ──俺の指に、自分の指を絡めてくる。
「……そうだな」
口と手が矛盾したまま、自然に手を繋いだ。
マリィと手を繋ぐのは、彼女が人族になってから、ずっとそう。
彼女と手を繋ぐのは心地よくて、このままずっと繋いでいたい。
マリィも、それを望んでいる。
「でも、魔王と戦うなら、こんな変な症状なんかに負けてる場合じゃないもんね」
「あぁ……」
そうだ、これは俺とマリィで向き合っていかなければならないものだ。
わかってはいるけど、解き方は分からないまま。
けれど、今夜の彼女はどうもおかしい。
ハウリングが起き始めてから、ずっと「近づかないで」「触らないで」「会いに来ないで」の三拍子だった。
だが、今は俺の手も受け入れている。
クリスの「好き」を受け入れられない彼女の状態じゃ考えられない。
まるで、何か覚悟でも決めてきたかのようなそれ
と、ふと──
「フェイ……ちゃんと言ってなかったけど。ありがとうね、嫌いだったはずなのに一緒にいてくれて」
そんなことを言い出した
まるで黙っていたら心が通じ合ってしまうから、誤魔化すために出たような話題。
「嫌いって──」
言いかけて思い出す。
プレーリーハウンドだった頃の話か。
確かに、クリスが死んで俺とお前の二人が残った時は、この先のことが不安でしかなかったけど──
「別に嫌いってほどじゃなかったよ。苦手だっただけだ。あの頃の俺は、魔物の気持ちとか分かんなかったし、お前噛むし……いつも目の敵みたいに見てくるし。寧ろ、お前が俺のことを嫌いだったんだろうが」
つい小言を挟むと、マリィがむっと頬を膨らませる。
目は合わないが、ツンツンしているのはわかる。
「噛むはともかく、嫌いじゃないし、いつもそんな目で見てるわけじゃないよ。だいたい、それはフェイが私のことが嫌いだったから……」
言い淀んで、ふっと顔を上げる。
「あ、嫌いじゃなかったの?」
「お前こそ……」
ふと、目が合った。
紅潮した頬が、俺の理性を刺激する。
「ずっと嫌われてると思ってた……この人はきっと魔物なんか嫌いなんだって、敬遠されてるって。一緒にいてくれたのは、クリスがいたから仕方なくなんだって……」
「そりゃ、最初は俺も同じこと思ってたさ。でも………って、会話がループしてないか?」
胸がドクドクと高鳴っている。
また、手を通して互いの体が熱く火照り始めているのが分かる。
“こんな会話”、まるで中身なんてない。
ただ、手を離すきっかけが何もなく、それを長く続けたいが為に会話を引き伸ばしているだけ。
「そ、そっか。別に私、嫌われてなかったんだな〜。あ、あははっ」
「そ、そうだな……別に俺たちは、最初から嫌い合ってるわけじゃなかったんだな。新発見だ〜」
呆けたように互いの顔を見つめ合う。
いつの間にか、繋いでいたマリィの手が、俺の腕へ絡むように伸びていて──
つい、目で見つめ合ってしまう。
今、この瞬間、マリィの顔が輝くように綺麗に見えて……。
「…………ッ」
ダメだ。
これ以上はいけない。
今すぐ脳に指令を出して、マリィを遠ざけなければいけない。
だが、身体は金縛りのように動かない。
「はぁ……」
視線を落としながら、マリィがにじり寄ってくる。
「なんで我慢してたのか、わかんなくなってきちゃった……」
「お、おい……だめだって……」
「わかってる……これが私本来の感情じゃないことくらい……。けど、どうせ向き合わなきゃいけないなら……」
「……わかってる。マリィの言いたいことは、わかってるけど……これは──」
自分に言い聞かせるみたいに反芻する。
マリィの言葉が喘ぐようだ。
目を潤ませた顔が魅力的で、どうしても目を離せない。
「でも、どんな理由だろうと、今の私はフェイに惹かれちゃってて、フェイは私に惹かれちゃってるんだよね?」
上目遣いで確認してくるマリィ。
もう、何が言いたいのかわかってしまう。
歯止めが無くなってしまう。
“その選択”が合わせ鏡を解消しうるか否かは判別できない。
あまりにも危険だ。
──と、思っているのに、どうしても行動へ移せない。
意志とは関係なく顔と顔が近づいていく。
互いに、それにハッと気づき、鼻の触れ合うような距離で停止した。
「私は……いいよ? 後悔するかもだけど……。だって今の私たち、正気じゃないから」
「────ッ」
だめだ、止める気にならない。
っていうか、なんで止めようとしていたのか理由さえ曖昧になってくる。
「マリィ……」
言葉の続きを、飲み込んだ。
そっとマリィが目を閉じて、俺の唇がマリィの唇へと吸い寄せられていく。
月が雲に隠れて、部屋の明かりがひと瞬ゆらぐ。
あぁ…………。
今になって、俺の"渇望"のカタチが、脳裏に焼きつく。
"このまま──────ばいいのに"。
ダメだと分かっているのに。
どうしようもないハウリングにより、俺とマリィの心は耐え切れないかもしれないのに……。
「…………フェイ」
何も聞こえなくなる。
何も見えなくなる。
俺とマリィは──為す術もない合わせ鏡に導かれるまま、意識が途切れるまで身を委ね合った。
魔石の輝く光に包まれながら──
………………
…………
……
『素晴らしい。たった今、"覇道"の兆しが見えた……』